転生前は男だったので逆ハーレムはお断りしております

森下りんご

プロローグ


 中村祐なかむらたすく、齢25歳。

 いま、祐は齢が享年になる危機を最大限に感じていた。

 

 祐は高卒で営業職に就き、七年という長いようで早かった年月の中、新たな目標のために会社を退職した。学びたかった分野に行く資金がやっと貯まったのだ。


 そんな祐に、長年の親友は新たな門出のお祝いだと、宝くじで高額当選した金で欧州旅行に誘ってくれた。

 初めて訪れた日本とは異なる歴史と建造物に祐は感動し、連れてきてくれた親友に感謝した。


 しかし、まさか、その旅行一番の目玉だった豪華客船が沈没するなど、誰が考えられただろうか。




 苦しい。

 空気のない世界は、簡単に人間の息の根を止める力を持っていた。

 投げ出された身はもう海に沈み、もがく力も気力も冷たい水に奪われていく。


(もう駄目か…)


 諦めが、胸に広がる。動きを止めた体は面白いくらいに、深海へ吸い込まれていくように下へ下へと落ちる。


(せめて、天馬だけでも、アイツだけでも)


 生きていてほしい。

 そう願った瞬間、もがくために伸ばしていた腕を、誰かに掴まれた。


(――――天馬!!)


 腕を掴んだのは、親友だった。

 見たことのない必死の形相で、自分を引き上げようとする。

 声なんて聞こえない海の中で、自分と同じように、天馬も自分の名前を呼んでいる気がした。

 助けるつもりなんだと、一瞬で分かった。

 でも、それが無理なことだということも十分わかっていた。


(…バカだな、独りぼっちのオレと違って、お前には帰りを待っている家族がいるだろう)


 冷たい海の中で、笑ってしまう。

 祐のために、自分を危険に晒してまでも助けようとする親友に、死にゆく身で幸福を感じていた。もうそれだけで十分だった。


 だから、最後の力を振り絞って、天馬を上へ押し上げた。どうか助かってほしいという願いを込めて。一世一代の最後の力は、自分でも驚くほどに強かった。


「――――ッ!!」


 天馬の驚愕が伝わってくる。

 押し上げられた親友は海面へと、祐は深海へと落ちる。

 深い海を、祐はもう怖いと思わなくなった。恐怖はもう無かった。



 ああ、神様、

 この世界に神様がいるなら、

 どうかお願いします。

 どうか、天馬だけは無事に返してください。

 オレの風前の灯の命じゃ、代わりにもならないだろうけど。

 この命だけでも足りないなら、来世は聖職者として神様に操を立てます。

 現世も幸か不幸か、キレイな身なので、来世もきっとそうでしょう。なぜかその点については確固たる自信があります。

 

 輪廻転生なんてあるのか分からない。

 けれどどうしても祈ってしまう。

 


 どうかお願いします。

 コイツだけなんです、幼少期から変わらずに友人でいてくれたのは、

 独りぼっちだったオレの世界に色をくれたのは、コイツだけだったんです。



 どうか、神様、神様、

 途切れゆく意識の中で、

 昏い深海の底に落ちゆく意識の中で、

 ただ一つ、それだけを願っていた――――。




 ◆◇◆




 それが、意識という概念で正しいのなら、祐の意識が戻ったのは、暗くけれど温かな海の中だった。

 恐怖も、寒さも無く。ただただそこには穏やかな時があった。ここがどこなのか分からない、けれど心地良い場所に不安などなく、わざわざ目を開いて確認する意思は持たない。


(ああ、ずっとここにいたいな…)


 けれど、願いは永くは叶わなかった。温かな暗い海から、光の先へ突然押し出されたのだ。

 何が起こったのか分からないが、とにかくかなりの不快感が全身を襲った。

 先ほどまでは呼吸をどうすればいいかなんて考えもせず、ただ気持ちよく眠れていたのに、今は呼吸が上手くできず、息が苦しくて仕方ない。


(うぇぇええええ、なんなんだよ、なんか、すげーキモチわりぃ!!)


 体がとても重い。光に先に押し出される前までは、重力なんて感じなかったのに、今は体にかかる負荷をこれでもかと感じる。そのキツさに声をあげるが、自分の声が耳に届かない。耳がおかしくなったのか。聞こえるのは、なぜか赤ん坊の泣き声だけだった。


 軽いパニックと恐怖に、なすすべも無く狼狽えていると、温かいモノに包まれる感触が肌にあたった。それは、温かな海によく似ていた。それが人の腕だと認識するまで時間がかかった。


 温かい腕に抱かれ、その指先が、自分の頬にそっと触れる。


「ああ、神様ありがとうございます! なんて可愛らしい子なんだ」


 最初に聞こえてきたのは、低い男の感謝の声だった。泣いているのか、その声は震えていた。


「ソフィー。貴女の名前はソフィーよ。私の愛しい子。どうか健やかに育って」


 慈しむように優しく囁くのは、女性の声。か細い声だというのに、その言葉には力強さが込められていた。


(な…に? ソフィーって誰だ?)


 目を開いているつもりなのに、ぼやっと靄がかかっていて、状況がよく分からない。


 可愛らしい子?

 愛しい子?

 なんだ、それ?


(……あの人も、オレが産まれた時はそんな風に思ってくれたのかな)


 幼い時に自分を捨てた母親を思い出される。すぐに否定したのは、愛された思い出が無かったからだ。自分は愛されなかった。愛されなかった子供だった。


(でも、もういいんだ……)


 家族みたいな親友が自分の傍にいてくれたから。自分には十分な人生を過ごせたのも親友のお蔭だ。誰かが傍にいる暖かさを知って死ねた自分の人生は、きっと幸福だった。


 知らない声が「ソフィー」と愛し気に呼ぶのを聞きながら、思う。


(君が誰か分からないけど。ソフィー、君は親に十分に愛される子であってほしいな)


 親にも、友人にも愛し、愛される子であればいいと願った。

 視界がハッキリしない世界で、ソフィーという顔も知らない子の幸せを願いながら、けれど…と、考える。

 自分はいったい今どこにいるのだろう。死んだはずの自分の魂はいったいどこにいったのだろう。


 赤ん坊の泣き声がいっそう強くなった。

 これは、ソフィーの泣き声なのだろうか?

 こんなに近くに聞こえるのに、その存在は分からない。


(ソフィー、君はどこにいるんだ?)


 強くなる泣き声。こんなに泣いているのに、どこにいるのか分からない。


「ソフィー、大切な私たちの命」


 自分の耳元に、心地良い声が届く。母親の子供への愛情が伝わる声。

 その時になって、やっとその声が自分に向けられていることに気づいた。


 そして同じく、赤ん坊の泣き声が自分の声だと気づいた瞬間、中村祐の意識はそこで途切れた。

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