第4話
目を覚ますと同時に勢いよく上半身を起こしました。
心臓が痛いくらい鳴っています。
全身が嫌な汗でびしょ濡れです。
どうやらここは教会のなかのようです。医務室なのか、消毒液の臭いがします。
わたしはこの部屋の一角に置かれたベッドに寝かされていたようです。
頭をさすると、額にはぐるりと包帯が巻かれていました。
「お目覚めかのう」
バリトンボイスにはっとして顔をあげると、窓辺のデスクの前に黒い
デスクの片隅にはワインのボトルが置かれています。
白髭に囲まれた口元と深い皺の刻まれた目じり。どこか国王様に似ています。というよりも、この年代の男性はみんな同じように見えるだけかもしれません。
「申し訳ありません、まさか訪問初日に気を失うだなんて」
「ハッハッハ、謝ることはない。うちのヤンチャたちを助けてもらったのじゃから、むしろ謝罪するのはこちらのほうじゃよ聖女様」
そういって神父様は椅子に座ったまま深々と頭を下げました。
口調はややぶっきらぼうですが悪い人ではなさそうです。
「あの子供たちは、みんな孤児なのですか?」
「そうだとも。みな、なにかしらの事情があって身寄りを失った子供たちじゃよ」
そういって神父様はワインボトルを手に取ると、ボトルから直接飲みました。
「なるほどそうでしたか」
「同情したか? それとも、軽蔑しとるのかな?」
「いいえ、そのような気持ちはありません」
当然です。わたしは神の器になるために全ての感情を捨て去らねばならない身。
いまさら孤児に同情するなどということはありえないのです。無論、軽蔑もしません。あるがままの事実を知った。ただそれだけなのです。
「ハッハッハ、さすが聖女様じゃ。ずいぶんと仕上がっておられる」
神父様は楽し気に笑います。
なにが楽しいかはわかりません。愉快に感じることなど人それぞれですし、わたしには愉快に感じる心を持ち合わせていません。
「あの、ところで、お名前は?」
「これは失敬。儂はローウェル・アレクサンダー。気安くローウェルと呼んでくれてかまわんよ」
「わかりましたローウェル。ではわたしもシルベットとお呼びください。今後お世話になる立場ですので」
「承知した、シルベット。ではさっそくここでの修行について説明しようかの」
「はい」
ついに修行の内容が明らかになる時がきました。
こんな平和な場所でいったいどのような修行が待ち受けているのか、わたしには想像もつきません。
確実に言えることは、これまでの修行と同じかそれ以上に過酷であるということだけなのです。
わたしが生唾を飲み込むと、ローウェルは重々しく口を開きました。
「お主にはここで……」
「わたしは、ここで……?」
「朝早く起きて家畜の世話をし、朝食の手伝いと畑の管理を行い、昼食を食べ、午後は子供たちと遊び、夕食をみんなで食べ、入浴してすっきりしてもらい、聖堂でのお祈りを済ませて眠りについてもらう」
「…………はぁ?」
わたしはわたしらしくもない素っ頓狂な声を出してしまいました。
それもいたしかたないことでしょう。なぜならいましがたローウェル神父がいったことを要約すると「普通に暮らせ」といっているのと同じことだったのですから。
「あの、それのどこか修行なのでしょうか?」
「平凡な日常の中に芽生える欲。それを自覚し抑えるための修行じゃ」
「平凡な、日常の、欲」
自分に言い聞かせるようにつ言葉を繰り返しましたが、よくわかりません。
「そうだとも。欲とはなにも過酷な状況下でのみ発生するものではない。むしろそれは特殊な感情でしかないのじゃ。辛い環境に置かれれば誰しも逃げ出したいと思う。そんなことは当たり前じゃろう。むしろ、平凡で幸せな日常の中に生まれる欲のほうが人を蝕むものなんじゃ。お主にはその欲に打ち勝ってもらう」
「はぁ……」
いまだに理解ができません。
平凡な生活の中に欲など生まれるのでしょうか。
たしかに城のように贅沢な暮らしは望めないかもしれませんが、これまでのわたしの経験からすれば衣食住が揃っているならば質へのこだわりなど不要に思えます。
「とりわけ注意してもらうのは愛情じゃ」
「愛情、ですか?」
ローウェルは渋い顔をして頷きました。
「そう。お主は誰かのものになりたいとか、もしくは誰かを自分のものにしたいなどとはけっして思ってはいかん。なぜならお主はすでに神の所有物なのじゃからな」
「十二分に存じ上げております」
「頭で理解していてもこれがまたなかなか難しいものんじゃよ。とはいっても、ここにはジジイと子供しかおらんからお主が恋慕するような相手などいるはずもないがね。ハッハッハ」
「そうですね」
もとよりわたしには結婚願望もなければ恋愛感情もありません。なのでそこは心配することはないでしょう。
それよりも平凡に暮らしていればいいだけの修行だなんて、本当に意味があるのでしょうか。
期限はいつまでなのか、それになにをもって修行完了とするのか。様々な質問をローウェルに投げかけようとしたその時、医務室の扉が開きました。
「おや、アーサーじゃないか。どうした?」
「シルベットさんの様子を見に来たんです」
医務室に入ってきたアーサーをみた瞬間、わたしの心臓が奇妙なリズムを刻み始めたため聞くはずだった質問を飲み込んでしまいました。
「こんにちは、アーサー」
