淡い光と回り灯籠

雨海ゆう

淡い光と回り灯籠

 僕は歩いている。

 遠くからひぐらしの鳴き声がぼんやりと聞こえている。

 前には手を繋いでいる父親と子供がいる。浴衣同士で喋っている若い女の人たちがいる。五人で固まった大学生らしき集団がいる。手を繋いでいる恋人同士がいる。

 時刻は十七時をもう越えたところだろうか。左斜め上から斜陽がこちらを包み込むように焼いている。目の前全てが一色と混ざり橙色の液体にいるかのような感覚になる。どうして景色が変わってしまってこんなに綺麗なのに誰も話題にしていないのだろう。

 

 僕は歩いている。

 段々と人混みが大きくなる。

 段々とざわめきが大きくなる。

 段々と鼓動が大きくなる。

 

 段々と夏祭りの会場に近づいている。

 

 会場の公園に向かう途中で小さな公園を通る。中は自転車でいっぱいで今日はそこで駐輪するように、となっているようだった。公園から自転車を停めて会場に向かう学生や子供たちが出てくる。

 僕は公園に立ち寄らず会場にそのまま向かう。

 

 少しだけ歩き、会場に到着する。

 バルーンの門をくぐると辺りは人だらけになっている。入口近くはとても混雑していて互いが互いの進行方向を譲り合えないとなかなか通れない。そこを抜けると屋台が並ぶ広場に出る。開場したばかりなのでまだ人数が落ち着いているところにようやく来れる。会場の中央の端にステージがある。司会者が何やら次のプログラムについてマイクで話している。屋台の上には提灯が伸びている。屋台は広場を囲むように並んでいる。

 どこの夏祭りも同じような感じだ。


 僕はこの町の人間ではない。ここにはたまたま居合わせているだけだ。

 会社での仕事が急に億劫になることがよくある。だが僕がほぼ休むことはない。休んだところですることがないので仕事をして金を貰った方が良いと思っているからだ。

 しかし今回はなぜかそれに耐えきれず有給を使い連続して四日休暇を取っている。ほとんど有給など消化したことがなかった僕がこんなことをしているから今頃会社では何かしら噂でも立っているのかもしれない。まあ気にもしていないが。

 僕はこの休日でこの倦怠感を取り除かないといけない。そうしないととてもこの先、今の仕事をやっていける自信がない、と休暇三日目にして何も成果が得られていないままなのだけれど。

 

 休暇一日目を迎えたとき何も休みの計画を立てていないことに気づいた。計画性がないのは昔からだった。昔から目の前のことしか考えていない。だけど人なんてそう簡単に変れるもんじゃない。自分が信頼できる人に指摘されないと直すことができないままだ。僕にはそんな人はいない。

 僕は趣味にお金を使うことなんて本をたまに買うこと以外ないのでとりあえずで貯金していた金があった。昼間まで考えてそれを使って色んな場所を歩いてみることにした。すぐに最低限の荷物を揃えて外に出て、電車を後先考えずに乗って、歩いて、泊まって、歩いて。

 そしたら何かを見つけることができて僕が何をすればいいのかがわかるかもしれない。そう思った。

 知らない場所を歩くのは心地よくそれでいてそこに住んでいる人がどこか羨ましく思った。

 夏祭りのことを知ったのは今朝、この町にあった図書館に立ち寄ったときだった。自動ドアの前に小さくも大きくもない掲示板があった。それは地域の団体やボランティア募集のポスターが並ぶ中にひっそりとあった。

 

 第二十三回夏祭り八月十七日。

  

 僕はそれを見て今夜の行先を決めた。

 

 だけど、何も起こらない。

 

 徐々に日が沈んできて夕焼けが打ち消された直後の藍色の夜に移り変わっていく。会場は上から提灯の淡い赤い光で照れされていてここだけ別の世界のようだった。

 喉が渇いたので屋台に並び飲み物を買うことにする。長い列を待ち数分経って僕の番になる。氷の浮かぶ水槽の中に冷やされている缶サイダーを指差す。

 二十代後半になって周りがジュースなんて物を飲まなくなっていてもまだ好きだった。夏に飲むサイダーは特別だった。

 サイダーを一気に飲み干して屋台と屋台に挟まれている通りを歩く。

 通り過ぎる人たちを見てみる。みんな同じような涼しい格好をしている。それに浴衣や甚平などとこの機会にしか着れないものを着て楽しんでいる人もいる。

 夏というのは人の自由を体現しているように思う。

 

