流転

有限の猿

流転

 これは僕がサメだったときの話なんだけどね。


 僕がそう言うと、対面の彼は怪訝そうな顔をした。無理もないことだと思う。急に理外の話をされたら誰だって困惑する。ましてや僕たちは今日が初対面だ。いくら意気投合したからと言って、まだ人となりもわからない奴がそんな奇抜な語り出しをしたら距離を置きたくなるというものだろう。

 その無言の訴えに、僕は意地の悪い声で答える。酒の肴に何か面白い話をしろ、なんて言ったのは君だろ?

「それは、そうなんだけどさぁ」

 対面の彼は歯切れの悪い返事をする。自分の発言を後悔しているらしい。いや、もしかしたら僕と関わり合いになったことをかもしれない。

 バツの悪い顔でジョッキに口を付けた彼をよそに、かつての思い出を回顧する。彼の要望に適うかはわからないが、僕はすっかりお喋りな気分になってしまったから、話さずにはいられない。

 それなりに、面白いはずだ。


 今にして思うと、海の中は案外居心地が良かった。ほら、今日も暑かっただろう。僕が住んでいたところは沖の方のちょっと深いところだったから、こんなに照り付けられることはなかったんだ。

 辺り一面寒色の寂しいところだったんだけれど、それでもヒレで感じる冷たい海水の流れは気持ちが良かった。生き物も少ないから静かなもので、自分が水を掻き分ける音を聞きながら、遠くで光る海面を眺めたり、自分の筋肉の収縮を意識したりするのが好きだった。

 もちろん、食べなきゃ生きていけないから、そんなのんびりばかりしてはいられなかったけれどね。

 普段はそんな感じで暮らしていたんだけれど、その日は初めて浅瀬の方に出向いていたんだ。それなりに遠い道程だったけれど、サメだから襲われることもそうそうないし、元々泳ぎ続けなければ息が出来ないから、その点は大した問題にならなかった。


「サメも泳ぎ続けないと死ぬんだ。マグロみたいだな」

 対面の彼は何とも無教養な感嘆で話の腰を折った。そういう種類とそうでない種類がいて、僕は前者だったというだけのことだ、と答えると、彼はやっぱり興味なさそうにメニューを手に取って何品か注文をした。


 それで、さっきも言ったように殺風景な冷たい海だったから、暖かな浅瀬というのは何もかもが新鮮だった。故郷をインクの飛沫が飛んだ白紙と例えるならば、曼荼羅を引き合いに出したくなるような、輝きがぎゅっと詰まった場所だった。

 まず身体を取り巻く海水が温水プールみたいに暖かくて、鼻先やヒレで水を掻き分けるときの感覚も柔らかい。日の光が海底までしっかり届くから、それを存分に享受した海藻は緑に色付いて、羽衣のように無邪気に揺れていた。尾ビレを一度揺らす間に、数え切れないくらいの新たな発見があった。転がる石ころ一つにすら気を取られる有様だったから、危うく大事な約束をすっぽかすところだった。

 僕が浅瀬に来たのは、友達の潜水艦に会うためだったんだ。


「ちょっと待って」

 対面の彼が遮る。煩わしいとは思うが、僕の話に耳を傾けてくれている証左だから、ちょっと安心する。

「潜水艦って何さ」

 潜水艦は潜水艦、そのままの意味だ。百メートル近い黒い葉巻型の身体をした、鉄の塊だ。


 初対面のとき、奴は僕に潜水艦だとしか名乗らなかった。それがどうにもいけ好かなくて、対抗して僕は魚だと名乗ったら、サメだろうと言われた。じゃあサメだと名乗ったら、ネズミザメだろうと笑われた。

 これが奴との初めての交流だ。奴は、あたかも自分は何でも知っているふうに僕の正体を看破したんだ。まるで、僕以上に僕のことを知っているようだった。あんなに悔しいと思ったことはない。

 悔しかったから、僕は頭の中の引き出しから、奴の知らなさそうなことを探した。密かに日課にしていたサカズキウミユリの成長記録を話してやると、潜水艦は星空の神話とそれに由来する名前の花について話した。せせこましいことだと思う。

 最初は、お互いに誇示のために知識を披露していた。だけど、僕らは似たもの同士で、知的好奇心の奴隷だったから、結局お互いを喜ばせることになった。奴の話は退屈しなかったし、逆もまた同じのようだった。

 それから、潜水艦はたまに顔を見せては、取り留めの無い、それでいて有意義な会話をして帰って行くようになった。

 そしてある時、いつも潜水艦から出向いてばかりだから、今度は潜水艦の住処がある浅瀬に行こうという話になった。奴は僕を乗せて行くつもりだったようだが、泳ぎは僕を僕たらしめる能だったから、意地を張って自分で行くことにした。着いたら、一緒に陸の様子を眺めに行こうという約束だった。

