序章

03 いえで①

 ジョットは無我夢中で走っていた。小さい手足を懸命に動かして、地面を蹴る。どこへでもいい。とにかく遠くへ行かなければならない。


「待てジョット! 止まれ!」

「止まってジョット! 危ないわ!」


 後ろから父と母が追いかけてくる。怒鳴り声にも似たその警告に急き立てられ、ジョットは歯を食い縛って、よりいっそう拳に力を入れる。

 けれどいくらも進まなかった。両親の足音はどんどん近づいて、視界の端からぬっと大きな手が迫ってくる。


「やあっ!」


 ジョットはびくりと震え、とっさに向きを変えた。しかしそこに地面はなく、体がガクンと傾く。

 一拍の静寂、目の前に広がった青空、崖の縁から覗き込む両親の強張った顔。その背後で、きらりとなにかが光ったが、ジョットは恐怖に目をつむった。


「シャルル!」


 次の瞬間、ジョットはぬくもりに受けとめられた。びっくりして目を開けると、みつあみに結った金色の髪が揺れている。視線に気づいたその人は、水色の目をやわらかく細めて笑った。


「よかった。間に合った」


 どこの誰かもわからないお姉さんだった。けれど目が合ったとたん、言い知れない安堵が胸に広がって、ぽかぽかと暖かくなる。その心地よさにたちまち涙があふれて、頬を伝った。


「やっと、みつけた……」

「泣くほど怖かったんだね。今お父さんとお母さんのところに、連れてってあげるからね」


 シャルル、とお姉さんが呼ぶ。すると低い声がひとつ鳴いて応えた。黒い体に、キラキラ青く輝く角を持ったドラゴンだ。

 ドラゴンはお姉さんの意を汲んで旋回し、地上で待つジョットの両親に向かって下降する。


「いやだ!」


 両親の笑みを見て、ジョットは力いっぱい叫んだ。黒いドラゴンが急停止する。お姉さんは戸惑った声をこぼし、抱えたジョットをやさしくあやした。


「どうしたの?」

「ジョット、おいで。怪我してないかママに見せて?」

「すみません、お姉さん。うちの息子混乱してるようで。構わず連れてきてくれますか」


 母と父の言葉に、ジョットは首を横に振る。お姉さんに訴えかけようとするが、突然のどに圧迫感を覚えて言葉が押し潰された。

 振り上げられた大きな手、顔に走った衝撃がよみがえる。手足がすくんで呼吸もままならない。


「だいじょうぶ。ゆっくりいくからね」


 思いを声にできないまま、お姉さんは黒いドラゴンを操って地面に下りた。

 すると二頭のドラゴンが周りを囲む。父の竜脚科ノッテ・イェガーと、母の小竜科クルーク・シャイだ。二頭はお姉さんと黒いドラゴンを警戒するように、低くうなった。

 まるで酒に酔った父のようだ。


「ほら、捕まえたぞ。やんちゃぼうずめ」

「あ……っ」


 父に腕を掴まれ、ジョットはお姉さんから引き離された。

 ひげの生えた口元をゆるめて、父はやさしく笑っている。この表情に騙されて、みんな気づかない。細い腕に痕がつくほど、きつく握り締められていることに。


「ジョットちゃん、ママにお顔よく見せて」


 駆け寄ってきた母に前髪をなでつけられる。真っ赤な紅を差した顔に覗き込まれた瞬間、ジョットの頭は白く灼き尽くされ、体が震え出した。


「ああああああいやあああっ!」

「すみません。その子を放してもらえますか!」


 決然とした声とともに、お姉さんが父の手を引き剥がす。ジョットはすかさず女性の後ろに隠れた。

 両親のドラゴンたちが咎めるように踏み込んでくる。しかし黒いドラゴンが、翼を広げて立ち塞がった。


「ちょっと! うちの子をさらうつもり!?」

「そうではありません。ですが、この子は明らかにあなたたちに怯えてますよね」


 苛立ちをあらわにする母に呼応して、小竜が頭上をすばやく旋回する。父のドラゴンが爪音を立てながら、ゆっくり横へ回った。


「怯えるなんて人聞きが悪い!」


 あたりには、叫び声を聞きつけた島民たちが集まってきていた。父はうろたえた様子で周囲に声を張る。

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