警官

 雨に濡れ、冷えきった身体は、風呂に浸かると生き返るかのように温まっていく。


 浴槽のふちに手をかけ、はあっと息を吐いてリラックス。


 例の立入禁止場所に何も無かったのだったら、余計な寄り道はせずにとっとと帰宅すればよかった。


 そんな「たられば」も、立ち上がる湯気と共に霧散していく。




 入浴してしっかり身体を温めた後、軽く水を払って身体を拭く。寝間着に着替え、タオルを首にかけ浴室を出ると、何やら玄関から話し声がした。

 気になってこっそり、廊下の陰から玄関を覗き込む。


 思いもよらぬ光景にぎょっとした。


 二人組の警官と母が、何やら会話していたのだ。

 警官は雨に濡れたのか、深く被った帽子からぽつりぽつりと水滴がしたたっている。帽子のつばは顔に濃い影を落とし、視線の向く方向は悟れない。

 その姿に、安心感よりはむしろ、恐怖感を煽られた。


 ――まさか、立入禁止場所の件だろうか。


 しかし入ったことに誰かが気付いたはずも無いだろうし、あの場所は単なる空き地だった。入って咎められるようなことは何も無いはずだ。


 考えていると、僕の気配を感じたのか、振り向いた母と目が合った。その母の動作を見た警官も僕を見て開口する。


「こんばんは。夜分にすみません」


 隠れているのもいたたまれなくなり、廊下の陰から身体を出して「こんばんは」と挨拶を返す。


「近頃、この付近で空き巣や盗難が多発しているようでして」


 話を聞くに、どうやらパトロールや注意喚起の類で訪問しているらしい。

 てっきり事情聴取か何かかと思っていたので、安堵感から「ふっ」と息を吐く。


 しかし、警官二人組のうち、一人が僕に向かって言う。


「君、入ったでしょ」


 帽子の陰から警官の左目だけが露わとなり、ぎょろりと僕をにらむ。

 まるで人ならざるものかのように、その目は大きく見開かれていた。

 威圧的な雰囲気に思わずたじろぎ、まるで蛇に睨まれた蛙のように身体は硬直してしまった。


 ――なんで、今その話が出てくる?


 警官の問いに何と返そうものか逡巡する。

 関係者以外立入禁止の看板が立っていた道には、監視カメラや防犯センサーの類は無かった。

 よくよく観察するまでも無く、あの場所は人工的な何かを設置できるような場所では無い。木々に囲まれていて、電源となるものも、それに繋がるようなコードらしきものも見当たらなかった。


 そもそも、そういった防犯設備は不要なはずだ。道の先はただの空き地に過ぎない。だったらなぜ、この警官は、僕に断定的な問いかけをしたのだろう。


 金縛りにあったかのように固まっていると、「おい」ともう片方の警官が、僕をにらんだ方の警官の腕を肘で突く。


「困らせちゃってるだろ。すみませんね、ウチの若手が妙なことを言ってしまって」


 そう言うと「それではご注意ください」とだけ言い残し、二人とも玄関から出ていった。


 外では何やら、「勝手なことをするな」「いやいや、疑ってかかれって先輩が言ったじゃないですか」と軽く言い争うような声がしたが、雨の音にかき消され、あっと言う間に聞こえなくなった。


「どうしたの?」


 呆然と立ちすくんでいた僕は、母の声で我を取り戻す。


「別に、空き巣になんて入ってないわよね?」


 母からの、不安げな問いかけで安堵する。

 ああ、そういうことか。

 あの警官は、「空き巣に入ったでしょ」という意味で僕に問いかけたのだ。


「ははっ。空き巣になんて、入るわけないだろ」


 安心感から、思わず笑ってしまった。


「何よ。いきなり笑いだして、気持ち悪い」


 僕の反応に母は毒づく。「雨に濡れておかしくなったのかしら」とかぶつぶつ言いながらキッチンへ戻っていった。


 確かに、僕はちょっとおかしくなっていたかもしれない。


 話の流れで、空き巣に関しての話題だと、なぜ分からなかったのだろうか。関係者以外立入禁止の看板のことが頭から離れず、無自覚に結びつけてしまっていたのかもしれない。

 あの看板も、あの空地も、なんでもないに決まってるのに。

 

 だから、これ以上考える必要も無いはずだ。

 それなのに、「入ったでしょ」と問うたあの警官の顔が脳裏に焼きついて、背筋に冷たいものが走る。

 帽子の陰から僕をにらみつける、ぎょろりとした大きな目。人ならざるもののような。


「……」


 やっぱり、雨に濡れて少しおかしくなっているのだろう。

 心身を休めるべく、夕食後は早く寝ることに決めた。

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