「こんにちは、シルベットさん。その、お体は大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
やや動悸がするくらいで打ち付けた頭も痛くありません。
なにも問題はないはずです。
「そうですか。それはよかった」
心から嬉しそうに笑うアーサー。
きゅん、と胸が萎むような感覚に襲われました。
「はうっ、くぅ……」
「シルベットさん!? 本当に大丈夫ですか!?」
「え、ええ。お気になさらずに」
「まだ休んだ方がいいです。でもその、もしよろしければ、これを」
アーサーはとてとてとわたしに近づいてきて、一通の手紙を差し出してきました。
封蝋がされたとても丁寧に折られた封筒です。
「これは?」
「僕はずっと聖女様とお会いすることが夢でした。その気持ちを綴った手紙というか……と、とにかく! 来てくれてありがとうございます! それじゃ!」
アーサーは勢いよく頭を下げ、そして勢いよく上げて、逃げるように医務室から出ていきました。
「やれやれ、あの子も純粋な子だ。まさか聖女様に手紙をだすとは。もし面倒なら捨ててしまってもかまわんぞ?」
ローウェルの言葉に、わたしは首を左右に振りました。
「いいえ、もしかしたらなにか重要なことが書かれているかもしれません。一字一句読み逃すことのないように中身を改めさせていただきます」
「ふむ、噂どおりの勤勉さじゃな。それでは儂は畑の様子を見に行ってくるでの。夕食は午後六時。入浴は午後七時からじゃから遅れないように。明日からは教会の仕事を手伝ってもらうから、今日はしっかり体を休めるといいじゃろう。ではな」
ローウェルもまた部屋から出ていき、医務室にはわたしだけが取り残されました。
わたしは扉が閉まると同時にアーサーの手紙の封蝋を丁寧に剥がし、中かから水色の便箋を取り出しました。
便箋の右下には押し花がそえられていました。四つ葉のクローバーです。
なんらかの強大な力によって普段は作り笑顔すら困難なわたしの頬がつり上がってしまいそうになり、両手でぴしゃりと自分の頬を叩きました。
「くっ、やはりあの少年に関わると体に異変がおきてしまいます。これはいったいなんなのでしょう」
読むべきではないのかもしれません。ですが読まなければこの体調不良の原因も掴めない気がします。
苦手を克服するにはまず苦手の本質を理解することから始まります。
どれほど心をかき乱すことでも理解さえしてしまいばいかようにも対応できるものなのです。
そのためにも、わたしはこの手紙を読まねばならないのです。
わたしは便箋を広げ、頭から目を通しました。
『親愛なる聖女様へ。
僕は生まれたときから親がいませんでした。理由はわかりません。単に捨てられたのか、それともやむにやまれぬ事情があったのか、僕が知り得るもっとも古い過去への手がかりは僕が町の橋の下にいたときに入れられていた木編みの籠と百ルーベルだけ。
僕はこの教会で育ちました。最初はとっても卑屈で嫌な奴でした。物心ついたときからいっしょにいたルドやプルートも僕を避けるほどでした。
そんな僕がこうして誰かに手紙を書いたり花を贈れるようになったのは聖女様のおかげです。
突然こんなことをいわれてもなんのことかわからないと思います。でもこれは、本当のことなんです。
僕は新聞を読むことが好きでした。他にすることがなかったといってもいいかもしれません。
その新聞の中で、聖女様がどれほど自分を追い込みこの国のためにその身を捧げようとしているのかを毎日読んでいました。
いつしか僕も、自分の辛い過去にばかり囚われるのではなく、いまある自分を誰かのために使いたいと思いました。
不思議なことにそんな自分になれるようにがんばっていると、まるで聖女様が傍でみまもってくれているような気がしたのです。
聖女様は僕の憧れです。
僕の理想でもあります。
あなたと出会える日がくることを夢にまでみていました。
あなたのおかげで僕はみんなと仲良くなることができました。
現実のあなたは、想像していたよりもずっと美人でかっこいい人でした。
あなたと出会えた今日に感謝を。
これからもっともっとあなたのことを知りたいアーサー・パラディンより。』
体の熱量が最高潮に達するのを感じました。
ああ、もう無理です。この衝動を抑えきれません。
「ずっっっきゅううううううううううん!!!!!」
どたどたどた、と廊下から慌ただしい足音が近づいてきました。
ばん、と扉が開きました。
「どうしたんじゃシルベット!」
入ってきたのは麦わら帽子と農作業服に着替えたローウェルでした。
「なにごとですか?」
わたしは白を切ることにしました。
罪悪感などという感情はわたしにはありません。機械的に淡々と聖女の誇りを守ること。それがわたしの使命です。
「いましがたずきゅんとかなんとか聞こえたが!?」
「鳥でも撃ち落とされたのでしょう」
わたしは窓に視線を送り遠い目をします。さも弱肉強食の無慈悲な世界を憂うように。
「……ものすごい鼻血がでとるが?」
ローウェルのいうとおり、わたしの鼻からはぼたぼたと滝のように血が吹き出して白いシーツを汚しています。
便箋と封筒はしっかりシーツに下で保護しています。
「体調不良です」
わたしが真顔でそういうと、ローウェルは扉の下でぽかんと立ち尽くしたのでした。
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