境界の先のツゲンが目を見開いて、背を向ける。その仕草を順行に直すと、背を向けていた状態からこちらを向いて、目を見開いたということになる。それは、ほんのわずかな先の自分の未来の姿だ。自分が本当にそのような仕草をするのだろうか、もし同じことをしなければどうなるのか――ツゲンは思ったが、それは巨大な時間のうねりの中では小さな疑問でしかなかった。それならそれで時間は進行していくだけだ。時間は水のように柔軟に流れていく。行く先を次々と変え、次々と同時間の別次元を生み出していく。だから自分が無理をして未来の自分と同じように振る舞う必要はないし、過去の自分に接触してたとえ殺したとしても、時間はなんの問題もなく流れ続けていく。

 向こう側のツゲンの背が近づく。それはツゲンが足を踏み出したからでもあり、遡行側のツゲンがこちらに後ずさったからでもある。それを順行に直した場合、目の前のもう一人のツゲンはまさに境界を越え、逆流する時の中に身を置いたばかりの自分の姿だ。

 ツゲンは、自分の背に吸い寄せられるかのように境界を目の前にした。先に手をかざし、感触を確かめる。しかしなんらなにかを跨いだ実感はない。その無感覚がさらにツゲンの背を押した。いよいよ鼻先が境界に接する。はたから見たら、境界を通過した瞬間、先ほどの石のように両時間軸のツゲンが衝突して消えたように見えるだろう。しかし一方から見ると境界を挟んだ両側に突如として二人のツゲンが生まれたかのようにも見える。そしてツゲンから見た場合、時間は当たり前のように淡々刻々と進行を連続させていた。

 振りかえってみる。そしてツゲンは、思わず目を見開いた。境界の先にある元居た世界に、もう一人の自分がいる。いま目の前でなにが起こっているのか理解した瞳だ。ツゲンは過去の自分と相対した。

「アクヌリエチシ、ウオッキャグ、アグナキジ」と過去のツゲンが言う。

 ツゲンは自分が〝時間が逆行しているのか〟と言っていたことを思い出した。それが逆再生されたのだ。ツゲンは頷いたが、順序的に、彼から見るとなにも言っていない状況で自分が突然頷いたかのような状態になったことに気付いた。過去のツゲンの世界は逆再生状態なので、さらに過去へと向かっている。すなわち、この境界を挟んだコミュニケーションにおいては、後先は逆になる。

 過去のツゲンが腕時計を持ち上げる。ツゲンから見ると、その時計の針は逆行している。ツゲンも同様に腕時計を彼にも見えるようにして持ち上げた。ツゲンから見るとやはり順行しているが、彼から見たらこの揺れる秒針は逆行しているのだ。

「アコヌリエッチオト、イオコ」

〝来い、と言っているのか〟と過去のツゲンは戸惑う表情で呟いていた。彼がなにかを言ったあとに頷いても意味はないので、ツゲンはゆっくりと彼に向けて手をこまねいた。簡単な所作であれば、それが逆再生であっても似たようなそれに見ることができる。過去のツゲンの手の中に小石が戻り、ツゲンの横に小石が転がる。そうだったとツゲンは彼のその行動に軽く指をさし、困惑する表情になった過去のツゲンを前に、今度は自分が手近な小石を境界へと投げた。過去の世界から小石が巻き戻り、ちょうど境界で二つが衝突して消滅する。

「大丈夫。お前なら答えを導き出せる」

 ツゲンは、今度は先手を打って頷いた。

「アコナネロ……アハタンア」

 驚いた顔の過去のツゲンがジッとツゲンを見つめ、しばらくするとゆっくり後ずさりしていく。そして次第にその後ろ歩きの幅は大きくなり、やがて過去のツゲンは山岳地帯の影へと消えていった。

 一人取り残されたツゲンは、そこでようやく尖塔内部の影の冷たさに気付いた。青黒い石壁がずっと奥まで続いていて、静かだった。

 この先にはなにがあるのだろう。

 尖塔が引き起こしている一連の現象を整理すると、おそらくこの塔全体が時間的に遡行している。この塔は過去に向かって時を進めていて、数日後の未来にレーカがここを訪れ、塔は崩壊する。では、レーカはどこから来たのだろうか。この尖塔の内部になにか答えがあるのだろうか。ツゲンは、建物内部の闇に怯みながらも、ゆっくりと歩みを進めはじめた。

 通路は入り組んでいた。人一人が辛うじて歩ける狭い通路が複雑に入り乱れ、時々、ツゲンは同じ場所に戻りながらも奥へ奥へと進んでいった。そして外からの光が遠く見えなくなりそうな頃、別の方向にもう一つの光を見つけた。出口だ。近づくにつれて光は強く眩しくなる。そしてその出口に立つと、ツゲンは愕然とした。

 辺り一面、ロボットの残骸が転がっていた。黒煙を上げ、粉々になっていたり、原形をとどめていながらも動かなかったり、緑色の目が点滅しているロボット、エラーブザーが鳴り続けているロボット、とにかくたくさんの壊れたロボットたちが散らばっていた。

 こちら側の出口には、時間の境界はないようだ。念のためツゲンは小石を投げてみたが、それは当たり前のように放物線を描いてその辺へと転がった。コロコロと赤い岩地を小石が転がる。その地面が、ズンと大きく振動した。ツゲンがよろめくほどではなかったが、パラパラと周囲の岩肌から石が転がった。ここにもロビングッドフェローがいるのだろうか? ……いやちがう。煤の臭いがする。なにかが燃えているようだ。山の向こうに黒煙が見えた。ツゲンは、それを頼りに歩き出した。これといった道はないので、できるだけ平坦な道を選んで進んだ。山を迂回し、景色が晴れる。

 町が燃えていた。

 人が逃げ惑っていた。

 ツゲンが高台から見下ろした町は今まさにロボット軍の侵攻を受けていて、銃や火炎放射器による掃討作戦が行われていた。そのロボットたちはどこかで見覚えのある型をしている。思い出したくはなかったが、ツゲンは鮮明に覚えていた。あれはツゲンが直していたものと同じ型のロボットだった。ツゲンが直した個体がそこに含まれているかまではわからないが、関連があることは容易に想定できた。

 なぜ、とツゲンは思っていた。

 なぜ、尖塔の奥にこんな世界が広がっているのだろう。この世界は一体なんなんだ。あの町で襲われている人々は本物なのだろうか。

 建物の隙間の小さな広場に齢一桁程度と思われる姉弟が逃げ込んで、それをロボットたちが取り囲み、四肢を引っ張って身体を分解している。男たちが鋼鉄の身体に木の棒を叩きつけ、返り討ちにあっている。決死の覚悟で爆弾を携えた少年が道端で転び、一人で爆発した。お腹を守っていた妊婦には頭がなかった。それらの光景も――遠目から見ているからだろうか。どこか別の世界のできごとのようにツゲンには感じられていた。

 この世界はなんなんだ。

 おそらく彼女なら知っているだろう。ツゲンはレーカのことを思い出した。レーカは、この世界から尖塔を通って順行世界へとやってきている。記憶を無くしていたが、もしかしたらこの世界をみればなにか思い出すかもしれない。ツゲンは引き返し、尖塔を抜け、元居た自分の世界へと戻った。

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