ホット・メルト・アスリープ

 寒い。目が覚めるというかそもそも寝つけていなかったのだが、ばっちり目が開いてしまう。毛布を手繰り寄せながら壁際に縮こまる。やっぱり掛け布団を出しておくべきだった。今から出すには廊下の突き当りまで歩いて、電灯を点けても薄暗い納戸を探さなければならない。枕もとの時計を確認すると午前二時過ぎ。さすがに彼女を起こすのも気が引けるので行くなら、ひとりで、だ。成人女性が自宅で何を怖がっているのかという話だが、怖いものは怖い。ましてや作業BGMにゲーム実況を聞いていたら途中からホラーゲームに切り替わっていて要らぬ冷や汗をかいた日ならなおさらだ。思い出したら涙がにじんできた。

「うう……でも寒いし、寒いし……。」

 意を決してベッドから降り、少し迷ってから毛布を引き被って部屋を出た。ずるずると毛布を引きずりながら壁伝いに歩く。明かりを点けてもいいのだがもし彼女を起こしてしまったら申し訳ない。私の恐怖で彼女の安眠が叶うのなら安いものだ。安いもの……だ。バサバサッと何かが羽ばたく音がする。自分でもわかるくらい肩が跳ねて瞬間的にターンッっと手に触れたスイッチを押す。ぱちぱちと瞬くように明滅した後、周囲が明るくなる。部屋に何もいないことを確認してほっと息を吐く。再び電灯を消そうとしてスイッチに手を伸ばし、逡巡し、いったん点けてしまったのだから今更消すのもどうかと思ってそのままにする。怖いからではない。嘘、怖い。滅茶苦茶怖い。明るくなっても背後が気になるし突然の物音には当然驚愕するしフローリングの床は靴下を履いていてもじんわりと冷たい。

「もう布団とかいいかな……戻ろうかな……。」

 ずるずると振り返りながら今度こそスイッチを押そうと震える指を添える。スイッチの隙間から何かが這い出して来たらどうしようなどとどんどん悪い方向へ想像が膨らんでいく。明るいうちは鳴りを潜めているが暗くなった瞬間にスイッチを押した指に絡みついて取れなくなってしまうのではないか? いや、押した後コンマ二秒くらいで手を離せば行けるのでは? 行ける、行ける。

「行くぞぉ……っ!」

 ッッターンとスイッチに指を叩きつける。勢い余って消えた明かりが再び点いた。いまだビリビリ痺れる指と白く表情のないスイッチとを交互に眺めて泣きたくなる。毛布がずり落ちて夜の冷気に体が晒される。いよいよ遭難した雪山登山者の気分だ。居間の電灯を点けたことで一層暗く沈む廊下の奥、にある納戸と、ドアを開け放したままの自室と、居間の明かりでほのかに照らされている彼女の部屋の扉を見比べる。なぜ最後に彼女の部屋を見た。起こしたら申し訳ないだろう。そうだ、はやく部屋に戻って寝よう。寒くても、たぶん、いつか、眠れるだろう。

「真莉。」

「んびゃあ!」

「どうしたの、こんな遅くに。」

「あいや、寒くて、眠れなくて、布団出そうと思って、やめたの。」

「なんだそりゃ。寒いならこっち来ればいいのに。」

「えっ。」

「えっ。」

「いいの?」

「いいの、って、私もやったことあるじゃん。」

「そ、そっか。」

 そういうものか、そういうものなのか。か? 何にせよ彼女が起きてきてくれたのは素直にありがたい。

「まあでも、せっかく電気点けたんならアルコールででもあったまりましょうや。」

「えっ。」

「えっ。」

「梅酒炭酸割りイン冷蔵庫はあったまれないのでは……。」

「……それもそーね。ではカフェインレスコーヒーでも淹れてください。」

「ふふ、かしこまりました。」

 棚から豆とフィルター、マグカップを取り出し、カップにフィルターをセットする。お湯を沸かす傍らでフィルターに豆を入れ、そうだ、と両の手を打ち合わす。棚に豆を仕舞うついでに、茶色い瓶を取り出した。

「なにそれ?」

「お菓子用に買ったやつだけど、コーヒーリキュールです。」

「ほう。」

 憧れて買ったけど全然使っていなかったのは内緒だ。

「これとコーヒーを混ぜて生クリームをのせるティファナコーヒーって飲物があって、ってあ、お湯沸いてる。」

 慌てて火を止め、フィルター越しにゆっくりとカップへ注ぎ込む。コーヒーの何とも言えない香りがキッチンいっぱいに広がる。少し蒸らしてからもう一度注ぎ、フィルターごと出がらしを取り除く。そこにスプーンで少しずつリキュールを加え、最後にホイップクリームをのせたいところだが。

