【単行本版試し読み】第2話(全7回)
「牛だよ、牛」
「お、松井君ね」
「シャワー室で誘ってきてよ」
「よし。わかった」
「早くシャワー浴びてきて。腹減ってしかたねえんだよ、俺」
そう言ってまた大鏡にジーンズの後ろ姿や横姿を映した。
「俺のケツ、でかいかな」
面倒なのでシャワーへ行こうとすると「増田君。逃げないで答えてよ」と強く言った。仕方なく立ち止まって「でかくないよ」と言った。
「なんで噓言うんだよ」
「でかくないって」
「絶対?」
竜澤は鏡の中の自分に問いかけるように聞いた。
「うん。絶対でかくない」
「この角度から見るとでかいような気がするけど」
「でかくないよ」
「そうかな」
片手で長髪をかきあげ、また後ろ姿を鏡に映した。そして「早く浴びてきてよ。増田君、遅いから嫌いだよ」と勝手なことを言った。竜澤はシャワー付きのワンルームマンションに住んでいるので武道館でシャワーを浴びる必要がない。マンション住まいは柔道部に二人しかおらず、もう一人は一年目の城戸勉で、『メンズノンノ』と『メンズクラブ』を愛読し、毎朝ズボンやシャツにアイロンをかけているらしい。
柔道場いっぱいに広がっていた合気道部員たちが真ん中に集まり、上級生らしき男子部員が腕を組んで訓示のようなことを始めた。それを機に私は竜澤をおいてシャワー室へと向かった。
道場脇のバーベル置場の横で一年目最強の東英次郎が上半身裸になって黙々と腕立て伏せ──柔道界で「すりあげ」とか「突き出し」とか呼ばれる特殊な腕立て伏せを繰り返していた。先ほどまで部員全員で三百回の腕立てをしたばかりなのにこの努力だ。体の下にはすでに汗の水溜まりができていた。その横で私は体重計に乗った。練習前より六キロ近く落ちていた。喉が渇くはずである。道場に一礼し、階段を下りていく。
途中で上半身裸の柔道部員たち何人かとすれ違う。練習の緊張から解放されて、みな表情が穏やかになっている。
一階ロビーへ下り、トイレと少林寺拳法道場の間を抜けて奥へ入っていく。そして蛇口がずらりと並ぶ洗面部屋のウォータークーラーで冷たい水を何度も息継ぎしながら飲んだ。
コンクリートの壁ごしに聞こえる音はシャワー用の小型ボイラーのものだ。十一月になればもうひとつの巨大ボイラーに火が入り、大量の湯を沸かす。そしてその蒸気が武道館内に張り巡らせた鉄製の管の中を循環するのだ。スチーム暖房である。北海道やソ連などの極寒地だけで昔から使われている放射暖房の一種で、北大では教養部や学部でも多くの建物がこの暖房方式をとっていた。
一リットルほども水を飲んで漸く落ち着いた私はシャワー室へ入っていく。
「おい、シャンプー貸してくれ」
「下から滑らすぞ。ほら」
コンクリート剥き出しの湿った空間に柔道部員たちの声が響いていた。コンクリートの臭い、黒黴の臭い、そしてお湯と石鹸の香り。前面にビニールカーテンのかかったシャワーブースは六つ。そのブースは上部が五〇センチ、下部が一五センチほど開いたパーティションで仕切られ、壁に固定式の金属製シャワー栓がある。カーテンレールに掛けられたバスタオルの色柄を手前から探していき松井隆のものを見つけた。その横の空きブースに入った。
「松井君。俺だよ」
カーテンを閉め、パーティション越しに声をかけた。
「あ、エキさん」
松井君がのんびりと言った。《エキ》というのは私の柔道部でのニックネームで一部の者だけがときどき使い、四年目の松浦さんは《エキノスケ》とフルニックネームで呼んでいる。
「今日も練習きつかったね」
私がシャワー栓を捻りながら言うと「もうやってられないよ。早く東北戦、終わってほしいよ」と《もう》の部分を伸ばしながら愚痴った。
私は固形石鹼を頭に塗りたくり、そのまま髪を洗い、顔、肩、腕と洗っていく。部員のなかには髪にはシャンプー、体には液体ボディソープと洒落たものを使っている者もいるが、私は固形石鹼ひとつで充分だと思っていた。そもそも柔道衣の裏はザラザラなので練習しながら激しい垢擦りをしているようなものだ。入部以来、垢なんか一ミクロンも溜まったことがない。
