第8話


 暦の上は秋なのに、まだ暑い日が続く。九月も終わりに近付いているってのにな。十月に入れば涼しくなるのかな。


「うわあああああああ!」


 マヒロさんは大量のヤギに囲まれて、歓声――ではなく、悲鳴をあげている。最初の二匹までは「かわいいかわいい」ときゃっきゃと喜んでいたものの、エサをせがむ四足歩行な生き物が大挙して押し寄せたらちょっとした恐怖だよな。奈良のシカぐらいウヨウヨしている。このエリアを担当している飼育員さん、と思われる女性スタッフの名札には若葉マークがついていて、彼女も腰が引けていて助けるに助けられないような状況。


「何も持っていないぞ!」


 ヤギたちはデニムジャケットのポケットに鼻先を突っ込んでみたり、マヒロさんの胸元に頭を擦り付けてみたりと好き放題している。見ているぶんには面白いので写真を撮っておこう。動物と戯れる姿、ってことでいいじゃん。祖母に見せたら喜ぶだろうし。


「タクミ! そんなところで見てないで早く助けてくれ!」

「カメラを壊されたら困るし」

「ぐぬぅ」


 今日は祖父の趣味の一つとして収集されているカメラを貸していただいている。かなり高価な機種らしいので丁重に扱わねばなるまい。俺の撮影の腕前なんて大したことないから、あとはカメラ自身のポテンシャルと、被写体のビジュアル値の高さで補っていただくことにして。俺は写らなくてもいい。自分の顔の作りが悪いのは、父親から貶されていたし。なんで俺に似なかったんだろうな、と毎日のように聞かされていた。父親は、まあ、そこそこの美形だったんじゃあないかな。こういうの身内が言うもんじゃあないよ。


 ここは上野動物園。

 近場の行楽地として、ひいちゃんとはたまに遊びに来ていた。というか、小学校時代にも遠足やら写生会やらで何度か来ていた。東京の小学校に通っている児童なら、六年間のうちのどこかで必ず行く場所だろ。でも、その時は担任の後ろをついて行くだけでつまらなかったり、ニホンザルみたいな動き回る動物を描こうとして時間内に描き終わらずに中途半端な絵を提出するクラスメイトを小馬鹿にしたりと、いい思い出は作れなかった。俺はゾウを描いたよ。絵本にもなっているから有名だし。そんなに派手に動き回らないから描きやすい。


 義理の妹のひいちゃんと見て回る動物園は、その昔に半強制的に訪れた時よりも数倍楽しめた。気になった動物の前で立ち止まっても急かしてくる人はいないし。マヒロさんの連れ子が、ひいちゃん。連れ子だから、俺とは血はつながっていない。俺は、一二三ひふみちゃんだからひいちゃんと呼んでいた。突拍子もなく現れた、五歳のかわいいかわいい妹。


 心の距離を縮めようとしない真尋さんとは違って、ひいちゃんは懐いてくれていた。なんだかんだと俺を頼ってくれて、かわいくてかわいくて仕方なかった。何で死んでしまったんだろう。土日には二人で近くの公園に遊びに行って、近所の人からも「実の兄妹みたいだ」ともてはやされていた。全て過去形だ。あの日々は戻ってこない。この世界の科学技術は亡くなってしまった人を蘇生するまでには進歩していないし。どれだけ悔やんでも悔やみきれない。


 生前のひいちゃんはカワウソをいたく気に入った。人間が水中トンネル――水槽と水槽を繋ぐ透明のパイプ。泳いで移動する姿が見えるようになっている――を用意しているのに、全く使わないところがいいらしい。俺はプレーリードッグの立ち上がったり座ったりのちょこまかとした動きがいいなと思った。そんなに忙しなく動かなくても、エサは十分用意されているのに、飼われている動物には自分が飼われているという自覚がないらしい。

 オトナの京都旅が流行るのも頷ける。修学旅行みたく、特に興味もないのにコースを組まされるよりはさ。目的地があって、行きたい人と一緒に行けるほうが楽しいし。


「やれやれ……せっかく思い出作りに来たというのに、前途多難だぞ」


 懐古していたら飼育員さんが先輩スタッフを呼び出したようで、見るからにベテランな年配の飼育員さんがヤギを追い払って解決していた。デニムジャケットをバサバサと払ってから羽織るマヒロさん。今回は白地にヒマワリの柄のワンピースを着ている。