「生クリームは切らしているので牛乳で代用します。」

 とくとくとパックが振動するのを感じながら注ぎ、スプーンで軽くかき混ぜる。

「完成です。」

「おおー。見た目はただのカフェオレだね。」

「原材料ほとんどコーヒーだしね。」

 居間の座卓にカップを並べ、隣あって座る。

「やっぱり隣なのね。」

「……近いから。」

 毛布を彼女と自分の肩にかける。向かい合ってたらこんなことできない、とそういうことにしておいた。

「ありがと。」

「うん。」

 カップを両手で包んで指先を温める。じわじわと凍っていた血管が融けて、血が巡り始めるのを感じる。そろそろ飲もうかとカップを持ち上げると、なぜか彼女の手に遮られる。

「どうしたの、」

「また忘れる?」

 え、と小さく声が漏れる。彼女の指が私の手首を掴んでいて、脈拍が伝わっていると思うと気が気でないのだが、眠いのか半目の彼女が目を離してくれないのも気が気でない。

「また酔ってる時のこと、忘れる?」

「庵が、思い出させて、くれるんでしょ。」

「……ずるい。」

 彼女は困ったように笑って手を離す。と思ったのに離さない。そのくせ彼女はひとりでコーヒーを口に含んで、意図が読めずに戸惑っていると。

「んむ。」

 微かな甘さを纏った苦味に口内を支配される。熱い彼女の舌に掻き回されて、少しだけ歯磨き粉の味がするな、とかどうでもいいことばかり思い浮かぶ。頭の上半分でジェットコースターみたいに血が巡ってぼうっとしてくる。

「酔う前に。」

 濡れた舌をちろりとのぞかせながら意地悪くのたまう。

「……ずるい。」

「お互い様。」

 カップの端をこつんと鳴らして、湯気の立つ水面に口をつける。嚥下した液体が下っていく感覚と共に優しい熱が体を満たしていく。寒いなんて気持ちはどんどん薄れていって、耳を打つ心音と気怠さを伴う熱だけがそこにあった。

「真莉。」

「なぁに。」

「こうやって誰かと一緒にいるなんて、去年の私、想像もしてなかった。」

 私も、と言いかけてやめる。続きがあった。

「前にさ、人類みんなお節介焼く対象にしか見えなかった、って言ったじゃん。あれほんとはね、違うの。みんなが私のこと便利な人としか思ってなかっただけ。」

 吐き出した言葉の残滓を洗い流すようにカップを傾ける。

「だから、真莉が、ちゃんと私を見てくれて嬉しい。なんて。ね。」

 茶化すように笑って残りのコーヒーを飲み干す。「なくなっちゃった。」空のカップを大食い番組みたいに見せてきた。

 どうすればいいかわからなくて、とりあえず彼女を抱き締めた。あったかくて安心する。いや私が安心してどうする。

「庵。」

「うん。」

「好き。」

「……うん。」

 かぶさるように倒れてきた彼女の耳と私の耳がすれ違う。鼻先にかかる髪がくすぐったい。鼓動が重なって、他の音はずっと遠くへ消えていって、冬の静けさがふたりを包んでいた。


■□■□■□■□■□

「真莉。」

 小さな背中をぺしぺしとたたく。反応がない。ただの居眠りさんのようだ。

「こんなとこで寝たら風邪ひいちゃうぞ。」

 そして私も動けないのでふたりして風邪をひくことになる。歯も磨いてない。

「真莉ったら。」

 なにやらうにゃうにゃ言っている。うにゃうにゃ言ったって駄目だぞ。

「さっさと起きないと襲っちゃうぞー。」

 うにゃ……を最後に一切喋らなくなった。本格的に寝たのだろうか。パジャマの裾をめくって背中をさわさわしてみる。すべすべだ。彼女は少し身をよじったが起きる気配はない。仕方ないので彼女をくっつけたまま自室へ戻る、前に彼女が残したコーヒーを飲み切る。だいぶぬるくなっていた。さすがにこのままカップを洗ったり歯を磨くのはきついので明日の私に任せる。こんな動物がいたなぁなどと思いながら横になって、目を閉じた。


■□■□■□■□■□

 目を覚ます。彼女の寝顔が視界を占領していた。どういうことだ。ぐるぐると首を巡らすと薄明かりが漏れる窓際の目覚まし時計と目が合う。午前四時だった。二時過ぎに起きたのは憶えている。それで、ええと。布団を探しに来て、電気を点けて、それがどうして彼女の部屋で寝ているんだ。しかも彼女の布団で。意味が分からな過ぎて心臓がばくばくする。また何かやらかしたんだろうか。

「おはよ……。」

「おっ、おはよう。」

「眠れた?」

「えっ、いやうん、うんって、その、二時間だけど。」

「んじゃ、寝直しましょうやー。」

 ふにゃふにゃな笑顔で背中をぽふぽふされる。いやちょっと、待って欲しい。

「ねぇ庵。」

「なにー?」

「私、どうしてこんなとこで寝てるんだっけ。」

「思い出さなくてもいいよ。」

「なにそ、」

 一瞬だけコーヒーの味がした。柔らかさとか熱より先にコーヒーがやってくることに引っ掛かりを覚えながら、何でなのかは思い出せない。

「おやすみ。」

「……おやすみ。」

 そう言うなり彼女は再び目を瞑って寝息を立て始める。仕方なく私も目を閉じて重力に身を任せてみるけれど、違和感の正体が気になって一向に眠れそうにない。コーヒー。リキュール。……ティファナ、コーヒー。

「あ。」

 彼女の小さな照れ隠しに気づいて、自然と口元が綻ぶ。ひとしきりにやにやしたら忘れていた眠気も帰ってきて、弛緩していく瞼に抗えない。彼女と一緒だと、どこまでも暖かいのだった。

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