座敷とボタンと銀貨、2
「あれ、こんにちは看守さん」
翌日訪ねても彼は同じ調子で、ペルシェが格子越しに現れると、奥で顔を上げて破顔した。
「今日はいい天気?」
彼は座敷部屋に収監されて十日ほど経っているはずなのに執行人を怖がったり嫌悪したりする様子もなく、まるで級友に接するように自然体で話してくる。あまつさえこんな普遍的な笑顔で迎えられるのは、畏怖を受けるべき執行人たるペルシェにとってあまりに奇妙なことだった。
「無駄口をきかずに質問にだけ答えて。あたしはあんたたちとはあんまり話しちゃいけない決まりだから」
彼はまだ手慰みに一つのボタンを弄っている。座敷部屋に直す道具がないのでボタンはいつまでも床に置かれた上着のあるべきところに帰ることができないままだ。
と、また手の中がふいに空になる。どこにも落ちたりしていないのに。
「アシュレイ」
「え?」
いつもは格子の中からの声は無反応に徹しているのに、自在に操られるボタンに気を取られていたせいでついうっかり聞き返してしまった。
「僕の名前だよ。アシュレイだ」
「…………」
ペルシェは何も言うことができなくて口を閉ざす。
「君は?」
自己紹介なんて無意味だ。ここに収容された違反生たちの資料は事前に頭に入っているが、名前を呼ぶことなんてないんだからそれを本人から聞いたって仕方ない。
「あんた、昨日の質問の答えは覚えてる?」
「……メレンゲ食いのことで僕が君たちフェーヴより知っていることなんてないと思うよ。僕は守られる側の一般生徒だったわけだから」
ボタンが先ほど持っていた右手ではなく逆の手の指先からパッと現れる。彼の手の中で一体何が起こっているのだろう。
「……気になる?」
「気にならない。」
事ある毎に自分の手元を凝視している看守の即答にアシュレイはくすっと笑った。そして手の中をペルシェに見せてきた。
「ほら、これ見て。何だと思う?」
「…………」
「これはコインだ。みんなに使い込まれた銀製の学校通貨」
親指と人差し指で円いそれをつまんでスコープを覗くように看守に向ける。
「ボタンだけど」さっきから彼が持っているのは一つしかない。しかも硬貨なんて座敷部屋に持ち込めるわけがないので当然違う。
「そう見えるならそれでもいい。僕にとってこれは何の変哲もないコインだ。これで手品を見せてあげよう」
「……テジナ?」
コロンと手のひらに落としたボタン、もとい『コイン』はランタンに照らされてやはり銀色には見えないが、薄暗いせいか巧みに転がされるものがボタンなのかコインなのかだんだんわからなくなってきた。
生徒の指先が糸を引くように顔の前で小さく手招きするので、ペルシェは操られるように腰を下ろす。それを待っていたようにアシュレイは悪戯っぽく笑ってコインをくるりと回した。
「いいかい『お嬢さん』、よく見てるんだよ」
左手のひらに乗せたコインの上を右手が一瞬隠すようにスライドすると、手の中は空っぽになった。
これが『手品』?
「…………」
「あれ」
看守の反応に手応えがなかった生徒は予定外だったようにたじろいだ。苦笑いしながらうーんとうなって、手首にスナップを効かせるとどこからかまたボタンが指先に現れた。
「これじゃつまらないかな。まあさっきから見てたなら同じようなものじゃ飽きちゃったか。……でもどうだろう、これなら……あっ」
懲りずに次の準備をし始めたアシュレイの手からコインが転がり落ちて、金属の円は畳をころころと抜け出して木の床で力尽きる。虚しい静寂を取り繕おうとするような生徒の苦笑いが妙に響く。
「……うぅん、そんな顔しないでくれ。よかったら拾ってくれないか?」
「…………はあ」
自分がどんな顔をしていたのかはわからないが、思ったより食事が不味かったみたいな気分になりながら、せめて拾ってやろうとボタンに手を伸ばす。
と、床に伸ばした手の甲を上から包むように柔らかく掴まれた。
そのまま手をボタンの上に重ねられ、床とボタンと、彼の右手に挟まれる形になる。
ペルシェは身を固くする——油断した。大人しいとはいえ相手は違反生。格子から侵入したその手に何をされるかわからない。常に警戒していたはずなのに。
「しぃ。……力を抜いて、そのまま」
格子の向こうから聞こえてくる温い声がすぐ近くに聞こえて、少女は硬直した。
「リラックスして。みっつ数えたら、君はコインを見失う。いいかい、いち、にい、さん」
パチン。
みっつめを数えると同時にアシュレイは重ねたふたりの手の上で指を鳴らす。ふと手の甲が寒くなって、生徒の手から自由になったことに気付いた。
「いいよ、開けてみて」
ペルシェはどういうことか分からないまま、言葉に従って床から手を離してみる。
ペルシェの覆っていた床にはまるで水蒸気になったかのように何もなくなっていた。ボタンはおろかコインすら見当たらない。
「は……、え?」
「成功だね」
自分の周囲を見回してもきらりと光る金属のかけらはどこにもなく、小さく呟いた生徒の方を見れば満足げにこちらを眺めている。
「コインはどうしたの、どこに行ったの」
「さて、どこに行ったかな。」
どこだと思う?
試すような表情で、あるいは楽しんでいるだけの口元でそう問いかけてくる。
「…………あんたの手の中?」
「残念」武器を突きつけられた時にするようにアシュレイは両手を上げてみせたが、手のひらは空っぽだった。
「もう」
どこにあるかなんて分かるわけない。違反生の挙動にはいつも目を光らせているし、彼の両手は床にあったはずのコインに触れてなんていなかった。
ペルシェがらしくもなく苛立つのを見かねてアシュレイは両手を下げる。
「……君のポケットに何かが届いたんじゃないかな」
「?」
と、ペルシェの外套のポケットの中になにかがコンと落ちたような重みを感じて。手をつっこんで出してみると、円いそれは白く光を反射した。
「…………!」
ペルシェの手の中に現れたのは、彼女が持っているはずもないもの。
五枚の花弁の花の模様が刻まれた小さな金属板、銀製の学校通貨。
本物のコインだった。
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