三本指の果実の踊り
三本指の果実の踊り、1
窓から差し込む白い光が夜明けを告げる。
しかしこの習慣に慣れていなければ床を照らす淡い線で時間を認識するという判断に至らない。無為に横たわっていたベッドから起き上がってカーテンを閉めると、ペルシェは経験したこともない手持ち無沙汰の夜を抜けて余計に疲れた気分で頭を掻いた。
ここ数日間、隣の部屋で眠る監視対象の様子を見張るだけで夜を明かしているが案の定アシュレイの部屋からは異質な物音も扉が開く音も一切聞こえることはない。壁越しに耳を澄ますより本人の部屋で監視している方が眼も使えて都合がいいのだが、それをシャルロットに申告したところ「それは校則違反より以前の問題だから駄目よ」と緩やかに却下された上、あまり生徒の部屋に入らないようにと釘を刺されてしまった。言ったせいで逆に行動が制限された。
どうせ朝の準備を済ませたアシュレイがこの部屋の扉をノックして知らせてくれるのでそれまで待つだけだ。パターン化してしまえば待機時間も苦ということはない。サイクルが変わっただけでやることはそう変わらないのだ。
変わったことといえばこの部屋で過ごすようになって、ずっと誰かと会話をしていることくらいか。
「ペルシェ」
扉の向こうから小さくくぐもった声。ぱっと顔を上げて外套に身を包み、呼び声のする扉を粗雑に開けると一日ぶりの容疑生が立っている。
「おはよう。今日は雨だね」
「雨?」
成程、窓を叩く小さな粒の音は天候の影響か。地下にいた時間が長いせいで本当に外の変化に鈍感になっている。
「雨の日は何かあるの?」
「特に変わりはないよ。外での訓練が明日になっただけ。学舎はすぐ近くだから降られるのはほんの一瞬だけど、傘を持っていく?」
アシュレイは少し濡れるくらい問題ないと思っているようだ。なら自分もいらないだろうと判断して首を振った。
「今日も机の上ってこと?」
「そうなるね」
そう答えるとペルシェが何も言わなくなったので、生徒は不安げにこちらを覗き込んでくる。
「……あの?」
「あんた、成績良いの?」
「えーうーん……学力はだいたい三、くらいかな」
フェーヴに報告するほどのものでもない。突出した才覚も得意な科目も全ての勉学に平等に抱く情熱もなく、みんなの中間を常に保っている。
「違う、戦闘術に関してはどうなってるの」
戦闘術。これも六年間を通しての必修科目であり、多くの生徒にとっての難問である。アシュレイにとっても例外ではない。
「えっとそれも……」
伝えづらくて口ごもったところで、ザラザラと頭の中を耳鳴りが通過していく。
アシュレイの体が反射的に強張る。嫌な記憶がフラッシュバックするように肌が粟立って、ペルシェにも同時にこの気配の正体を明確に知らせる。
「——これ、」
ペルシェにとっては特に珍しいことではないが、生徒にとって一番怖いものはあいつらなのだ。決して不自然な反応ではない。〈執行官〉の瞳がすうっと暗くなる。
「お出ましだね」
「あの……」
手首を引っ張られて走るアシュレイは耐えきれずに自分を引きずって走っているペルシェに声を掛けた。嫌な予感がただの予感のままで終わらないような。
とっくにぼろほろの平穏が、また足音も立てず去っていくような。しかし返事をする気のない彼女からは一言も返ってこない。
ふ、と足の運びが緩やかになり、とある廊下で二人は立ち止まった。
「なんだ、誰もいないし。来といてよかったみたいだ」
案の定、そこには四体のメレンゲ食いが食べ物を探してふわふわと漂うように飛び交っていた。しかし彼女は即刻排除に向かうわけでもなく、少し遠くから様子を窺って。
どうしたのだろうと〈執行官〉を盗み見ると、彼女も丁度こちらを見た。そして、ひょいとあれを指してアシュレイにこう言った。
「やってみる?」
「や、って……?」それが何を意味しているのか瞬時に理解してしまって、アシュレイは猫の毛が喉が詰まったように咳き込んだ。「ええ? 無理だよ」
考慮の間もなく拒否したアシュレイに眉を顰めるペルシェ。その仕草は今にもこちらに気付いて襲ってきそうな距離にいるメレンゲ食いを少しも気にしていないかのよう。
「見てるだけは良くない。フェーヴはメレンゲ食いを殺すのが仕事なんだから」
「そう、かもしれないけど。でも僕には」
目の前に迫る危険に焦燥を隠しきれないアシュレイは後退りしながら、ペルシェと奴らを交互に見ている。彼女はメレンゲ食いを無視してアシュレイに向き合い、手の平に首切り斧を呼び出してみせた。重みで床に石突が床にガンと落ちる。
「あいつの杖に選ばれ、メレンゲ食いの呼び声を聞くあんたにもその力は備わってるはず」
じり、と意識下に逃げる脚をなんとか留め、アシュレイは今の音で自分たちに気付いたメレンゲ食いを横目に問うた。
「……どうしたらいいんだ」
「呼べばいい。呼べば来る」
漠然とした言葉。それで十分、と言いたげにペルシェはアシュレイをじっと眺めて、アシュレイが始めるのを待っている。流石に溜め息を吐いたアシュレイは仕方なく目を閉じて、集中する。
呼ぶって何を?
