ソフィー・リニエールというご令嬢~マルクス の気苦労Ⅰ~
カラリと晴れた大空を高く飛んでいた一羽の鳥が急に下降し、ポプラの木に止まる。
マルクスは木陰で羽根を休ませる灰色の鳥を見た瞬間、思わずポツリと呟いていた。
「腹、減ったな……」
あの鳥は以前の山岳演習にてソフィーが矢で撃ち落とし、焼き鳥にして食させてくれたものと同じ種類。あの時の味を思い出せば、自然と腹も減るというものだ。
「なぁ、あの鳥捕まえて食わねぇ?」
マルクスは先頭に立つ男、ジェラルド・フォルシウスにダメもとで提案を試みた。しかし案の定「そんな時間はない」と軽く一蹴されて終わる。ほぼ予想通りの答えだ。
(これがお嬢さんなら、ケヤキを素材に、用意していた紐と拾った鳥の羽根で即席の弓作って、ガンガン撃ち落としてむしって解体してよく分からん調味料で美味いやつ作ってくれるンだけどなぁ)
だが、そんなことをジェラルドに零そうものなら、鋭い視線で『どういうことだ……?』と詰問されるのは必至。ソフィーにも、なぜジェラルドに余計なことをバラしたのだと憤慨される可能性が高い。
それはマズイ。
マルクスは今までの経験則から余計な話はせず、黙って足を動かすことに専念した。
いまは黒星の山岳演習中。
傾斜のキツい山をほぼ小走りの速度で、足を緩めることなく進むジェラルドの後に続くには、できる限り体力は消耗しない方が賢明だ。
なにより、ソフィーからの依頼とは言え、こんな面倒事はとっとと終わらせて帰りたい。
(この速度なら、想定より早く下山できそうだな)
けれど、そんなマルクスの希望とは裏腹に、後方から喚き声があがった。
「ちょっと待てっっ! 二人で淡々と行くなよ!!」
息を切らしながら叫ぶのはエーヴェルト・オリオン。彼は眉間に皺を寄せ、盛大に顔を顰めて怒鳴った。
「少しはこっちの様子にも気を配れよ! 後ろまったくついて来れてねーだろう!」
そう言って指さす先には、屍のごとき黒星たち。
呼吸すらままならないようで、見るからに疲労が滲み出ているが、マルクスは面倒くさそうな態度を隠さずに言った。
「まだ中腹ですらねーじゃん。金星の坊ちゃんが死ぬ気でついてくる根性を見せたんだ、これくらいで泣きごというなよ」
あの時は結果として登頂せず、登る速度も緩やかではあったが、そんなことは考慮してやらない。
普段運動などしない金星と、体力作りが必須である黒星とでは土台が違って当然。
さすがに黒星がこんなところで音をあげるのは早すぎる。
言葉にせずとも暗にそう匂わすマルクスに、エーヴェルトは釈然としない顔で問う。
「ラルス・リドホルムがこの山を登ったってのも信じられねーけど、それよりもソフィー嬢だよ。本当にこの山を登ったのか? お前がおぶったとかじゃなくて?」
「俺が? まさか」
おぶられるどころか、男一人をおぶろうとしていたが、その件に関してはソフィーのためではなく、ラルスの名誉のために黙っておくことにした。
そんなマルクスの即答に、エーヴェルトは納得しかねる顔をした後、八つ当たりのように言葉を投げてきた。
「つーか、お前ソフィー嬢に先導頼まれてんだろう! なんでジェラルドの言われるがままに従ってんだよ!」
「なんでって。そりゃぁ、めんどくせぇからに決まってンじゃん」
いくらソフィーからの依頼とはいえ、子爵以上の家柄の子息が集まる黒星たちの先導などマルクスにとっては面倒事でしかない。
ならば、黒星が否が応でも従うジェラルドの行動に合わせた方が楽というもの。
現に、ジェラルドの速度でマルクスが山を登っていたら、すぐさま非難の声があがったはずだ。
「くそっ……、こうなるって分かってたから、ジェラルドの同行は嫌だったんだよ!」
エーヴェルトが苦虫を噛み潰したような顔で呻く。
彼は長年の付き合いからか、こうなる事をある程度想定していたようだ。
それでもジェラルド本人に直接弱音を吐かないのは、友人故か、はたまた同じ黒星としてのプライドの為か。
(ま、このままじゃ、どう見繕っても黒星たちの半数が、すぐに潰れるだろうなぁ)
マルクスは小さくため息を吐くと、仕方なくジェラルドに声をかけた。
「なぁ、一回休憩しようぜ」
普段眉根一つ動かさない男が、マルクスの助言に眉間の皺を深くする。
その表情は「この程度で?」と、納得しかねる顔だった。
(コイツ、自分の体力が異常だってわかってないのか?)