 僕のように一人でぶらついているような人は見当たらない。皆が一様に喋っている。あっちに行こうだとか。これを買おうだとか。おいしいだとか。名前が飛び交っている。笑顔が飛び交っている。

 

 僕は一体何をしているんだろう。

 今更になって自分がしていることの無意味さを知る。どこかに行けばきっと何かに出会って新しい自分にも出会えるのだと思っていた。きっと何かが起こってくれる、そう受動的にしか動いていなかった。

 この三日間は何もなかった。ただ知らない町を歩いて自分だったらここでどんな生活をするかを想像していた。海の見える田舎の町では子供の頃から魚釣りに夢中だっただろうなとか、田舎と都会の中間のような駅に近づげばビルが立ち並らぶ町を歩いたときは放課後に友達と一緒で、ファミレスに行って駄弁りながら勉強だとかカラオケに行って肩を組んで叫んでいたんだろうなだとかそんなことだけを思っていた。歩きながらそんな人たちを見ていた。頭の中の知らない町に溶け込んでいる僕は今よりずっとマシな大人になっていると思った。

 今回の旅は人によっては何かしら発見ができたはずだ。僕には見つけることはできなかった。

 全部その人次第なんだと思った。何かが起こる訳じゃなくて起こさないといけない。何かに感銘を受けて感化されないといけない。何かに影響される心を持っていないといけない。何かを考えて成長することができないと変われない。

 一人で変われる強さがなきゃいけない。

 

 僕には何もない。

 何もないんだ。

 

 今、目の前にいる人たちはそういう何かを持ってる。だから隣に誰かがいる。

 それは隣に誰かがいるから、何かを持てるとも言えるかもしれない。

 悲しいことがあったとしても、だから乗り越えていける。

 

 僕は。

 僕の頭だけじゃもう何もわからない。

 

 屋台のライトは通行人をも照らしている。

 提灯の淡く綺麗な光はとても遠くにあるように思えた。

 人が前から来ると下を向いて歩きながらゴミ箱を探す。

 公園の端っこに近づいていくと屋台も一列だけになり、完売でもしたのか店番が立っていない。そもそも人がいない。

 屋台の照明も消えていて適度に設置された街路灯も離れていて暗い。だけど提灯だけが光っていた。 

 ここだけ夏祭りが終わって残骸が放置されているかのようだった。

 どうやらぶらついている間に思ったよりも時間が経っていたようだ。

 静かな出口の近くにゴミ箱を見つけて空き缶を入れに行く。燃えるゴミの方にはプラスチックや発泡スチロールのパックなどのゴミが雑にパンパンに詰まっていて溢れそうだった。

 このままもう家に帰ろうかと思った。

 

 来た道を振り返ってみると公園に池が見えた。大きな池だった。

 そして池に屋台が、ステージが、人が反射していた。会場が地面の下にもう一つあるようだった。

 屋台の明かりがこんなに眩しかっただなんて気付かなかった。水面にすべてを丸ごと投影させて反対の世界を創ってしまうくらいに。

 朧げで輪郭がはっきりとしない池に映っている会場もさっきまで僕がいた会場も、僕がいない方が楽しそうだと思った。

 早く帰ろう、そう思って踵を返そうとしたとき何かが引っかかった。いや、なぜ今まで見落としていたんだろう。それはたった今そこに現れたようにも思えた。でもそんなことどうでもいいぐらいそれが綺麗だと思った。

 

 池の奥の方で灯籠が一つ浮いていた。


 仄かに火の光がある灯籠がゆらゆら揺れている。

 気がついたら僕は池の近くのベンチに座ってずっと灯籠を眺めていた。他のことなんて何も考えずにただじっと眺めていた。

 

 ようやく我に返に返り、何分経ったか全くわからないまま誰がいつなんのためにこんなことをしたんだろうと思った。灯籠を池に流すなんて聞いたことがない。しかもあれは影絵があり、そしてそれが回転している。回り灯籠だ。

 

 灯籠は薄い夕暮れのような色の灯りで切り絵の影を作っている。その絵は小学生ぐらいの短い髪の男の子と長い髪の女の子二人が追いかけっ子をしているものから、成長した後の背丈になってこちらに背を向けて手を繋いでいるものになり、最後には二人ともベンチに座っていて女の子が男の子に寄りかかっている後ろ姿が描かれたものになった。


