夜をこえて
島本 葉
本文
もう何度目だろう。常夜灯をぼんやりと見つめながら、今何時だろうかと考える。ベッドに入ってから結構経っているのに、一向に眠れる気がしなかった。
目を閉じてじっとしていると嫌なことを考えてしまいそうで、諦めて身体を起こした。スマホを見るとまだ三時過ぎだった。
カーテンの隙間から外を見ると、黒い闇が広がっていて、時折マンション脇の道路を走る車のエンジン音と微かな光が揺れる。このまま横になっても眠れないのは経験から知っている。それなら、いっそ外のほうが。
立ち上がって手早くウェアを身につける。ローテーブルに置いたスマートウォッチを掴もうと手を伸ばし、無造作に置いた封筒の差出人が目に入りそうになって、慌ててその上に雑誌を重ねた。
ジョギングは新しい習慣だった。走ってみると意外と楽しいことがわかって、学生の頃の自分に教えてやりたいくらいだ。あの頃から走っているとなにかが変わったのだろうか。いや、と馬鹿げた考えに首を降る。
荷物をポーチにまとめるとシューズを履いて外に出た。この時間のマンションはひっそりとしていた。
通りに出るとかなり肌寒い。ストレッチをしながら少し歩いて、ゆっくり走り出した。ワイヤレスイヤホンからシャカシャカとポップスが流れてくる。
街灯の明かりを頼りにいつものコースへ。普段は夕方に走ることが多いため、まだ暗い中走るのは少し不思議だった。
頭はまだ冴えていて、さっきの封筒がこびりついて離れなかった。差出は裁判所だった。あの未開封の封書は毒だ。開けたら悪意にさらされることがわかっている。心のない文字の羅列。それはただ私を壊すだけの悪意の塊だ。
ちょうど恋を歌うセンチメンタルな曲がかかって、反射的にイヤホンをむしり取ってポーチに突っ込んだ。
許されない恋。なんて都合のいい言い草だろう。
もう誰が悪いとかはどうでもいい。今更あの人にも、その相手にもなんの感情もわいてこない。これだけは申し訳ないけれども、あんなに大事だった息子にも心を動かさないようにした。心を壊さないためには仕方がないのだと割り切った。
信号が赤になる。いつも車が行き交う国道も全く人気がなかった。誰もいないので渡ったところで危険は無いのだが、律儀に止まってその場で足を動かす。
チカチカと対抗車線の信号が明滅している。青いランプが灯るのを待って、少しペースをあげた。
音楽を止めたので、周囲の音がよく入ってくる。
たまに通り過ぎる車のタイヤがアスファルトを転がるロードノイズ。ときにガーガーともゴーゴーとも。風が街路樹を揺らす。犬の遠吠えのような声と、私のリズミカルな足音。呼吸音と心音。
呼吸は鼻から、四歩に二呼吸。二回吸って、二回吐く。ペースは一キロ六分強くらいなので、それほど早くはない。
頭を空っぽにして、走る。
十キロを越えたあたりからは、もう周りの音も消えた。私の息遣いだけが響いていた。
苦しくなってきたが、足は止めたくなかった。もう少し。この先の海まで足を前へ、前へ──。
海沿いの道路から眺める空は濃紺から、いつの間にか瑠璃色に変わっていて、地平線には白い線がぼんやりと光っている。手前の海はまだ深い青をたたえているが、空との境界に向かって、赤とオレンジが混ざりあっていく。
車道にも車が行き交い始めて、眠そうに目をこするドライバーの姿も見て取れた。
新聞配達らしい原付きの軽やかなエンジン音が聞こえてくる。
少し先には、コンビニの明かりが煌々と点っていた。
その光の下では、それぞれの営みがある。
人の世はこんなにも広く、折り重なって繋がっている。
私はポーチからイヤホンを取り出して、ラジオアプリを開く。
元気な男性DJの声が響いてくる。
朝焼けをくるりと折り返して、私はまた走り出した。
完
夜をこえて 島本 葉 @shimapon
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