「次はパンダを見たい」


 祖母と事前に調べた結果で『上野動物園はパンダで有名』と記憶していたらしく、到着してからはしばらく「パンダ、パンダ」と唱えていた。それでも先に『子どもどうぶつえん』へ行ってしまったのは「ここでは動物に触れるのか! 触りに行くぞ!」と自ら吸い寄せられていった結果だ。俺は悪くない。パンダからヤギに乗り換えた結果がこのざまだ。まっすぐパンダの元に向かっていればひどい目には合わなかったのにな。


「タクミ、あれは」


 指差す先にはお土産売り場があった。パンダとは真逆の方向に進みたがるなこいつは。俺が止める間もなく、ひいちゃんのうさぎのぬいぐるみと同じものを発見して「見覚えがあるぞ!」と持ち上げる。


 ひいちゃんの誕生日に俺が贈ったうさぎのぬいぐるみ。棺には入れなかった。燃やしてしまえば大事な思い出までもがなくなってしまうような気がして、斎場には持っていかなかったのだ。しかし、生前のひいちゃんがとても大切にしていたものでもあるので、魂と共に天国へ送ったほうがよかったかもしれない。むしろ『大事な思い出がなくなってしまうような』というのは後付けの理由であって『当日にうさぎのぬいぐるみを持っていこうという考えが浮かばなかった』のほうが正しいかもしれない。いずれにせよ、ひいちゃんはお骨となり、うさぎのぬいぐるみは現在俺が使っている部屋の本棚に祀ってある。


「ほしいの?」


 俺がショルダーバッグから財布――祖母から毎月お小遣いとしていくらかいただいているので、ぬいぐるみぐらいは買っても問題ない――を取り出そうとすると、ぬいぐるみを元の位置に戻しつつ「いいや」と断ってきた。いらないのか。どっちなんだよ。


「……タクミは子ども、好き?」

「子ども?」


 ぬいぐるみからひいちゃんのことを思い出したのか、マヒロさんは上目遣いに問いかけてくる。ひいちゃんのことは、大事に思っていた。俺に〝家族愛〟を純粋に向けてくれていたのは、ひいちゃんただ一人だと思う。俺の理想とする家庭環境を提供してくれたのはひいちゃんだけだ。マヒロさんには悪いけれど。真尋さんも、真尋さんなりにやってくれていたとは思うのだけれどさ。いや、そうではないな。これだと俺が悪いみたいじゃん。違うよ。俺の行動によって、真尋さんとの関係が拗れたのじゃあなくて。俺は悪くない。真尋さんからしてきたのだってことにする。そう、そうだよ。俺は悪くない。


 義理の妹さえいてくれたなら。

 まだ、ここに、ひいちゃんがいてくれたなら。

 俺は理想の兄であればいいのだから。


 目の前のマヒロさんにはなんと答えようかと思案していると「よしわかった、スワンボートに乗るぞ!」と向こうから切り替えてきた。ああ、あの不忍池のやつね。パンダはどうした。パンダは。


「不忍池にパンダはいないよ」

「いいや、パンダはまた後日にする! の楽しみにとっておくぞ!」


 俺とマヒロさんと、あともう一人は誰だろ。

 弐瓶教授かな。


 あの人も動物を見て癒やされるタイプなのだろうか。サルみたいな男どもが近くにいるから、あえて動物園に行くまでもないか。動物園の臭いが嫌って言いそうでもある。なんとなく潔癖症っぽいよねあの人。


「スワンボートっていうと、カップルが別れるジンクスがあるけど」

「そうなのか?」

「まあ、気にしないんならいいや」


 これもまたの思い出とやらの一つとして体験しておきたいのだろう。というわけで、上野動物園の滞在時間は短めに、弁天門から不忍池に移動した。しれっと『カップル』って言ってしまったけれど、マヒロさんのほうはどう思っているのかな。これはデートという認識でいいのか?


