第88話

 新米を桜音おとちゃんのお母さんに届ける。二人で会いに来たのは初めてだった。家には旦那さんもいて、僕たちを見るといらっしゃいと言って、コーヒーを挽き出す。良い香りが家の中に広がる。


「このお米を桜音が?まさかこんなことできるなんて思わなかったわ。そして就職の内定おめでとう。なんだかすごく離れてるうちに成長した気がするわね」


 意外にも少し寂しそうな顔をした桜音ちゃんのお母さんだった。


「一人じゃ無理だったわ。千陽ちはるさんのおかげ……なの」


 少し照れながら僕を見る。その仕草がもう可愛い。クスクスと笑いながらコーヒーを淹れて持ってきてくれる旦那さん。


「君はよく我慢できるね。絶対若い男だし、無理だろって話を聞きながら思っていたのに、すごいね。不安にならなかったのかい?」


「我慢……?なんの我慢をしてたんですか?」

 

 桜音ちゃんが首を傾げる。なんでもないよと笑ってコーヒーを貰う。


「桜音ちゃんには手を出さない。決めた進路に口を出さない。離れて行ってしまうかもしれない覚悟をして、君のお母さんと約束していたんだ」


「ち、千陽さん!?」


 言うなよ!傍観してろよ!と思ったが、もう遅かった。桜音ちゃんが睨む。


「私、絶対に絶対に離れません」


「いや……まだ高校生だし、僕みたいにやりたいことが出てきたら、自由に挑戦してみてほしかったんだ。しなくて後悔をさせたくないしさ」


 桜音ちゃんのお母さんが、桜音。と静かに呼びかけた。


「あなた、千陽さんを責めないようにね。あなたには感謝してます。桜音が暗い顔をしていたけれど、私にはどうしていいかもわからなかった」


 お米、食べてみるわねと柔らかく笑ったお母さんの顔を僕は初めて見た。


「でも残りの学校生活もしっかりしなさいよ。ちゃんと休まないで、通うのよ。気を抜かないようにね。千陽さんもそのつもりでお願いします」


 ハッキリと強く言うお母さんだなぁと思う。ハイ、もちろんです。と僕は返事をし、約束を再確認された。


 帰りの車の中で、桜音ちゃんはさっきは睨んでいたのに、今はしょんぼりとしてる。お母さんに言われたことを気にしているんだなとわかる。


「桜音ちゃん、お母さんは少し苦手?」


「そう……ですね。ちゃんと気持ちを伝えたいのに、言葉が出てこなくなります。私、ちゃんと学校生活を最後までしっかりしようって思っているし、体調が悪くなって、学校に行けなかったことも、まだ誤解されたままですし……もちろん言えない私も悪いんです。暗かったと言われても、けっこう頑張って明るく振る舞うようにしていたけどダメだったんだなぁとか……また変に考えちゃって……私、まだまだダメですね」


 悪くないよ。ダメなんかじゃないと僕は運転しながら言った。桜音ちゃんが一生懸命、お母さんに向き合おうとしていることはわかる。理解するために、一歩踏み出そうとしてる。


 桜音ちゃんはなぜ自分の体調が悪かったか原因はもうわかってるだろう。それを話せば両親は後ろめたく感じるかもしれないし、明るく平気なふりをして、振る舞っていたのも両親が自分を気にせず幸せになってほしいって思っていたからだろう?それを伝えたいのか伝えたくないのか桜音ちゃんは迷って……伝えなかった。


 僕はあのお母さんが桜音ちゃんに一度もごめんねと言ったことを聞いたことがないし、桜音ちゃんの気持ちを聞くこともないことに気づいていた。


 でも世の中にはいろんな人がいて、思っていても口に出せない人もいるし、お母さんは桜音ちゃんならわかってくれると甘えてる部分もあるのかもしれない。


 きっとお母さんはずっと変わらない。大人になると見えにくくなるものってあるんだ。きっと僕も桜音ちゃんもそうなっていく気がする。子どもの時の方が見えやすいものってあるんだ。だけどそれを理解して忘れずにいることはできるだろう。


 とりあえず優しすぎる君に僕ができることは……。

 

「桜音ちゃんは頑張ってるよ。大丈夫。ちゃんと寂しくても苦しくても頑張っていたことを僕は知ってる。苦手だと思うことや自分の気持ち、我慢しなくていいよ。僕がずっと傍に居て、聞くし、見てる」


 僕の言葉に桜音ちゃんが返した声音は少し震えていた。

  

「私、千陽さんがいてくれて良かったです。私、今まで自分の存在が両親にとって煩わしくないように迷惑かけないようにって、逃げて隠れて消してしまおうとしていたけれど、今、向き合っていきたいって思える勇気を千陽さんがくれてます。……一緒にいてくれてありがとうございます」


「僕こそありがとうだよ。きっと桜音ちゃんに僕も会わなかったらわからないことや知らないことあったよ」

 

 それってなんですか?と聞いてきた桜音ちゃんに僕は秘密と笑った。きっとバレる日は近いし、言わなくてもわかるだろう。   


 あの……と遠慮がちに言葉を続ける桜音ちゃん。


「千陽さんは大人の恋愛してきた人ですし、私との恋愛は物足りないですよね……たくさん我慢させてることありますよね……ごめんなさい」


 それも……気にしていたのかと、僕は苦笑した。


「なんで謝るかなぁ……桜音ちゃんが大人になっていくのを僕が見守れることって、たぶん恋人同士で、なかなかできない経験だと思う。それに大人になるっているのは、ただ歳を重ねていけばなれるものでもないよ。僕だって、桜音ちゃんの前だから大人ぶってカッコつけたいって思ってるだけだよ。ぜんぜん中身は大人げないし、カッコ悪いと思う」


 多分、これから、余裕ないところも大人ぶっていたところも剥がれていって、バレていくんだよなぁと思ったから、正直に言っておくことにした。カッコつけてました……と。


 桜音ちゃんは真面目な顔をした。


「私、カッコ悪い千陽さんを見ても嫌いになれません。だから見せてください」


「えええ……幻滅しちゃうかもよ」


 絶対大丈夫です!と言い張る。これは言い切れるのか!と可笑しくなったけど、僕は笑わなかった。強がり、嘘の笑顔を作り、涙を我慢していた桜音ちゃんは少しずつ強い女性に変化してきていて、弱い部分の僕を見せてもいいんだなと思わせるようなそんな強さを彼女は持ち始めている。


 もし桜音ちゃんが時々、弱音を吐きたくなったり負けそうになったりした時は僕が補えばいい。僕も桜音ちゃんに補ってもらう時があるだろう。そうやって二人で歩いていけばいいんだと思う。ちょっと僕は楽天的かな?と思ったけど………。


 だって、今は君がこんなに近くにいる。なんでもやってのけることができる気がするんだ。

 

 手を伸ばせば届く距離。


 それが僕の幸せ。

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