覚えとけ

そうざ

Don't You Forget it

「先生!」

 またうるさいのが来た――それが私の正直な感想だった。髪を七三分けにした黒縁眼鏡の生徒に、職員室中の目が集まっている。

「今日、返却された答案について、納得出来ない事があります」

 やっぱり、と思った。

「どの設問だ?」

「問3です」

 日本史の授業は今、奈良時代、聖武天皇の治世まで進んでいる。僅か五年の間に平城京から恭仁京くにきょう難波京なにわのみや紫香楽宮しがらきのみや、そして再び平城京へと四回も遷都される一方で、全国に国分寺や国分尼寺が建立され、盧舎那るしゃな大仏造立のみことのりが発せられた時代である。

 生徒が『勝訴!』と言わんばかりに答案用紙を示したので、私は思わず仰け反った。答案の端には赤ペンで『94点』と記されている。

「ここです。どうして正解じゃないんですか?」

 示された箇所には、ナイフで切り付けたような赤いバツ印が記されている。我ながら切れ味の良い筆致だ。

「間違いに気付かんのか?」

「えぇ……?」

 採点の際、私は決して正しい答えを書き記す事はしない。正解は改めて生徒自らが導き出すべきなのだ。

 生徒は答案用紙をまじまじと見詰めている。仕方ない。助け舟を出そう。

「ワドウカイチンは何製だ? 何で出来ている?」

「銅だと思います」

「何故そう思う?」

「だって、和銅開珎わどうかいちんって書くし」

「そこが或る意味で引っ掛け問題なんだ」

 和銅元年(708年)、日本初の流通貨幣が鋳造された、というのが定説である。柔らかい銅を意味する和銅にぎあかがねを原料とし、初出年の元号は和銅わどうであるが、漢字表記は飽くまでも『和開珎』である。尚、珎の字はチンと読むべきとする説もある。また、更に時代を遡れば『富本銭ふほんせん』や『無文銀銭むもんぎんせん』と呼ばれる貨幣も存在するが、これは呪符として用いられる厭勝銭えんしょうせんと考えられている。

「ちゃんと覚えとけ」

 生徒は自分の解答『和開珎』をまじまじと見詰め、鼻根に二、三本の横皺を作ると、逆襲とばかりに口を開いた。

「他にもあります、問5です、間違ってませんよね?」

「正解とは言い難いな」

「どうしてですかっ!?」

「漢字で書けてないだろ」

 答案用紙には『こん田永年私財法』と不格好な文字で記されている。こん・・の部分がやけに黒ずんでいるのは、何度も書いては消してを繰り返した跡だ。

「おまけで三角くらい下さいよ」

「教科書にはちゃんと漢字で書いてある」

「ど忘れしただけです」

「入試でそんな言い訳が通用すると思うか?」

「墾なんて漢字、この先、一生使わないし」

 真面目を絵に描いたような優秀な生徒だけに、余程に失点が悔しいと見える。

「役に立つ、立たないじゃない。人生にはそういう事柄があると、しっかり覚えとけ」

 勿論、取捨選択も必要だ。愚にも付かない情報に振り回されるのは馬鹿げている。しかし、何でもんでも機械任せ、ネットで調べれば片が付く、費用対効果コスパ時間対効果タイパ――こんな時代に育つ世代にどんな未来が待っているのだろうか。

「もう一ヶ所ありますっ」

 最後の問10にも見事なバツが付いている。

「東大寺を建てたのは誰か答えよ……」

「何なんですか、この設問はっ」

「読んで字の如し。正解は聖武天皇」

「引っ掛け問題だと思って、大工って書いちゃったじゃないですかっ!」

「試験はなぞなぞじゃない、常識を問うもんだ。よく覚えとけ」

 因みに、当初は『東大寺は何回焼失した事があるか、その年号と原因となった事件をそれぞれ答えよ』にしようと思っていた。

 治承じしょう四年(1180年)、治承・寿永じゅえいの乱が勃発、寺院勢力と対立していた平氏一派は奈良の地を広範囲に焼き払った。この『南都焼討なんとやきうち』と呼ばれる戦火に依り、東大寺はその主要な伽藍を失い、盧遮那仏像も大きく焼損した。更に永禄十年(1567年)、戦国武将、松永久秀まつながひさひで三好三人衆みよしさんにんしゅう(三好長逸ながやす、三好宗渭そうい岩成友通いわなりともみち)の間に起きた兵火に於いても、同寺は再び多くの伽藍を、そして盧遮那仏像を失った。世に言う『東大寺大仏殿の戦い』である。

 生徒はもう何も言わず、やっと職員室を出て行った。

 やれやれと机に向き直ると、一部始終に聞き耳を立てていた技術科教師がにやにやしながら近付いて来た。

「ちょっと厳し過ぎやしませんかぁ?」

「大人の責務として、世の中は甘くない事を教えませんとね」

「彼は何組の何て子ですか?」

 私は背凭れに身を預け、一瞬、天井を見上げてから返事をした。

「担任以外の生徒なんか、一々いちいち覚えてませんよ」

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