暗闇の中、手探りで何かを掴むように。あの形を思い出せる限りで思い描き、助けを乞う。
差し伸べるように掲げた指先に仄かな熱が迸った。慌てて受け取ると、手の中に何か落ちてきたような感触があって。
「来た……」
目を開ければアシュレイの手にはあの杖が握られていた。素朴だが、ささやかに細い彫刻が施された美しいT字握りの杖。
冷や汗が首筋を伝う。しかし安心している場合ではない。メレンゲ食いはすぐ目の前に近付いて来ていて、ペルシェが襟を引っ張って離さなければ髪の毛一本では済まなかっただろう。
先頭にいたメレンゲ食いをペルシェの斧が両断したが、他の三体は怯まず襲ってくる。
「ほら、行って」
「ちょ……!?」
背を押されてよろけたままメレンゲ食いに体ごと突っ込みそうになり、咄嗟に杖を盾にして食いついてくる敵を受け止めた。
食欲旺盛、悪食と言うが、淡々と栄養を求める姿は花に留まる昆虫と等しい。無駄な動きもせずに杖から離れ、ふわりと翅を動かして横にずれてからまたアシュレイに食いつこうとする。それをまた防ぐ。一匹への対処で一杯一杯のアシュレイのすぐ傍を斧が振り下ろされ、群がってくる他のメレンゲ食いが一瞬のうちに微塵にされた。
自分に与えられたのは杖。一見ただの杖だ。アシュレイがこの化け物に勝つには、この武器とは呼べない〈司書〉の斎具を使いこなさなければならない。どのようにすればこれで彼女のように仕留められると言うのだろう。
「腰が逃げてる」
「わっ、ちょっと……そんなことしてる場合じゃないよ!?」
突然背中をつっつかれて強張っていた体が跳ね上がる。食べられそうなのに遊ばれているような気がする、心なしか。そりゃ、ペルシェにとってはこんなメレンゲ食い一匹などすぐに対処できるのかもしれないけれど。
「怖いって思うから怖いんでしょ。あんたはやろうと思えばやれるの」
「そうは言っても、うっ!」
メレンゲ食いの動作に予測ができなくて、杖越しに揉み合った末にアシュレイは床に倒れ込んだ。考える前に六年間の訓練の賜物か体は即座に体勢を整えようと動いたが、メレンゲ食いがそれを待ってくれるわけもなく好機とばかりに顎をかっと開いて。
砂糖のような仄かな香りと、ザラザラと鳴り続ける耳鳴り。
直感に弾かれて顔を上げると今すぐ首を掻き切れるほどの距離に開かれたメレンゲ食いの口があって。
「あ」
これが最後の呼吸か、と喉の奥が凍った瞬間。メレンゲ食いの頭と胴体が分断されてぱっと散った。
メレンゲ食いの鱗粉で満ちた空気を吸って、その粉塵の先に佇むペルシェをなんとか見上げる。〈執行官〉は首切り斧を肩に担いで無感情の瞳をこちらに向けた。
「メレンゲ食いが四匹。それもすでに討伐済。通常の発生事案だ、お疲れさま」
後から到着したキシェが報告を受けて手元の帳面に書き留める。そう何度も異常な数がいっぺんに出現するわけもなく、〈憲兵〉は慣れた様子で現れて対応している。アシュレイを退治に参加させたのはペルシェの自己判断であったらしく、それについてはさすがの〈憲兵〉も彼女に直接苦言を呈していた。
「……大丈夫?」
そっと机にココアの携帯カップが置かれ、自分を気遣う声が降ってくる。
「もう大丈夫です」
今回の発生ポイントが今年は使われていない教室の前だったらしく、誰も巻き込まれずに済んだのだ。簡単な後始末があるのでそれが済むまで待機するよう〈憲兵〉に言われ、置きっぱなしだった席にアシュレイは一人座っていた。
ペルシェの勝手に対してかアシュレイの嘘を見透かしてかキシェは苦笑いして、机の横に立ったままぽつぽつと話しかけてくる。
「痛いところもない?」
「はい」
淀みない返事に少し間が空いて。
「僕も初めての時は怖くって倒せなかったよ。君に怪我がなくてよかった」
遠慮ではなく本当に怪我がなさそうだと分かると、飲んでねと言うようにカップにとんとんと指を置いてから部屋を出ていった。
ペルシェの呼び声が聞こえたので立ち上がり、アシュレイはカップを手に教室を離れていく。
だから他の生徒を差し置いて自分がフェーヴに選ばれたなどという話に半ば懐疑的なままいるのだ。自分は特別優秀というわけでもない。みんなと同じ背丈の人形もどき。六年生の首席をはじめ、自分の他に優れた生徒など沢山いるのだから。
杖を持つに相応しくない手を掴んで震えを止めながら、ココアの震えを見下ろして。
始業前の鐘が鳴る。
どうしたらいいんだろう。
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