 到着してみると、なるほど、潜水艦が住処にするのも納得の海だと思った。綺麗だし、活気が溢れている。僕は獰猛なサメだから歓迎はされてなかっただろうけれど、それでも──あの光景の話はいくらでも出来てしまうから脇に置いておこう。

 本題は潜水艦との約束だ。

 そんな浅瀬の中に、崖みたいに落ち窪んだところがあって、そこは急に暗くなるし、水温も冷たくなる。流石に僕がいた海ほど深くはないけれど、もの寂しいところだ。僕としてはそういう静かな場所も好ましく思うけれど、周りの賑やかさとの落差と言うのかな、繁華街から一本通りを外れた路地裏みたいな、そういう雰囲気があった。

 そこが潜水艦の住処だった。

 僕が近づくと、そこらの暗闇をいっとう凝縮したような黒い身体が、ぬうっと伸び上がりながら這い出てきた。海流を乱すこともなくゆったりと浅瀬に上がってきた潜水艦は、僕を見て大いに破顔した、ように見えた。多分僕の妄想だ。笑ったのは僕の方だろう。潜水艦は潜水艦なので、表情がない。


「喋るのにか」

 対面の彼がまた口を挟んだ。少しばかり答えに窮してしまう。根本的に、僕が事実と認識している事情が、どうしようもなく馬鹿馬鹿しいからだ。今のように喉から発声して話していたのかまでは断言できないが、広義で、僕は喋るサメだったし、奴は喋る潜水艦だった。

 それでも潜水艦は潜水艦だから、きっと顔と呼べるものは付いていなかっただろう。僕はそう答えた。

「だったら、表情のある潜水艦もいるかもしれないだろう。その、全くもって愉快なカートゥーンみたいにさ」

 対面の彼は、不服さをユーモアで覆い隠して、戯けたように言った。頭の反射的な部分では苛立ちを覚えたが、理性的な部分では冷や水を垂らされた気分であった。奴に顔はなかったよ、と言おうとして、思い止まる。もしかすると僕が気付かなかっただけで、奴にも顔があったのかもしれない。何しろ奴は大きいものだから、僕ですらはっきりと全容を見た事が無い。目鼻口がメートル間隔で散らばっていたら、それを正確に捉えることは到底出来そうにないが、じっくりと観察してやれば、奴ののっぺりとした身体に愛嬌の片鱗を見出してやれたかもしれない。

 後ろ髪を引かれる思いを、頭を振って思考の外に追いやる。

「それで、潜水艦とどうしたんだい」

 対面の彼は話の続きの催促をした。いつの間にか僕の話に興味を示したのか、或いは僕の心に陰りが生じたのを察して、彼なりに気を遣ったのかもしれない。


 僕を出迎えた潜水艦は、まず僕の旅路について訊いてきた。僕は背伸びをして、少し遠かったけれど全く苦ではなかったと言い、浅瀬の景色についての賛辞を思うままに述べた。奴は我が子を慈しむように、またはお上りさんを侮蔑するように──やっぱり奴は表情豊かだったのかもしれない──僕の話を聞いていた。立ち話もそこそこに、僕がじっとしていられない質なこともあって、早速陸の方を見に行くことになった。

十キロほど泳げばもう陸地に着くとのことで、僕は潜水艦の横にぴったり付いて行った。近くにいると黒い壁にしか見えない友達は、だんだん浅くなっていく海に身体が収まりきらなくなって、やがてセイル部分が海面から飛び出した。すると遠くに何かを見つけたようで、止まれ、と僕に囁いた。向こうのアレが見えるか、と問うので、僕も水面から顔を出して陸の方を見遣った。

 日の明るさに眩んだ目が慣れると、少し先に船が見えた。多分、漁船だと思う。陸の方から、騒がしく白波を立ててこちらに向かってくる。

 少し見てくる、と言って潜水艦はおもむろに漁船の方に泳ぎ始めた。僕は付いて行こうか少し考えてから、そこから遠巻きに様子を見ることにした。邪魔になったら悪い。

 ──嘘だ。怖かっただけさ。僕はただ、幼子のように右往左往して醜態を晒すのを避けるべく、平静を装ってその場に待機したんだ。


「怖いんだ、サメでも」

 対面の彼は無神経にも、僕のささやかな鼻っ面を折りに掛かった。サメとて無敵ではないのだ。


 それはもう、怖かった。浅瀬に来て初めて不安を抱いた。

 潜水艦が漁船に近付く頃には、奴の身体の上半分が海上に露出していた。表面に付いた水滴が乱反射して、イルミネーションを巻き付けたように輝いていた。潜水艦と漁船は、ちょっとでも接触すれば大事故になるだろうサイズ差がある。漁船はエンジンを止めて立ち往生している。それから暫く、潜水艦はむっつりと漁船の周りを何周かしてから、踵を返してこちらに向かってきた。

