銀貨一枚分の隔たり

 前の町を出発して4日後の夕方、ユウはトリスタンとダンカンの2人と共に遙かな川にたどり着いた。川の対岸へ渡るための渡し場近くまで歩くとそこで立ち止まる。


 荷馬車の集団は渡し場に続く行列に並んだ。盗賊を撃退した人々は待っている間にお互いの健闘を称え、別れを惜しんでいる。


 一方、徒歩の集団はひどいものだった。盗賊に襲われた人々の多くは殺されたり身ぐるみを剥がされたりしていたので、人数は出発したときの半分以下になっている。その生き残った人々のうち、一部の者たちが川を渡ろうとしていた。


 スチュアの町へと向かう途中のユウたち3人は渡し場に続く行列から外れて原っぱに佇んでいた。昼過ぎから感じるようになったぬるい風をそのまま浴びている。


 ユウはぼんやりと川向こうにあるボナの町の風景を眺めていた。かすかに人が動く様子を見ながらつぶやく。


「うーん、川を渡れば町に入れるんだよねぇ」


「川のこっち側にも町があったら良かったんだけどな」


「渡し賃が銅貨1枚でしたらあっしも行ってたんですけどね。さすがに銀貨1枚もするとなると、気軽には渡れません」


 3人とも何ともいえない表情を浮かべながら対岸へ目を向けていた。前の町から4日と旅路はいつもより短めだったが、盗賊の襲撃をやり過ごすなどそれなりの苦労はあったのだ。それを癒やすためにも酒場で飲んで食って宿で休みたいと思うのは人情だろう。


 みんな揃ってため息をつくと対岸を見るのをやめた。これは最初からわかっていたことなのだからと気持ちを切り替える。


「ユウ、トリスタン、そろそろ夕飯の支度をしましょう。場所はあっちの川べり近くがいいですかね」


 行商人が指差したのは遙かな川の川岸近く、東物品の街道から少し離れた所だ。周りに野宿をしている人もいない。


 指定された場所を知ったトリスタンがダンカンに顔を向ける。


「あの場所って何かあるのか?」


「川の近くなんで水を汲みに行きやすいんですよ。今日からは鍋料理の水は川の水を使うつもりなんで」


「水袋の水の代わりにか」


「そうです。あっちは飲み水として使いたいですからね。川の水だと一度沸かさないと口に入れられませんが、鍋料理を作るときは必ず水を沸騰させますから問題ないでしょう」


「なるほどなぁ」


「それと、川沿いに薪になる枝木があるなら、毎日水を沸かして飲み水も作れます。日持ちはしないんで毎日使い切る必要はありますが、この辺りの川沿いなら大丈夫でしょう」


「冬だとお湯が飲めるのか。それはいいな」


「ええ、寒い日なんかだとちょっとしたごちそうになりますよ」


 真冬の平原を寒風に曝されながら歩くと身が凍えることはトリスタンも知っていた。そんなときに湯を口にできるのならば、それは望外なことであることも簡単に想像できる。夏である今に思い浮かべると汗が吹き上がってしまうが。


 考えがあっての提案ということでユウとトリスタンはダンカンの言葉に従った。川岸のそばに着いて地面に荷物を降ろすと夕食の準備に取りかかる。


 作業の手順はほぼいつも通りなので全員迷うことはない。ただ一点、今回は川の水を使うので水汲みをする必要があった。


 背嚢はいのうから鍋を取り出したユウが立ち上がってダンカンに声をかける。


「水を汲みに行ってきます」


「お願いします。水は目一杯汲んできてください」


「途中でこぼしちゃいそうですね」


「川からいくらでも汲めますからこぼしても平気ですよ。いくらでもやり直せますから」


「それは面倒だなぁ」


 行商人の冗談にユウは苦笑いを返した。それからすぐに鍋を持って川へと向かう。


 次第に朱くなる空の下、ユウは河原を横切って遙かな川の目の前までやって来た。足下のすぐ先から向こう側には大量の水が静かな音を立てながら流れている。


 一度立ち止まった後、靴を履いたまま川の中に入ったユウは膝の3分の1辺りまで川に入った。その辺りで手にした鍋で川の水を掬う。縁まで水を入れた鍋はなかなかに重い。振り返って川から出たときに鍋の水が少しこぼれた。その水は服にも少しかかる。