普段から体力を強化し、山慣れしているマルクスだからこそ歩調を合わせられるだけで、ジェラルドの速度は登山演習の域を超えている。山岳演習必須の銅星ですら、ジェラルドのペースでの登頂は無理だ。
しかし、そんなことをいちいち説明してやるのも億劫で、マルクスは手っ取り早く奥の手を使うことにした。
「休憩なしで登ったなんてお嬢さんにバレたら、烈火のごとくどやされるぞ。あのお嬢さん、そういうところにはうるさいからな」
「……長くは取らないぞ」
ジェラルドはほんの少し思案した後、承諾した。
きっと烈火のごとく怒るソフィーを想像したのだろう。
彼の了承に黒星たちの身体から一気に力が抜け、地面に倒れ込む。
いままで根気だけでついてきたことが窺え、マルクスは呆れた。
「なに、お前らのジェラルドに対する盲従。忠誠心かなんかなの? 逆に怖ぇよ」
思わず漏らすと、唯一黒星たちの中で倒れ込まず立っていたエーヴェルトが薄い唇を曲げ、煽るように言った。
「ふん。恥ずかしげもなく、女の命令に嬉々として従っているお前にだけはとやかく言われたくねーよ」
「命令? 別に俺は命令なんかされてねーけど。まぁ、断れなかったのは事実だけどな。アレを報酬として提示されたら断れねーだろう」
「はぁ? 報酬ちらつかされて、引き受けたのかよ!?」
「当たり前だろう。誰が好きこのんで無報酬で黒星の引率なんか引き受けるか」
当然のように答えれば、エーヴェルトはやってられんとばかりに、大岩の上に腰を下ろした。
「プライドないのかよ! これだから平民はっ!」
吐き捨てるように言われるも、とくに怒りの感情は沸かなかった。
なぜなら、
(
その日、マルクスは早朝の当番のため、コンラートたちと馬小屋の掃除をしていた。
掃除の後は、馬の毛並みをブラシで整え、干し草を与える。
終わる頃には朝食の時間が差し迫っていて、空腹を抱えながら食堂に向かうのが日常だ。
この日も「さて、朝飯を食いに行くか」と、ちょうど馬小屋を出たところで、ソフィーがやって来たのだ。
しかも一人で。
勝手に寄宿舎から抜け出してきたのか、護衛も付けずに訪れたソフィーに、マルクスは片眼を覆った。
「お嬢さん、まだジェラルドと一方的な喧嘩してンの? せめて護衛はつけてよ。一応ここ男しかいないンだからさぁ」
「一方的って言わないで! 私が我儘娘みたいじゃない!」
「うん、気にしてほしいところはそこじゃないんだけどね」
(お嬢さんって、危機管理能力高そうなわりに、男に対する危機感あんま持ってないよな……)
頬を膨らませるソフィーに、マルクスはつい説教じみたことを言ってしまう。
「せめて単独行動は控えて、あとこの辺はぬかるんで足元も悪いし、そんな高そうなドレスできたら汚れるぜ」
ソフィーが身なりに気を遣っているのはいつものこととはいえ、今日はとくに気合が入っているように見えた。
一目で高級な絹と分かる濃青のドレスに身を包み、首元には小粒ながらも光輝くダイヤのネックレス。
昨夜降った雨でふやけた土の上はぬかるんで立ちづらいであろうに、優雅に高いヒールで直立を保っている。
奇想天外な行動力にたまに忘れそうになるが、その美しい立姿を見ていると、やはり貴族の令嬢なのだと妙に納得してしまう。
平民である自分との違いを無意識に感じ、一瞬壁を隔てそうになったマルクスだったが、そんなことなどお構いなしにソフィーは言った。
「あら、だって人に頼みごとをするときは、それなりの装いが必要じゃない」
「頼み?」
「ええ。実は、今日はマルクスにお願いがあってきたの!」
可愛らしく両手を合わせ、上目遣いに見上げてくるソフィーに、マルクスは反射的に半歩下がった。
視覚的な愛らしさよりも、恐怖を先に感じ取ってしまったのはなぜだろう。
「え……? なに?」
ここで聞き返してしまったのは悪手だった。
聞かないという選択肢もあったはずなのに。
ソフィーは待ってましたとばかりに嬉々として話し始め、マルクスはすぐに聞いたことを後悔した。
内容は黒星の山岳演習への同行依頼。
しかしマルクスを心底げんなりさせたのは、依頼そのものではなく、そこに至る黒星たちとの一連のやり取りの方だった。
(なにそれ……、なんでそんなことになってんの?)
「あのさお嬢さん、そんな頼みを俺が了承するとでも? そもそも、黒星たちが俺の言うことなんて聞くわけないじゃん。頼む相手を間違ってるぜ」
「その点については安心してちょうだい。黒星たちがマルクスの命令に不満を漏らそうものなら、その場ですぐに私が完膚なきまでに泣かせるから!」
「その場で、すぐに……?」
不穏な言葉にマルクスは息を呑む。
過去の実績から、彼女の行動が容易に想像できたのだ。
「まさか、お嬢さんも同行する気じゃないよな?」
「もちろん同行するわよ」
当然のように言うソフィーに、マルクスは眩暈を起こしそうになった。
正直、彼女の体力的に登頂自体は問題ないだろうが、そんなことをあのジェラルドが了承するわけがない。絶対に止めるだろう。
(お嬢さんが行くくらいなら、自分が行くって言いそうだな……。同行するだけ同行して、ジェラルドに全部丸投げするか?)
依頼を受ける想定で思案するが、しかしそれも後々面倒くさそうだと思い直す。
ジェラルドに押し付ければ、彼を崇拝している黒星たちが黙っていないだろう。
「悪いけどお嬢さん、やっぱ俺には荷が重いわ」
「お願い、マルクス! 貴方にしか頼めないのよ。もちろんこの御礼はさせていただくわ!」
「いえ、礼とかいらないからさ」
マルクスは数年前、金星とのトラブルを経験して以来、個人的な頼みは誰からも受けないことを信条にしていた。金品などの報酬で動く人間だと思われるのも癪だ。
しかし、マルクスはこの時、ソフィーの性格を少々見誤っていた。
彼女は金星の娘だからと、何事も金で解決しようとする人間ではなく。
それよりも、もっと――――計算高い性格だったことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます