転生前は男だったので逆ハーレムはお断りしております
森下りんご
プロローグ
いま、祐は齢が享年になる危機を最大限に感じていた。
祐は高卒で営業職に就き、七年という長いようで早かった年月の中、新たな目標のために会社を退職した。学びたかった分野に行く資金がやっと貯まったのだ。
そんな祐に、長年の親友は新たな門出のお祝いだと、宝くじで高額当選した金で欧州旅行に誘ってくれた。
初めて訪れた日本とは異なる歴史と建造物に祐は感動し、連れてきてくれた親友に感謝した。
しかし、まさか、その旅行一番の目玉だった豪華客船が沈没するなど、誰が考えられただろうか。
苦しい。
空気のない世界は、簡単に人間の息の根を止める力を持っていた。
投げ出された身はもう海に沈み、もがく力も気力も冷たい水に奪われていく。
(もう駄目か…)
諦めが、胸に広がる。動きを止めた体は面白いくらいに、深海へ吸い込まれていくように下へ下へと落ちる。
(せめて、天馬だけでも、アイツだけでも)
生きていてほしい。
そう願った瞬間、もがくために伸ばしていた腕を、誰かに掴まれた。
(――――天馬!!)
腕を掴んだのは、親友だった。
見たことのない必死の形相で、自分を引き上げようとする。
声なんて聞こえない海の中で、自分と同じように、天馬も自分の名前を呼んでいる気がした。
助けるつもりなんだと、一瞬で分かった。
でも、それが無理なことだということも十分わかっていた。
(…バカだな、独りぼっちのオレと違って、お前には帰りを待っている家族がいるだろう)
冷たい海の中で、笑ってしまう。
祐のために、自分を危険に晒してまでも助けようとする親友に、死にゆく身で幸福を感じていた。もうそれだけで十分だった。
だから、最後の力を振り絞って、天馬を上へ押し上げた。どうか助かってほしいという願いを込めて。一世一代の最後の力は、自分でも驚くほどに強かった。
「――――ッ!!」
天馬の驚愕が伝わってくる。
押し上げられた親友は海面へと、祐は深海へと落ちる。
深い海を、祐はもう怖いと思わなくなった。恐怖はもう無かった。
ああ、神様、
この世界に神様がいるなら、
どうかお願いします。
どうか、天馬だけは無事に返してください。
オレの風前の灯の命じゃ、代わりにもならないだろうけど。
この命だけでも足りないなら、来世は聖職者として神様に操を立てます。
現世も幸か不幸か、キレイな身なので、来世もきっとそうでしょう。なぜかその点については確固たる自信があります。
輪廻転生なんてあるのか分からない。
けれどどうしても祈ってしまう。
どうかお願いします。
コイツだけなんです、幼少期から変わらずに友人でいてくれたのは、
独りぼっちだったオレの世界に色をくれたのは、コイツだけだったんです。
どうか、神様、神様、
途切れゆく意識の中で、
昏い深海の底に落ちゆく意識の中で、
ただ一つ、それだけを願っていた――――。
◆◇◆
それが、意識という概念で正しいのなら、祐の意識が戻ったのは、暗くけれど温かな海の中だった。
恐怖も、寒さも無く。ただただそこには穏やかな時があった。ここがどこなのか分からない、けれど心地良い場所に不安などなく、わざわざ目を開いて確認する意思は持たない。
(ああ、ずっとここにいたいな…)
けれど、願いは永くは叶わなかった。温かな暗い海から、光の先へ突然押し出されたのだ。
何が起こったのか分からないが、とにかくかなりの不快感が全身を襲った。
先ほどまでは呼吸をどうすればいいかなんて考えもせず、ただ気持ちよく眠れていたのに、今は呼吸が上手くできず、息が苦しくて仕方ない。
(うぇぇええええ、なんなんだよ、なんか、すげーキモチわりぃ!!)
体がとても重い。光に先に押し出される前までは、重力なんて感じなかったのに、今は体にかかる負荷をこれでもかと感じる。そのキツさに声をあげるが、自分の声が耳に届かない。耳がおかしくなったのか。聞こえるのは、なぜか赤ん坊の泣き声だけだった。
軽いパニックと恐怖に、なすすべも無く狼狽えていると、温かいモノに包まれる感触が肌にあたった。それは、温かな海によく似ていた。それが人の腕だと認識するまで時間がかかった。
温かい腕に抱かれ、その指先が、自分の頬にそっと触れる。
「ああ、神様ありがとうございます! なんて可愛らしい子なんだ」
最初に聞こえてきたのは、低い男の感謝の声だった。泣いているのか、その声は震えていた。
「ソフィー。貴女の名前はソフィーよ。私の愛しい子。どうか健やかに育って」
慈しむように優しく囁くのは、女性の声。か細い声だというのに、その言葉には力強さが込められていた。
(な…に? ソフィーって誰だ?)
目を開いているつもりなのに、ぼやっと靄がかかっていて、状況がよく分からない。
可愛らしい子?
愛しい子?
なんだ、それ?
(……あの人も、オレが産まれた時はそんな風に思ってくれたのかな)
幼い時に自分を捨てた母親を思い出される。すぐに否定したのは、愛された思い出が無かったからだ。自分は愛されなかった。愛されなかった子供だった。
(でも、もういいんだ……)
家族みたいな親友が自分の傍にいてくれたから。自分には十分な人生を過ごせたのも親友のお蔭だ。誰かが傍にいる暖かさを知って死ねた自分の人生は、きっと幸福だった。
知らない声が「ソフィー」と愛し気に呼ぶのを聞きながら、思う。
(君が誰か分からないけど。ソフィー、君は親に十分に愛される子であってほしいな)
親にも、友人にも愛し、愛される子であればいいと願った。
視界がハッキリしない世界で、ソフィーという顔も知らない子の幸せを願いながら、けれど…と、考える。
自分はいったい今どこにいるのだろう。死んだはずの自分の魂はいったいどこにいったのだろう。
赤ん坊の泣き声がいっそう強くなった。
これは、ソフィーの泣き声なのだろうか?
こんなに近くに聞こえるのに、その存在は分からない。
(ソフィー、君はどこにいるんだ?)
強くなる泣き声。こんなに泣いているのに、どこにいるのか分からない。
「ソフィー、大切な私たちの命」
自分の耳元に、心地良い声が届く。母親の子供への愛情が伝わる声。
その時になって、やっとその声が自分に向けられていることに気づいた。
そして同じく、赤ん坊の泣き声が自分の声だと気づいた瞬間、中村祐の意識はそこで途切れた。
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