 その様子を見たユウは唐突に水浴びと洗濯のことを思い出した。茶色の川でやれなかったので最後にやったのは初航海前のことである。


「早く水浴びと洗濯をしたいなぁ」


 思い出すとユウは遠ざかる川が急に恋しくなってきた。何度か振り返りそうになる。


 出発は明日の朝なので水浴びだけなら可能だ。しかし、どうせなら服も一緒に洗いたい。でもそうなると、服を乾かしている間は素っ裸である。トリスタンはまだしも、ダンカンにそんな姿を見せるわけにはいかない。


 何もなければ5日後にはスチュアの町に到着する。そのときを楽しみにユウは己の欲求を我慢した。




 翌朝、ユウは日の出と共に目覚めた。今日も東から差し込む日差しは強い。


 見張り番を終えたトリスタン共々荷物番をしながら出発する支度を整える。それほど荷物を広げていないので大して時間はかからなかった。


 用を済ませたダンカンが戻って来るとユウに声をかける。


「干し肉を食べ終わったらどこかの集団に混ざりましょう」


「スチュアの町に向かう荷馬車の数は東物品の街道よりも少ないですね」


「ボナの町とスチュアの町の間は遙かな川を利用した水運が盛んですから。それでも、これから出発する荷馬車の数は充分にありますから急ぐ必要はありませんよ」


 のんびりとした様子のダンカンが腰を下ろして荷物から干し肉を取り出した。それを噛みながら街道へと顔を向ける。


 遙かな川を渡ってボナの町からやって来た荷馬車が近辺の原っぱに散って行った。東物品の街道近くの原っぱに点在する荷馬車の数の方が多いが、遙かな川沿いに伸びる悠久の街道近辺にも荷馬車はいくつも停車している。水運だけでは運びきれない品物を積んでいるのだ。


 こんな状態なので徒歩の集団がついて行く荷馬車の集団には事欠かない。特に朝方はそうだと知っているダンカンは余裕の姿勢を崩さなかった。


 更にダンカンはユウに笑顔を向けて話を続ける。


「それに、これからは川沿いを歩くわけですから、暑くてたまらないときは川に飛び込んでしまえばいいんですよ」


「え? このままですか?」


「もちろん荷物ごとというわけにはいきませんが、服ごと飛び込むんですよ。こんな暑い日だとどうせすぐにかわきますからね」


「ああ、なるほど!」


「昼休憩のときなら荷物を降ろしますから、ちょうどいいんじゃないでしょうか」


 旅の途中は何かと我慢するものだと思い込んでいたユウは、そうでもないということをダンカンから教えられて目を輝かせた。洗濯こそできないが、水浴びならば毎日できるのだ。


 喜ぶユウの姿を見たダンカンは火の消えた焚き火跡にちらりと目を向けてすぐにユウへと戻す。


「それにしても、昨晩ユウが大の水浴び好きだと聞いたときは面白かったですね。真冬でも川に飛び込むだなんて信じられませんよ」


「飛び込むっていうほど派手じゃないですよ。ゆっくりと入りますから」


「結局川に入るんじゃないですか。あっしはそこまではしませんねぇ」


「ははは」


「でも、トリスタンも無理矢理川に入れるっていうのはどうかと思いますが」


「無理矢理じゃないですよ。ねぇ、トリスタン」


「ん~、どうだったかなぁ」


 起きて干し肉を囓っていたトリスタンはユウに話を振られて首を傾げた。その顔はいささかにやついている。


 形勢はユウにとって不利になりつつあった。なので何とか話題を逸らそうとする。


「ああでも、これからは毎日川に入れるんですよね。ダンカンは川沿いを歩くときはいつもそうしているんですか?」


「さすがに毎日ではないですよ。何日かに1度です。ユウはもしかして毎日川に入るつもりなんですか?」


 問われたユウはダンカンから顔を逸らした。すると、ちょうど笑いをこらえているトリスタンの姿が目に入る。話題の転換には失敗したようだ。


 いささか呆れの混じった声でダンカンが感想を漏らす。


「ユウは余程きれい好きのようですね」


「そこまでだとは自分で思っていないですけれどね」


 自分でも少し苦しいかなと思いつつもユウは言い訳をした。それきり黙る。


 食事が終わると、ユウたち3人は立ち上がって荷物を背負った。具合を確かめて背中を落ち着かせると徒歩の集団のひとつに加わる。


「今度は何もなければ良いんだけどな」


「警護兵が巡回しているんだからたぶん大丈夫なんじゃないか?」


「街道の半ば以降は注意しないといけないですよ。切れ端の丘陵に近いですから」


 旅の平穏を希望するユウとトリスタンはダンカンの警告に顔をしかめた。わかってはいることだが、たまには目を逸らしたいこともある。


 いささか意気消沈しつつも、自分の番がやって来るとユウたちは歩き始めた。

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