2023年6月5日の日記 甥っ子よ、お花に水をあげましょう

「○○ちゃんもお花にお水あげるぅー!」


 出勤前に花の水やりをしようとしていたら、甥っ子が追いかけてきたので流れるように靴を履かせてミニじょうろを持たせた。ここで禁止したり無視したりすると余計こじれる。


「どのお花にあげる?」


 甥っ子は私の許可した鉢植えにしか水をやらないよい子だ。私は鉢植えの土の乾き具合を確かめ、「これならいいよ」と指差す。甥っ子はミニじょうろで水をチョロチョロやる。もちろんそれでは足りないので私も大きなじょうろでたくさん水をやる。


 甥っ子は真剣な表情だ。水をどんどんやる。このじょうろでは出ないだろうという量の水が出る。


「ちゃーーーー」

「○○ちゃんもういいよ。お花びしょびしょになっちゃう」

「ちゃーーーーーーーー」

「○○ちゃん!」


 水は増え、どんどん地面まで垂れ、土を濡らし、水かさは増え、甥っ子はとうとう地元を水没させてしまった。何ということだ。私は怯えながら屋根だったものに甥っ子を乗せて水没した地元の上を漂っているが、甥っ子は変わらずじょうろで水をやっている。とうとう世界中が水に浸かり、全陸棲生物が滅びてしまった。


「○○ちゃん……、もういいよ。もう世界は滅びてしまったから」

「ちゃーーーー」

「駄目だ聞いてない……」


 私たちは世界の上を漂った。水没すると元々言われていたバヌアツやヴェネツィアの上を申し訳ない気持ちで見下ろし、魚が泳ぐ中をパリのエッフェル塔が沈んでいるのを眺めた。ピラミッドも水浸しでミイラもぶよぶよだろう。カンガルーも、パンダもいない。いるのは甥っ子が大好きな海洋生物だけだ。


「○○ちゃん、寂しくなっちゃったね」

「ちゃーーーー」

「駄目だ話が通じない」


 甥っ子は水かさを増やし続けた。私たちが乗っていた我が家の屋根の切れ端ももう限界だ。


「○○ちゃん、もうおしまいだよ」

「ん? 何で? ちゃーーーー」

「世界が水浸しになっちゃったから」

「ちゃーーーー。あれ? なくなっちゃったお水ー」

「本当……」


 水がなくなっても世界が滅びたらどうにもならない。私は虚脱して甥っ子を抱きしめた。


「お花咲くかなあ」

「咲くといいね……」


 私は力が抜けたまま目を閉じていたが、何だか世界が明るく、わたしたちの場所も高いところはでない感じがした。目を開けると、水がどんどん減っているところだった。


「○○ちゃん、世界がまた見えるようになってきてるね」

「○○ちゃんそろそろおうちに帰りたいなー」

「おうち残ってるといいね……」


 私たちはとうとう地面に着地した。最初は水を吸ってぶよぶよだった地面も、次第に乾いてきた。私は甥っ子を抱っこして歩いた。サンダルしか履いていないのでとても歩きにくい。私たちはヒマラヤ山脈の麓の町に着き、世界を見下ろした。


 花、花、花の洪水だった。白やピンクや水色の花が咲き乱れ、さながら花畑だ。どこを歩いてもそうだ。ゴビ砂漠や長江周域は花々で満たされ、大陸内部が水不足で乾燥し、川が枯れているなどの話も嘘のようだった。川を魚が泳ぎ、乾いた地面を兎が跳ねる。鳥は飛び、空は高く晴れているし、まるで天国だ。


 でも人間がいなければ意味がないのでは……。私はこれからどうやって甥っ子を育てればいいのだ。


 そう思っていると、花畑からむくりと人が起きてきた。何だかぼんやりとしていて、夢から覚めたかのようだ。辺りを見回し、目が輝く。私たちを見て、微笑む。


 その親切な中国人は、まるで悪人から善人へと生まれ変わったかのような気分らしい。元々犯罪をしていたわけではなかったが、以前は欲にとらわれ、他人を助けることがなかった。けれど今はあなたたたちを助けたい気分なのだ、と言う。そういうことを漢字のやりとりで知った。


 その男性は甥っ子を肩車してくれ、知人に連絡し、私たちを中国から出してくれることになった。北京も香港も花でいっぱいだ。私と甥っ子は明るく輝くような表情の人々と挨拶を交わし、親切にしてくれてありがとうとお礼を言って、貨物船で日本へと向かった。


 海もきれいだ。どこもかしこも生命で溢れ、イルカが泳いで甥っ子に遊ぼうと誘う。甥っ子はキャアと叫んでは笑った。


 九州の田舎町はどうなっているだろうか。私は甥っ子を連れ、親切すぎるほど親切な人々に案内されて実家へと向かった。その道中は全て溢れんばかりの花で満たされていた。街路樹だけでなく、アスファルトの隙間から生えた雑草の花もあるし、花屋や植物園の花は尋常でないほど大きく活き活きしている。


 親切な人が私たちを連れていき、私は家族と再会した。やはり家は花だらけで、花の匂いで満ち、家族は心から嬉しそうに迎え入れてくれた。


「お花いっぱい咲いたね、おばちゃん」


 甥っ子はニコニコ笑い、自分で靴を脱いで家の中に勢いよく駆け込んだ。わっと家族が沸く。玄関前の私の鉢植えの植物もびっくりするほど元気で、花々は私にも元気を与えてくれた。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る