ソフィー・リニエールというご令嬢~ジェラルド・フォルシウスの溜息~
「あの兄上が僕に三回も念押ししたくらいだ。気になるじゃないか」
「なぜ三回も念押しされて従われなかったのですか?!」
扉を開く前から、レミエルとエーヴェルトの声が外に漏れていた。
「兄上の言う、あの女の話は絶対に口にするなというのが、どういう意味かよく分からなかったからな」
「まず、あの女という表現をやめませんか?」
「なぜだ?」
エーヴェルトの返答は聞こえなかったが、ため息のような呼吸音が耳をかすめた気がする。ジェラルドは、中の会話に見当をつけながらドアノブを押した。
学院内にいくつかある一室、黒星専用のコモンルームには、金塗装が施されたソファに悠然と腰かけるレミエル、埒が明かないという顔で額を抑えるエーヴェルト、そして真っ青な顔色がいまだに血色を戻していないキースが亡霊のように立ち尽くしていた。
普段はさほど狭さを感じさせない部屋だが、今日はやたらと重苦しい雰囲気を醸す。ジェラルドはそれをあえて黙殺し、レミエルの前まで進んだ。
「レミエル様、あのような振る舞いはお止めください」
「あのような、とは?」
「女性の胸に手を置く行為です」
レミエルは少し考える素振りをみせ、問う。
「何が違うんだ?」
「――は?」
「背や腰と、何が違う?」
「…………」
「舞踏では普通に触れるだろう」
正気か? と思われるような発言だが、レミエルは本気で言っていた。
本気で少女の胸と、背や腰を同一視しているのだ。
(常々、他人に対して興味のない方だとは思っていたが……)
まさかここまでだったとは。
ジェラルド自身、他人と深く関わることを切り捨てて育った自覚はあるが、レミエルのそれはまた異なる。彼は他者を認識せず、それによって主観以外の価値観が薄い。
神が彼に与えた才能は、片方のみに重点を置かれたひどくバランスの悪い秤だった。
「レミエル様。いくら背と変わらぬほどの厚みであったとしても、胸と背は違いますよ」
「エーヴェルト、お前は黙っていろ」
茶化しているつもりはないのだろうが、発言としては完全アウトだ。ジェラルドが諫めるようにエーヴェルトを睨む。
その隣では、毎回胸騒動に巻き込まれているキースが、天井を見上げ「ラルス・リドホルムの方がまだマシだったなんて思う日がくるなんて……」と小さく呟いていた。
キースの心の底からの嘆きに、ジェラルドもエーヴェルトも黙り込む。
ラルスたち金星の報告を笑いごととして聞いていたエーヴェルトも、さすがにその場に居合わせてしまった当事者となると笑えなかった。
「ソフィーに謝罪すればいいのだろう?」
ソファに深く体を預けながら、一人鷹揚に構えている男は言う。
「なにを謝罪されるのですか?」
ジェラルドは逆に問う。
口先だけの謝罪がいまの紫星の少女に通じるわけがない。ほほ笑んで許容する範囲はもうとうに過ぎている。心ない謝罪をしようものなら、一蹴にされて終わりか。下手をしたらより一層の逆鱗に触れるだけだ。
「そもそもソフィー様の怒りの大半は、行為に対するものではありません。発言に対するものです」
「発言?」
「クリスティーナ公爵令嬢への発言です」
「ソフィーは、あの女のなにがそんなに良いんだ?」
「…………レミエル様」
レミエルが、クリスティーナに対して一切の興味を持ち合わせていないことは王宮に勤めるものなら皆熟知している。クリスティーナ本人自身も。
それは、第一王子との婚約が決まった初対面までさかのぼる。
レミエルは、クリスティーナを一目見て、『またつまらぬ女を……』そう言い放ったのだ。
第一王位継承者であるフェリオの婚約者は、国内外から多く選出された。
ダクシャ王国、ルーシャ王国、その他多くの国々の姫君。
その中で選ばれたのが、国内でも四大貴族として名高いヴェリーン家の娘、クリスティーナだった。最終的な決め手は王妃の薦めだったと言う。
王妃すら認めた女性を、血の繋がった息子は一目見て『つまらない女』と評したのだ。
「クリスティーナ嬢は、王妃様の御眼鏡にも叶った女性ですよ」
ダメもとで王妃の名を出したが、案の定レミエルには効果がなかった。効果がないどころか。
「母上もつまらぬ女だからな。ああいう女が好きなのだろう。――愚かな」
この国で、王妃を貶す人間はいない。だが、たった一人。その息子であるレミエルだけは、自分の母を愚かな女だと口にする。
それが一体どういう意味を成しているのかは、ジェラルドには分からない。これで、母子関係が不仲というわけでないから余計に。
零れそうになるため息を飲みこみ、ジェラルドは事実だけを告げることにした。
「レミエル様、事の発端は貴方様の発言ですが、切っ先を向けたソフィー様の行為は私の一存で看過できるものではございません」