「わー」

「漕いでくれない?」


 歓声を上げていないで、足を動かしてくれないかな。

 水面をスイスイと進んでいく水鳥は、一生懸命その足をバタつかせているように、スワンボートは漕がないと動かない。意外ときついし。ひいちゃんも乗りたいって言うから乗ったな。あちらは五歳児だから足が届かなくて俺ばかりが漕ぐ羽目にあった。しかも時間以内に船着き場に戻らないといけない。


「なぜ我が漕がねばならぬのか」


 乗りたいって言ったのはお前の方じゃねェか。スワンボートに乗りたいって言うやつ大体こうなるよな。当の本人は漕いでくれなくて、相方が漕ぐ。船着き場のおっちゃんには統計を取ってほしい。ほぼほぼ男が運動させられているんだろうな。


「ほら、ママが選んでくれた今日のこーでぃねーとでは、巻き込まれてしまうぞ」


 眉間にしわを寄せていると、自分の服装をアピールしてきた。先ほども見たけれど、くるぶしぐらいまでの、いわゆるマキシ丈のワンピースだ。ペダルを漕ごうとすれば裾が巻き込まれてしまうだろう。乗るまでに気付いてもう一個のオールで漕ぐほうに変えさせればよかった。あちらでもこちらが働かされるのは一緒かもしれねェ。


「そうだな」


 ちょうど池の真ん中まできて、俺は漕ぐのをやめた。


 カモが悠々と近づいてくる。いろいろな人から餌付けられているのか、人間を怖がるそぶりはなく、その瞳をこちらに向けてきた。見ていればエサをもらえるとでも思っていそう。あいにくこちらは何も持っていない。捕まえてカモ鍋にしたら美味しいかも。


「明日、検査する」


 マヒロさんは真っ直ぐ前を向いたまま、語り始めた。

 不意に南から風が吹く。温風というよりは熱風と言い表すのが正しい。


「話してなかったけど、我は、妊娠していて」


 あー。

 そうなんですね。気付いていませんでしたけれど。うまく隠し通してくれていましたね。


 まあ、そのうちできるよな。前よりも二人で寝る頻度も上がっていたし。


「ママが、病院を探してくれて、写真を撮ったり採血したり」


 祖母に相談済みなんだ。俺に先に言ってほしかった。前回みたいにさ。また、あの口の軽いあいつに頼んでやったのに。


「赤ちゃんがいるんだって」


 おなかをさすりながら、俺の横顔を見てくる。


 こいつを突き落とせないかな。

 この池に。


 ど真ん中だから船着き場からは遠いし。服は水を吸う。幸いにもおっちゃん以外に人影はない。事故ってことにすりゃあ、おっちゃんが一時的に仕事を失うだけだ。いけるか?


「ママは喜んで助けてくれるって言ってて、ユニもいろいろ用意してくれるらしいぞ」

「へぇ」

「我は産みたい」


 まあ、そうね。真尋さんの再婚相手だった俺の父親はもういないし。問題は、ないっちゃないよな。


「だから、人類の滅亡は延期にするぞ! それがいいと思う! この子が育ってからでもいい!」

「そしたら、今度は『孫の顔が見たい』って言い出すんじゃあないだろうな」


 俺が口を挟むと、マヒロさんはその目を見開いて「我は、彼方からタクミと結ばれるために来たのだぞ! それ以上に、何があるというのだ」と反論してきた。彼方ってどこだろう。マヒロさんは、四方谷家で生まれ育ったお嬢様でしょうが。それに、俺とふたりきりになりたいって言いつつ、弐瓶教授ともその『人類滅亡計画』とやらで手を組んでいるのに、約束が違う。


「子どもなんて産んでも、関わった全員が不幸になるだけだよ」


 かなり言葉を選んだつもりだ。俺にしては、やんわりと回りくどく言ったものだ。それともはっきり言ってやったほうがこいつのためなのかな。これで効かなかったら言ってやるしかない。あまり言いたかない。今のマヒロさんの蒼白な表情を見ているだけで、どこかから現れた微量の申し訳なさが俺の心に擦り寄ってくる。


 そんな『申し訳なさ』など、粉々にすりつぶして、二度と近寄らせない。


 だって、俺は何にも悪くないのだから。なんでこいつに対して申し訳なく思わないといけないのか。逆じゃね。他人に振り回されたくなくて、人類を滅ぼさんとしてんのに、どうして共謀者から裏切られないといけないわけ。俺は悪くない。また他人のせいで頓挫する。俺は俺の決めた道を進みたいだけなのに、どうしてこうなるのか理解できない。


「タクミ。よく考えて」


 何を?

 俺は考えて、よく考えた上で発言しているよ。


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