「それにしても松井君。どうしてリンスなんてするんだよ」
私が泡を流しながら言うと「どういうこと?」とのんびり聞き返した。
「だってその髪、何センチだよ。スポーツ刈りでしょ。一番長いとこでも二センチか三センチくらいじゃん。短いとこは二ミリとかでしょ」
「髪がしっとりとなるんよ」
「しっとりなんてしなくていいじゃん。短毛種の牛のくせに」
「エキさんたちがそんなことばっかり言うから一年目まで『もう』とか言って牛の啼き真似してくるんだよ」
「はっはははは」
私が声をあげて笑うと、松井君がまた「もう」と伸びる声で言った。
「それよりさ、竜澤とこれからみねちゃん行くんだけど、松井君も行かない?」
「なんか怪しいな。あんたら俺に奢ってもらおうと思ってるんでしょ」
常時一緒に生活するうちに同期には行動を読まれるようになっていた。
「そんなわけないじゃん」と私は優しく言った。「いつも松井君に奢ってもらってるから御馳走しようって竜澤と話してたんだよ。美味しいものを食べてほしいんだよ」
「そうか。疑ってごめん。ありがとう」
すぐに人を信じる松井君は「でも、いま勉強が滅茶苦茶忙しいんだよ。また今度でいいかな」と申しわけなさそうに言った。
「教養部でしっかり勉強しなかったからだよ」
「あんたに言われたくないよ」
笑いながら松井君が言った。私は同期でひとりだけ教養部で留年していた。北大は一年半を教養部で過ごして英語や数学などの授業を受け、二年生の九月から専門課程へと進学する。これを北大用語で「移行」という。そのさい希望の学部学科を募るのだが定員を超えると教養部の成績順に下位の者を撥ね付ける。だから人気学部人気学科を狙う者には教養部での成績は重要だ。
松井君は行きたくもない薬学部へ移行していた。北大薬学部は化学系クラスの理2からはトップ集団しか移行できないのに生物系クラスの理3からはドン尻集団が移行する捻れた学部だ。松井君の第一希望は獣医学部で、第二希望は理学部生物学科動物学専攻、第三希望が農学部農業生物学科だった。しかしすべてに弾かれて第十三希望として書いた定員割れの薬学部へ移行したのだ。
「松井君は化学が苦手だから勉強が大変なんだね。俺たちが酒に誘って松井君が留年したら柔道部が笑われちゃうから今日はやめとくね」
私は腰にバスタオルを巻きながらブースを出た。
「もう。だからあんたに言われたくないって」
松井君の裏返った声が後ろから聞こえたがそのままウォータークーラーへ行く。そしてまた休み休み一リットルほど水を飲んで、少林寺拳法部の楽しそうな練習を見て階段を上がった。柔道場に戻ると、竜澤がまだ鏡の前でジーンズのシルエットをチェックしていた。すでにトレーナーの上にはアーミーグリーンのMA−1を着ている。
「お、やっと来た」
竜澤が言った。
私は部室に入り、すぐにトランクスをはき、ジーンズとTシャツとトレーナーに着替え、革ジャンを羽織って道場へと出た。
「松井君どうだった?」
竜澤はこちらを見ず、鏡のなかの自分に向かって言った。
「勉強が忙しいからだめだってさ」
「牛に学問なんて必要ないのに何言ってんだよ。しかたない。今日は先輩巡りして何軒かまわることにするか」
鏡を見ながら尻をジーンズの上から二度叩き、「よし、行こう」と言った。
二人で道場から出るとき「失礼します」と腕立て伏せを続けている東が言った。他の一年目もいっせいにこちらを見て「失礼します」と言った。
彼らに片手を上げ、並んで階段を下りた。高校のときは帰る人が「失礼します」と言うものだと思っていたが、北大柔道部に入って日本語としてはこちらが正しいのだと知った。
一階へ下り、階段下の鉄製下駄箱からサンダルを引っ張り出して、たたきに放り投げた。そこには靴がたくさん脱ぎ捨てられているが、いくつかあるサンダルはすべて柔道部員のものだ。この季節にサンダルで学校へ来ているのは柔道部だけである。
