戯れ
コツ、コツ、と空間に響く硬い足音で目を覚ました。
何やら廃工場らしき建物の中らしい。
壊れた窓からは、晴れた雲間からの月明かりが差し込んでいる。
「オ目目醒メマシタカ」
目の前には先ほどから追いかけていた怪異の姿。
「んんっ」
殴りかかろうとしたところ、自分の状態に気付く。
地面に固定された椅子に、拘束縄で硬く縛り付けられていた。
手首も縄で縛られており、口にはガムテープ。
つまるところ、身体の自由を完全に奪われていた。
「んー、んー」
振りほどこうともがけど、全くほどけない。
それでも現状を認めたくない僕は、続けて身体をゆすり続けた。言うまでも無く無駄な抵抗である。
「アーッ! カワイイ、カワイイ、モット、アガイテッ」
怪異男は自らの頭を抑え、内股の姿勢でその身体をくねくねと踊らせた。
「関係者ノ方ア! ボ、ボ、ボ、僕ガッ、ガガガ独リ占メッ、エッ、エッ、エッ」
一定の距離を保ったままで、男は気色の悪い声を上げる。
全身に鳥肌が立つ。
一刻も早く身体の自由を取り戻したい。逃げたい。
「エッ、エッヘへへへへへ」
男は被っていたハンチング帽を脱ぐと、差し込んだ月明かりがその表情をあらわにした。 顔を見るに、年齢は30歳程度の成人男性に見える。実際には人ですらないのかもしれないが。
その目は半月状に弧を描き、明らかに異常者のそれだが、焦点は確実に僕の身体に合わせられていた。
「イッタダッキマァス!」
両手を前に突き出した状態で僕に勢いよく迫ってくる。
直後にその手で両肩を掴まれ、頬にざらざらとした感触を覚えたが、それが舌で舐められたことであると認識するまでには少々の時間がかかった。
肩に触れた両手が、次第に身体のあらゆるところをまさぐってくる。
なんで?
なぜ、僕がこんな目に。
何も悪いことはしていないはずだ。
ゴミ出しを手伝わないことも、いじめを見て見ぬふりをすることも、道路わきの猫の死体を見過ごすことだって、悪いことではないはずだ。
看過なんて皆やってる。
救いようの無いことなら、最初から関わらない方がいい。
そもそも、僕には関係ないことじゃないか。
でも――
『なんか、辛いことあったでしょ。分かるよ、幼馴染なんだから』
不意に、幼馴染の彼女の言葉が脳内再生される。
『無理に話さなくたっていいけどさ、我慢できないときは早めに言いなよ』
そんな風に優しく接してくれる人が傷つけられているのに、見過ごせるほど傍観者ではいられなかった。
そうだ、半端に関わってしまったから。
守るものと守らざるものの、取捨選択をしてしまったから。
これは罰なんだ。
今まで看過され、見殺しにされてきた者達の憤りが、今僕に向けられているんだ。
そうやって、自分の置かれている現状を受け入れようと思考を走らせ終わった頃にはもう、僕の顔は男の唾液まみれでベトベトになっていた。
「ンンッ、イイ。トッテモ、オイチイナ!」
男は歓喜に顔を綻ばせ、恍惚の笑みを浮かべている。
「モット、向コウ側、イキタイ……連レテ行ク」
そう言うとおもむろに、自身の履いている黒いズボンのベルトをゆるめ始めた。
この後のことを想像した僕は、目を瞑り、考えるのをやめた。
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