1 出会いの季節♡
ジャケットに腕を通しながら、食パンを生のまま口に突っ込む。
床には脱いだままのパジャマ、髭剃り、ワックスなどが、ヘンゼルとグレーテルよろしく二兎が辿った動線上に落ちている。
二兎は枕元の目覚まし時計をキッと睨んだ。
――あの目覚まし時計のせいだ。
もう何年使っているかわからないが、よりにもよって今日壊れやがった。
昨日までは何の異常もなかったはずなのに。それなのに突然――。
開いたままのカーテンからは、新しい季節にふさわしい柔らかな朝日が降り注いでいる。しかし今の二兎には、そんな繊細な季節の移ろいを美しいと感じる余裕など1ミリもなかった。
「くそ、あちぃ……」
二兎はぼやきながら、手にした食パンで脂汗を拭った。
なんかハンカチがパサパサしているな――などと一瞬考えるも、置かれた状況を思い出してすぐにそんな思考は消え失せる。そのままひったくるようにバッグを持ち、勢いよく部屋を出た。
「閉、め、た……っと」
どんなに急いでいても鍵の指差し確認だけは怠らない。二兎はさあいざ走らんと構え、廊下を塞ぐ巨大な荷物に阻まれて勢いを削がれた。
大きくあしらわれた、某引っ越し業者のマーク。かなり大きな荷物だ……クローゼットか何かだろうか。
隣は、というかこのアパートの他の部屋は、二兎が住んでからほぼずっと空き部屋だったのだが、ついに誰か越してきたのだろうか。
――いや、それにしてもタイミングが悪い!
「あの、通してもらっても……」
「あ、すみません!」
声をかけると、狭い隙間から眩しいくらい爽やかな青年が顔を出した。彼が少し荷物をずらすと、人一人が横になってギリギリ通れるほどの隙間が空いた。
「うう……」
えっちらおっちらとカニ歩きをしながら、じわじわと確実に時間が経つのを感じる。
いい歳になってやるカニ歩きは思ったより恥ずかしい。どでかく描かれたクマのキャラクターも、二兎の情けない姿を嘲笑っているようにしか思えなかった。
やっと狭い通路を通り抜けたとき、荷物を挟んだ向こう側から、さっきの爽やか青年がレモンのようにフレッシュな笑顔で話しかけてきた。
「あ、あの! 隣の人どこにいるかわかりますか? 結構時間過ぎてるのに、まだ来てないみたいで……」
「すみません知りません! 急ぐのでこれで!」
レモンを冷徹に振り切り、二兎は華麗なクラウチングスタートをきった。
許してくれ、命がかかっているんだ。
「はあ~……」
ため息をつきながら全力疾走する。
今日は新年度初日。
朝一で始業式がある。
始めは会社なのに始業式があるのかと思ったが、節目を大事にしよう、という社長の方針で毎年行われているらしい。
ここで何が問題なのかというと、元々厳しい社長が、この日は特に厳しいことである。
もちろん、遅刻欠席なんてもってのほか。これを犯した人間たちの末路といったら……二兎は身震いした。
そうこうしている間に駅前の公園が見えてきた。時計を確認する。
――目指す電車の発車時刻まで……あと2分か。あと2分、駅はもうすぐそこ……いける!
二兎はさらにスピードを上げてコンクリートを蹴った。
安堵からかふっと少し頬が緩み、そういえば片手に食パンを持ったままだったな、と思い出して口にくわえた。
いける、このままなら間に合う、あの桜が生い茂る公園の角を曲がれば、駅はもうすぐそこだ……!
――どんっ♡
刹那。
世界は急激に速度を落とした。
雲一つない青空を、まるでキャンバスに見立てるかのように、桜の花びらが刻一刻と姿を変えながら美しい模様を描いている。
その真ん中をひらりひらりと舞う一枚の食パンはもはや神々しく、二兎は大空を仰ぐようにして真後ろに倒れこみながら、
ただ一言、
「綺麗だ……」
と呟いた。
次の瞬間、ドッ、という鈍い音とともに世界のスピードが元に戻る。
「痛ってえ……」
と背中をさすりながら上体を起こした二兎は、またもや衝撃を受けた。
正面に同じように倒れこむ一人の少女。
一瞬痛みを忘れるほどの美少女だった。
ホワイトグレーにブルーのインナーカラーという、派手なヘアスタイルにも負けない整った顔立ち。黒いマスクで口元を覆っているが、その内側の美しさは想像に難くない。大きな猫目を歪ませて、痛そうに後頭部をさすっている。
――か、かわいい……!
その美しい顔立ちを凝視しながら、しかし、と二兎は思った。
――しかし、なんだかどこかで見たことがあるような気がするのはなぜだろう。いや、こんな派手な子がいたら、どれだけ物覚えの悪いやつでも覚えているはずだが――。
二兎が少女に釘付けになっていると、彼女はさらに眉間にしわを寄せ、何かを確認するようにマスクに手をかけた。
――うおおおおおお! キタアアアアアア!
イメージ通りの透き通るような肌、美しい鼻!
……から伝う赤い一筋に、二兎は冷静さを取り戻した。
二兎は咄嗟に胸ポケットのハンカチの存在を思い出し、彼女に差し出した。
「あの、これ、使ってください!」
少女は顔を上げる。すると一瞬、大きな瞳をさらに大きく見開き、何か言いたげにぱくぱくと口を動かした。
「あの、何か――」
ヴーッ、ヴーッ。
予定の電車の発車時刻を知らせる、スマートフォンのアラーム。
「アアーッ!!」
少女の表情を不思議に思って問いかけようとた二兎は、ポケットからのその振動に一瞬で血の気を失い、叫び声を上げた。
その声に驚いた様子で、ビクッと身体を揺らす少女。
「すみません、行かなきゃなんでこれで!」
驚いて固まっている少女に無理矢理ハンカチを渡し、煙が出るほどの勢いで本日二度目のクラウチングスタートをきった。
「き、気のせいか……」
そう少女がぼそりと呟いた声は、革靴とコンクリートが激しく擦れる音にかき消され、二兎の耳には届かなかった。
――遅刻だ。
――120%遅刻だ。
二兎は覚悟を決めた。
――これからの勝負は遅刻するかしないかではない。可能な限り急ぐ姿勢、誠意ある謝罪……どれだけ傷を浅く済ませられるか、だ。
そうして二兎は駅までの道を全力で駆け抜けながら、さっき拾っておいた食パンをまたくわえなおして、ふと思った。
――そういえば、桜、満開だったな。
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