奇想の凡人
そうざ
An Ordinary Dreamer
三十俵二人扶持の御家人、
殊に掬蔵は、両親を亡くしたのが幼少の頃だったが為に出仕が叶わず、強制的に小普請に編入された不遇の身であった。
小普請は総じて貧乏暇なしである。様々な内職で糊口を凌ぐのが日常の風景で、中には思い余って士分を売却する者まで存在した。
一方で、小普請には
ところが、掬蔵はこの逢対日に顔を出そうともせず、日々を無為に過ごしている。
見兼ねた支配役は堪らず掬蔵を呼び付けた。
「皆、懸命に身の振り方を考えておるのに、お前という奴は」
支配役は掬蔵の亡き父と
「ご心配には及びません。何れは我が奇想で天下を動かしてみせます」
「またそのような戯言を。好い加減に目を覚ませ」
掬蔵も
「名は体を表すのう」
支配役は深い溜め息を吐いた。
◇
掬蔵が田中久重に深く心酔している事は、支配役は
そんな田中と並び称される、否さ、それを超える偉業の数々で世に名を馳せると息巻く掬蔵であった。
掬蔵の一日は、お天道様が真上まで上ってから始まる。
妙案は夜陰に忍ぶと宣い、灯火代も考えずに夜更けまで
言うところの
「掬蔵さん、お暇ですかぇ?」
縁側からの声に、大の字で
「おぅ、
惣吉は
縷々述べているように、本来ならば掬蔵は暢気に構えて居られない身分であるが、或る日、何の前触れもなく現れた惣吉が事態を一変させた。相場を上回る家賃の支払いを提案したかと思うと、忽ち敷地の隅に離れ家を建てて住み着いたのである。
つまり、夢見勝ちな掬蔵の暮らしを下支えしているのは惣吉その人と言って間違いはなかった。
「おっ、また例の帳面が増えましたな」
小ぢんまりとした書院窓の前に文机があり、紙切れの束が堆く積まれている。
「次々と奇想が湧いてな、寝る暇もなく書き留めている」
「ちょいと拝見」
帳面には細かな文字や画がびっしりと書き込まれている。
「この楽器を抱えた女は何です?」
「これは、
掬蔵は己の独創と自負するが、崇拝する田中の『弓曳童子』や『文字書き人形』から着想を得た事は一目瞭然である。
「そいつぁ凄ぇ、まるでロボットだ」
「ろぼっと?」
「一体どうやって動かすんで?」
「それはまぁ、追々考える」
「まだ電池がねぇから、やっぱり
「でんち……?」
惣吉は行商を
◇
のっぺりとした
奇想は湧く。次々と湧く。
しかし、その奇想を実現させるのにはどうすれば良いのか、掬蔵は今以て見当も付かない。
読み書き算盤は人並み、
行き着く先がいつもの八方塞がりと判ると、掬蔵はまた眠りへと逃避するのだった。
「掬蔵さん……」
庭木の葉擦れに紛れて声がした。
「……おぅ……惣吉か」
意識はあるが身体は畳表に張り付いたように動かない。例によって体勢は大の字である。
「ご挨拶に上がりました」
「何だい、改まって……」
「実はこの
「……ん?」
言葉の意味は解せても、感情が付いて来ない。
「平賀源内さんの取材が纏まりましたんで、今度は田中久重さんの取材で大坂へ参ります」
「……しゅざい?」
「その後は国友一貫斎さんの取材で
「……
「貧乏暇なしでございましてね」
そう言って惣吉は笑った。
掬蔵に知識があれば、平賀源内の没年と田中久重の生年とが隔たっている事から惣吉の物言いを奇異に感じたに違いない。
「そうだ、家賃の前払いを返さんとな」
「良うがす良うがす、置き土産としてお納め下さい」
「悪いなぁ」
「なぁに、
「相変わらず訳が判んねぇな」
「恐れ入りやす」
掬蔵はやっぱり身体が動かない。ずっと天井を見ているのに、惣吉の表情が手に取るように判るのは何故だろう、と思った。
「こいつはほんの
言うが早いか、惣吉は黒っぽい小さな玉を仰臥した掬蔵の口に押し入れた。
「ぅごご……何だいこりゃ」
「ほんの
「確かに甘いが……妙ちきりんな味だ」
「コーラ味のキャンディでげす」
「きゃんでぇ?」
「こいつはご当地、亜米利加でもまだお目見えしてない風味でござんすよ。あり難く味わわんと、あきゃんでぇ」
「もう大坂の気分か?」
「あっはっはっ」
「……ふははっ」
手拭いを吹き流しに被った女が、闇の中に浮かび上がる。白く小さな手には三味線と象牙撥。弦を
驚くは早い。紅を引いた
〽言わねばいとどせきかかる 胸の涙の遣る方なさ
――新内節『蘭蝶(
新内、常磐津、富本、清元と
〽
――端唄『深川節』
端唄、長唄、地歌に小唄、
その精緻な構造はまるで想像を絶するが、それがからくりというものなのだろうと誰もが感服
聴衆の興奮は最高潮に達し、やんややんやの大喝采。拍手の渦が虚空に満ち溢れ、掬蔵の身を包みながら
◇
掬蔵が目を覚ますと、もう座敷には橙色の長い影が過っていた。
長い夢をみていたような気がするが、文机を確かめると帳面が昨夜のまま開いていた。
すっかり渇いた口の中に、独特の風味が残っている。
キャンディに開眼した掬蔵は、誰もがその名を知る有名な製菓メーカーの創始者として後世まで歴史に名を刻む――事もなく、元号が明治と改まった後も大器晩成を信じながら平々凡々の一生を送ったという。
一説には、惣吉の後を追い掛けたとも、支配役の世話で妻帯したとも、奇しくも小普請の父を持つ勝海舟の幕臣救済事業に参加し、静岡で緑茶栽培に尽力したとも伝わるが、掬蔵がその奇想を書き記したと言われる帳面の行方同様、いつの世も凡人の詳細は
奇想の凡人 そうざ @so-za
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