 僕はそれをずっと眺めていた。その絵は懐かしい感じがした。


 ふと、なぜ僕は夏祭りに来る前に気持ちが昂ったのだろうと思った。

 夏祭りに特に思い入れはない。小学生や中学生の頃に友達と行っていたぐらいでそこからは行くことなんてなかった。

 高校や大学は青春とは無縁の周りの主人公の背景でしかなかった。何かがあった訳でもない。ただ僕は元からそういう人だったということだ。

 そう考えると久しぶりではあった。夏を代表する夏祭り。今まで子供の頃の楽しかったものだとなんとも気にしていなかったのに。

 どうしてこの町であのポスターを見たとき、心動かさせられてしまったんだろう。

 どうして。

 僕はずっと誰かを待っているような。


「あの…」

 声が聞こえた。その声を僕はとても落ち着く声だと思った。

「灯籠、綺麗ですよね」

 僕は声のする方へ顔を向ける。

 牡丹の柄の浴衣を着た彼女は肩まである黒い髪を耳にかけて、僕の方へと近づいてくる。

「えっと…綺麗ですよね」

 そう返事を返す。まさか今日、人に声をかけられるとは思っていなかった。

 鼓動が早くなる。久しぶりに誰かに話しかけられて緊張しているのか。いや、そうじゃない。僕は彼女をどこかで。

「なんで池に灯籠があるんだろ」

 灯籠を見ながら彼女は言う。発する声はどこまでも透き通っていて夏の水のように清冽せいれつだった。

「僕も気になってました。なんか懐かしいなって」

 彼女は僕の隣に腰掛ける。さすがに距離が近すぎると思ったのか少し間を空ける。

 彼女は照れ臭そうにして言った。

「実は私もそう思って。でもそれだけじゃなくてその…」

 

 彼女は僕の顔を見る。

 目と目が合う。

 その流された前髪の下にある綺麗で大きな瞳を見つめてしまう。

 彼女の目の奥で提灯の淡い光が揺れていた。

 

「私、あなたを知っているような気がするんです」

「…僕もそう、思っていました」


 それからはどうだろう。彼女との会話は初めて会ったとは思えないぐらい落ち着いていて本当に楽しかった。

 僕と一緒で彼女もたまたま旅行でここに来ていたとか。彼女の方が年上だったとか。夏祭りは二人とも久しぶりだとか。二人とも疎外感を感じて落ち込んでいたところだったとか。二人ともこの町に来たことがなかったのに懐かしさがあったとか。

 似ているところが多かった。本を読むのが趣味だったり、海が好きだったり、田舎が好きだったり、根が暗い人間だったり、友達が少なかったり。逆に似ていないところもある。僕は夏が好きだけど彼女は冬が好きだったり、僕は映画がそんなに好きじゃないけど彼女は好きだったり、僕はインドアだけど彼女はアウトドアだったり。

 僕は初めて会ったんじゃないみたいだと言った。彼女も私もそんな気がすると言ってくれた。

 それ以外にも色んな話をした。何回も笑い合った。その時間というのは他のどんな憶えていることよりも長い時間で、けれど柳の花火のように惜しい一瞬だった。

 それは僕たちだけのものだった。


 夏祭りも終わりに近づき池の奥に見える会場の人数は減ってきていた。

「そろそろ夏祭りも終わりだね」

 彼女は灯籠を見めながら言う。手は膝の上に置いて指をもじもじさせていた。

「そうだね」

 その言葉を口にして体全体が寂しさに覆われた。

 僕は自分の言いたいことを言葉にしようと思った。

 言葉にするのは難しいけどしなきゃ何も伝わらないから。

 彼女の方を見て言う。

「僕はもっと君と一緒に話がしたい。もっと一緒にいたい」

 彼女は僕の方を見て少しびっくりしたような顔を見せて、

「私も。嬉しい」

 そう言って笑ってくれた。

 僕はこのために生まれてきたんだと思った。

 他のものなんてなんにもいらなかったんだと思った。


 僕たちはそのまま夏祭りが終わるまで会場には行かず二人でベンチに座って話していた。

 灯籠は水面で回り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 


 

 


 



 



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淡い光と回り灯籠 雨海ゆう @yohikasidaaaa

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