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右親指のささくれが出来て触るたびに痛くなるので、バンドエイドの個包装を剥がそうとするとうまく剥がれず、コンロで沸かす湯がしゅんしゅんからごんごんと鳴り、薬缶の湯は
早くしろ早くしろ早くしろ早くしないと爆発するぞ
と訴えてくるので仕方なく鋏を使って個包装の端を切る。バンドエイドの個包装は剥がれてささくれを優しくカバーしてくれるので、ホットのミルクコーヒーを飲みながら一息つく
図書館からの帰り道
中島みゆき『傾斜』が耳のなかで繰り返し繰り返し鳴る
傾斜10度の坂道を腰の曲がった老婆が 少しずつ登っていく
紫色の風呂敷包は
また少しまた少し重くなったようだ
彼女の自慢だった足は
うすい草履の上で 横滑り横滑り
登れども登れども
どこへも着きはしないそんな気がしてくるようだ
冬から春へと坂を下り 夏から夜へと坂を下り
愛から冬へと人づたい
登りの傾斜は険しくなるばかり
年をとるのは素敵なことです そうじゃないですか
忘れっぽいのは素敵なことです そうじゃないですか
哀しい記憶の数ばかり飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか
出かける前
小泉義之「文学の門前」という連載を雑誌のPDFで読んでいて
ドストエフスキーって誰ですか マルクスって誰ですか
と学生たちが真面目な顔で聞くから呆れてものが言えない
と大学教員たちが嘆いている
自分たちが学生だったときはドストエフスキーもマルクスも貪るようにして読んだのに
ドストエフスキーもマルクスも熱狂的に読まれた後
ドストエフスキーもマルクスもすっかり忘れられ 誰も覚えていない
それは 嘆くようなことなのか そして いったい誰が嘆くのか
図書館からの帰り道
急な坂を登ったからか 『傾斜』のフレーズが記憶から飛び出してきた
年をとるのは素敵なことです そうじゃないですか
忘れっぽいのは素敵なことです そうじゃないですか
哀しい記憶の数ばかり飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか
ドストエフスキーもマルクスも文学や哲学の過去の「商品」なので
他の新しい本が棚からあふれ出し 記憶の飽和量が増えたとき
知恵のあるなしにかかわらず 自然と忘れるものだと思う
急な坂の途中に バカでかい鉄塔が立っており
その周りには 家々がひしめいている
こんな家 なぜ売ったんだ? なぜ買ったんだ?
とわたしが独り言ちると 家の住人ががらっと扉を開けて出てきて
もちろん安いからだ! と威張って答えた
低価格の家々には低価格の人生たちが低価格の生活を送っている
山の向こうには 駅ビルのタワーマンションが立っている
賃金が安くても高くても 土地が安くても高くても
日本人の日々の生活はみな同じ 判で押したように
凡百の美しく不気味で無個性な風景 無個性な生活を送っている
もはや遺伝子レベルで組み込まれた中島みゆきの“詩情哲学”
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