 どうだったと尋ねると、礼儀のなった連中だったとぼやいてから、僕に謝罪した。僕が意味を問うより先に奴は僕の横を通り過ぎて、住処に向けてゆっくり沈んでいった。今回の観光は取り止めだと察して、僕もその後に続いた。戻る途中、もう一度陸の方を見ると、漁船は変わらずこちらに進んでいるようだった。何人かの人影が、さっきよりもはっきり見えた。

 潜水艦の住処に戻ると、主人は闇に紛れるようにどこかに隠れてしまった。何があったのかはわからないけれど、そっとしておこうと思った。弱っているところは見せたくないだろうから。

 そんなこんなで手持ち無沙汰にはなってしまったものの、その窪みは改めて居心地が良かった。故郷の海のような冷たさが肌に馴染む。暖かな海も良いものだけど、このエラを通り抜ける涼やかさがなければ、身体が腐って溶け出してしまいそうだと思った。白いばかりの海底も、黒いばかりの岩壁も窮屈さは感じさせない。いっそ、ここに居着いてしまおうか、潜水艦に相談しなければ、と考えた。そうすれば、今日の約束はいくらでも補填が利く。

 僕はそこらの岩陰を覗いたり、海底を嗅ぎ回ったりして、友達を探したのだけれど、奴のデカい図体を見つけることが出来なかった。

 そうしていると突然、身体が上に浮き上がった。背ビレの痛みが遅れてやってくる。何か、鋭いものが刺さって貫通しているようで、それが潮の流れも僕の動きも考慮しないでたらめな力で、暴力的に上へ上へと引っ張っている。

 要は、スレ掛かりだ。何かの拍子に釣り針を引っ掛けたんだ。餌に食い付いて釣られる方が幾分かマシな間抜け具合だと思う。

  僕は何だかやるせなくなって、抵抗する事もなく、するすると引っ張られていった。海面から顔を出すと、身体に二本のギャフを刺し込まれて、甲板に引き揚げられた。さっきの漁船なのか、はたまた別の船なのかは解らない。幾つもの長靴が僕を取り囲んでいる。ただひたすらに寒くて、あれやこれやを観察したり考えたりする力が残っていなかった。

 そのときに、船の誰かが慌てて言ったんだ。おい、土左衛門だ、って。

 てっきり、かまぼこにでもされるかと思ったんだけどね。どうにも僕は不味いらしい。辛うじて口は開けたから、「死んでません、生きてます」って喉から絞り出した。周りは大層驚いて、真っ青になって船を陸に向けてくれたから、僕はこうして一命を取り留めたんだ。


「待て待て、待ってくれ」

 対面の彼は辛抱堪らんと言うふうに口を開く。彼は途中からすっかり僕の話に集中して、せっかく頼んだビールの泡が消えている。僕は先に断っておいた。これは夢の話じゃないんだ、と。

「それはわかっているんだよ」

 彼は視線を手元と正面で行ったり来たりさせている。

「一つだけ訊いておきたいんだ」

 たった一つで済むのかと、僕は少々面食らった。おおよそ信じ得ない奇天烈な話をしたつもりだったから、少し負けた気分になる。何なら背中や脇腹の傷跡を見せる心積もりもあった。

「これ、君がサメだったときの話って言ったな」

 言った。一番最初、語り出しの部分だ。

 対面の彼は言葉を選ぶようにまた目を泳がせてから、僕の目を見て言った。


「サメだったも何も、今をして君はサメだろう」


 少しだけ息苦しかったけれど、僕は笑って言い返す。

「僕は人間だよ。こうして君と話をしているじゃないか。こんなに人語が達者なサメはいないと思うよ?」

 対面の彼は虚を突かれたように目を丸くしたが、やがて諦めたように笑い初めた。そうしてジョッキの中身を一気に飲み下すと──多分、もう温くなっているだろうに──二人分の酒を追加で注文した。

「──面白かったよ。どうだい、サメ時代の君と友人の潜水艦の名前を考えてみるっていうのは。ネズミザメと潜水艦じゃあ味気ないだろう」

 ミステリオとアンダーテイカーはどうだ、と言うものだから、僕は大いに笑いながら棄却した。その名前のセンスも理解できなかったし、もっと馬鹿みたいな名前の方が良い。


 多分、朝まで飲み明かしても、潜水艦は潜水艦のままなのだろうけれど。

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