紫星という位置づけではあるが、本人の身分は男爵令嬢。それが、現在は公爵家の人間になったとはいえ、王族の血を引くレミエルに剣を向けたのだ。本来なら、論じる必要もなく有罪だ。
「上へ報告せざるを得ません。それがどういう意味を成すかお分かりでしょう」
相手が学生ならばある程度の権限で対処できるが、相手は紫星と第二王位継承者の刃傷沙汰。とてもジェラルドの判断のみでもみ消すことはできない。
本来なら大事だというのに、レミエルの態度はサラリとしたものだった。
「お前たちはなんでも大仰にしたがるな。友人同士で刃を交えるなどよくある事だろう」
「そんな悠長な場面ではなかったと思いますが」
そもそも、それが当てはまるのは男同士の話だ。いまだ本気でソフィーを男だと疑っているのか、それとも友人の定義が人より逸脱しているのか分かりかねる。
「事が公になれば、貴方様を支持する貴族たちがここぞとばかりにソフィー様を糾弾するでしょう。星のはく奪も免れません。そうなれば計画は頓挫し、フェリオ殿下の資質すら問われることにもなります。回避した王位争いの火種を、なぜご自分から焚きつけるような行いをされるのですか」
例え王族から籍を離れたとしても、その体を流れる血は決して無視できない。彼を取り巻く貴族たちの思惑は大きく厄介だ。
あえて強い言葉で諫めるが、レミエルは顔色一つ変えず、薄く笑った。
「ああ……。お前、フォルシウス家の末子か」
ジェラルドのことをまったく感知せず、いま思い出したとばかりだが、ジェラルドからすれば彼が自分のことを思い出したことの方が意外だった。
地位や立場に関係なく、レミエルが存在を認識し名を呼ぶ人間は少ない。
成立した会話を交えられるのはもっと稀有だろう。
ジェラルドはその家柄と年が近いこともあり、幼い時からレミエルの遊び相手として任命されることが多かった。しかし、当のレミエルは無関心で、意思の疎通ができたことも、名を呼ばれたことも一度たりともない。
訝りながらも返事をすれば、レミエルはジッとその紫眼をジェラルドに向けた。光の反射で濃くも薄くも見えるそれは、紫水晶よりも硬質に感じられる。
「お前はつまらんな。王宮思考が染みついている。ソフィーを糾弾? ――――したければすればいい」
「…ッ」
紫星の少女にとっては始終憤慨ものだっただろうが、あれほどレミエルが会話を続けようとした例はいままでなかった。
(ソフィー様は別格なのかと思っていたが)
冷たく言い放つ様にはなんの躊躇もない。考え違いだったのかと、紫水晶の瞳に目をやれば、その瞳はさきほどよりも一層の冷たさを湛えていた。
「糾弾した、または賛同した奴らを集めて、そいつらの前で首を切ってやろう。うるさく吠えた発言が元で、第二王位継承権を持つ男が自害したとなれば、その後も静かになる」
レミエルは己の命などまったく意に介していない感情も温度を感じさせない声で言い放つと、自分の首に指をあてた。男にしては白く長い指が、まるで凶器にも錯覚させる。
「公爵家の姓を継ぐ意味すら分からぬような痴れ者の存在に、なぜ僕が行いを制限される必要がある。僕はもう王家の人間ではない。レミエル・
姓を強調しながら、レミエルはゆっくりとした動作でソファの肘掛けに肘をつく。ただそれだけの動作が、他者に緊張感と威圧感を与えるのは玉座に近い環境で育った証だ。
上位貴族の家で育ったとはいえ、王家に慣れているわけではないエーヴェルトとキースが思わずたじろぐ。ただ一人、レミエルの性格に慣れているジェラルドは、しばし思案すると口を開いた。
「承りました。レミエル様のお気持ちはお伝えさせていただきます」
「やはり、つまらん」
型通りの台詞が気に入らなかったようで、レミエルは興味はそれたとばかりのやる気のない仕草で席を立つと、誰に言うでもなく呟いた。
「長子の方がまだ面白みがあったな。――――まぁ、それもいなくなってしまえば同じか」
発せられた言葉に顔色を変えたのはジェラルドではなく、後ろに控えていたエーヴェルトとキースだった。眉に難色を示す二人と違い、ジェラルドは淡々と答える。
「兄ならば、認識の過誤を軌道修正できずに失態を犯すようなことはなかったでしょう。私の不徳と致すところです」
しかし、レミエルはジェラルドの謝罪に耳を傾けることなく無言で部屋を出ていった。
完全にレミエルの気配がなくなると、エーヴェルトがどこか気まずそうに名を呼ぶ。
「ジェラルド……」
「――いい。それよりも、ソフィー様のことが先決だ」
二人がレミエルの口から発せられた兄のことを気遣っている雰囲気は察したが、取り合うことなく返す。
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