二人でサンダルをつっかけて玄関のガラス扉を肩で押す。ひゅうと風の音が鳴った。この扉は鉄製枠でやたらと重く、気圧差なのか開けるときにいつも風が鳴る。
かなり冷え込んでいた。革ジャンの襟を立てた。
「あれ……雪だ」
竜澤が立ち止まり、夜空を仰いだ。ミーティングのとき窓外の雪に気づかなかったようだ。私も横で空を見上げた。今日は曇天だったので星は見えない。その漆黒の空に、ふわふわと粉雪が舞っている。
「また冬かよ」
竜澤が怒ったように言った。私に怒っているわけではない。札幌の長い冬に怒っているのだ。
去年の初雪も十月だったなと思い出しながら私は白い息を吐いた。そして落ちてくる雪を両手で包みこむようにつかまえた。手を開くと、すでにそれは手のひらの中で解けていた。
「しょうがねえや。行こう」
竜澤が歩きはじめた。肩を並べて歩いていく。
寒い。明日からは中に着ているトレーナーの上に厚手のパーカーを重ねなければならない。薄手のトレーナーと薄手の革ジャンではもうもたない。竜澤のMA−1はかなり内綿が詰まっていそうだが、それでもTシャツとトレーナーだけではもたなくなるだろう。
車止めの鉄柱の間をすり抜けて道路へ出ると馬糞や飼料の臭いが漂っていた。武道館と道路を挟んで向かい合う馬術場だ。風向きによって臭ったり臭わなかったりする。噓か本当か、何年か前の柔道部の先輩たちが馬術部女子に合コンを申し込んだところ「柔道部は臭いから嫌だ」と断られたという。「馬術部だって臭いじゃないか」と先輩たちは言い返したらしい。
二人は両手をポケットに突っ込み、背中を丸めて黙って歩いた。疲れきった体を引きずるようにして、とん子や喫茶店〈イレブン〉の前を通り、北十八条の交差点に出た。雪が少し大粒になってきた。スパイクタイヤを履いた気の早い車も走っていて、鉄製スパイクがアスファルトをカツカツと叩く音が鳴っていた。
道路上を冷たい風が吹き抜け、頬や耳に雪が貼りついてくる。横断歩道を歩きながら二人は小刻みに体を震わせた。渡りきったところにホテル札幌会館がある。この辺りでは少ない高層建築で茶色いタイル貼りの古いビジネスホテルである。
「まずは、みねちゃんから覗こう」
私が顎でホテル札幌会館の向こうをさすと、竜澤は「違う違う」とジャンパーのジッパーを上まであげた。
「先輩がどの店にいる確率も同じだとすると、いったん南へ下ってから順に北上したほうがいい」
確率計算で何か意味があって言ってるのかもしれない。竜澤はこの九月に理1から工学部土木工学科へ進んだゴリゴリの物理系である。
「だったら、〈みちくさ〉か」
「あそこは可能性高い。五年目や院生の先輩も使ってるからな」
さらに背中を丸め、二人で南へ下っていく。次第次第に雪が大粒になってきていた。この片側二車線の通りが地元で北大通りと呼ばれるのは、北大キャンパスの東側の塀に沿ってまっすぐ走っているからである。札幌市内を南北に貫く大動脈のひとつだ。
雪で白く霞みはじめた北大通りを歩きながら夏の七帝戦最下位から今日までの様々なことが想い出され、切ない気分になった。北大柔道部はこれからどうなっていくのだろう。
北十四条まで下り、トタン葺きのみちくさの前に立った。屋根だけではなく外壁はすべて錆びたトタンで、建物全体が大きく傾いている。《みちくさ》の暖簾がなければ古い物置にしか見えない。真冬になると入口以外はほとんど雪で埋まってしまうため、去年は竜澤と二人で何度か雪かきを手伝った。
「増田君、覗いてみて」
両手のひらを息で温めながら竜澤が言った。
「みちくさから行こうって言ったのは自分なんだから自分で見ろよ」
「頼む。お願い」
顔の前で両手を合わせた。深い理由はない。先輩がいたら最初に挨拶しなくてはならないし、いなかったらママと何を話したらいいのかわからない。そんなところだ。しかたなく私は暖簾をわけて引戸を引いた。首だけを入れるとカウンターの中でママが細面の狐顔を上げた。
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