覚えとけ

そうざ

Don't You Forget it

「先生!」

 また五月蝿うるさいのが来た――それが私の正直な感想だった。髪を七三分けにした黒縁眼鏡の生徒に、職員室中の目が集まっている。

「今日、返却された答案について、納得出来ない事があります」

 やっぱり、と思った。

「どの設問だ?」

「問3です」

 日本史の授業は今、奈良時代中期、聖武天皇の治世まで進んでいる。僅か五年の間に平城京から恭仁京くにきょう難波京なにわのみや紫香楽宮しがらきのみや、そして再び平城京へと四回も遷都される一方で、全国に国分寺や国分尼寺が建立され、廬舎那るしゃな大仏造立のみことのりが発せられた時代である。

 生徒が『勝訴!』と言わんばかりに答案用紙を示したので、私は思わず仰け反った。

「ここです。合ってるじゃないですか!」

「正解とは言い難いな」

「どうしてですかっ?!」

「漢字で書けてないだろ」

 答案用紙には『こん田永年私財法』と記されている。『こん』の部分がやけに黒ずんでいるのは、何度も書いては消してを繰り返した跡だ。

「おまけで三角くらい下さいよ」

「そうは行かない。教科書にはちゃんと漢字で書いてある」

「ど忘れしただけです」

「入試でそんな言い訳が通用すると思うか?」

 答案の端には赤ペンで98点と記されている。問3――厳密に言えば『こん』の所為で満点を取れなかったのである。真面目を絵に描いたような優秀な生徒だけに、自分の凡ミスが余程悔しいと見える。

「人間、生きて行くにはちゃんと暗記しておくべき事柄があるんだよ」

 現代はIDやらパスワードやらお客様番号やら、憶えておくべき事柄が多種多様に存在する時代である。一方で、実際には電話番号すら頭に入れておかなくても良い時代でもある。

 何でもんでも機械任せ、ネットで調べれば片が付く、というのが当たり前の社会で育った世代にどんな未来が待っているのだろうか。

「『墾』なんて漢字、きっとこの先、一生、書かないと思います」

 捨て台詞のような言葉を残し、生徒はそそくさと職員室を出て行った。

 やれやれと机に向き直ると、一部始終に聞き耳を立てていた技術科教師がファイルの陰から声を掛けて来た。

「ちょっと厳し過ぎやしませんかぁ?」

「世の中、甘くないって事も示しませんとね。貴方も油断してると彼に付け込まれますよ」

「お〜怖っ。彼は何組の何て子ですか?」

 私は背凭れに身を預け、暫く宙を見詰めてから返事をした。

「生徒なんて大勢居ますから、一々いちいち暗記してませんよ」

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