第5章 他国

 私が一通りの言葉を覚え、空で思い出していると彼が目を覚ました。早い目覚めだった。昨日もこれくらいの時間に起きていたのだろうか。

「おはよう。結構覚えれた?」

 挨拶と共に、彼がそう聞いてきた。休めたようで疲れはなさそうだった。

「ある程度はね、すらすらとはしゃべれないけど、最低限は伝えられるかな。」

 辞書も一緒に広げていたこともあり、自国の言葉との親和性も取れて覚えやすかった。

「そっか。後で教えてよ。髭を剃ってくるからさ。」

 そう言って彼はベッドから出て、洗面所へと向かっていった。彼が戻ってきて着替えると、言葉を教えてもらう前に朝食にしようといったので、その後にすることにした。

 ホテルの朝食を足早にとり、部屋に帰ってきた私は早速言葉を教えることにした。急いだ割にチェックアウトまでには時間があり、簡単な勉強の時間くらいは十分に設けられていた。私も流暢とは程遠いレベルだったので、挨拶や返事の言葉を主に教えることにした。彼も自分が日常会話をすることは難しいと判断し、当分の間は私に通訳を任せることにした。彼はそれぞれ挨拶の言葉を何度も復唱して覚えた。私が、ありがとうや、ごめんなさいといった言葉を、ニュアンスの違いなどと共に説明したので彼は感心し、覚えやすくて助かると言ってくれた。言葉を教えた後は簡単なロールプレイを行い、言葉の確認をしたがお互いにぎこちなく不自然だったので私たちは笑ってしまった。おはよう、こんにちは、ありがとう等々の簡単な挨拶を彼ができるようになったところで荷物をまとめ、チェックアウトをし、ホテルを出た。

 私たちが例の税関に行き、受付に問い合わせると許諾の申請は取れていた。問題なく通ることが出来そうだ。私たちは駐車場に行き、最後の検査を受けることにした。最終検査場は駐車場から直接行くことができ、その中継点に申請書を見せることによって通ることができる。最終検査場はやはり検問所のような所で、車と荷物、そして身体のチェックが行われる。ここは今までの検問所の簡素さは感じられず、設備も整っていた。最初の検査と書類によって私たちの身分は証明されているため、チェックは厳重だが時間がかかることもなくすぐに通ることができた。私たちは他国であるトゥモールに向かうという高揚感を得、車を少し走らせているとすぐに街が見えてきた。

 国境のすぐそばにあるこの街は栄えた大きな所であった。いつものように検問所を通ることになったが、どうやらこの街も人架が入ることに制限が設けられているわけではないらしかった。また皮肉なことにこの街もいつもの様に何の問題もなく、デモが行われているのだ。とはいえ、大きなデモやそんな集団が見受けられるわけでもなく比較的平和な方だった。この街は「リッツァル」という街で、概ね大都会といった感じだった。住宅街も広く分布し、ショッピングモールや娯楽施設などの建物も数多くあり、人口も今まで通ってきた街と比べると圧倒的に多い。道は舗装されていたが、商店街付近以外は石畳といった感じで、昔からのものなのか、古風な感じを演出していた部分もあった。街の隅々に検問所が設置されており、その理由は、ここから様々な都市に続いていることから各所に行けやすくするためらしい。そのことからもこの街は「トゥモールの入口」なんて別名で呼ばれていたりする。国境からすぐにこの街に着くこともその由来の一つだろう。

 私たちはリッツァルに着いて、先ずやることがあった。それが両替だ。デイラントとトゥモールの貨幣は統一されているわけではないため、持ってきたお金もここでは紙切れなのだ。私たちは銀行に行き、覚えたての言葉で貨幣の交換を行った。しっかりと勉強したのは確かだが、それでも伝わるかどうかは心配だった。しかし、その心配も杞憂に代わり、伝えたいことを正確に伝えることには成功した。受付の女性と私がやり取りをする中でその様子を彼は物珍しそうに見物していた。私が思いのほかすらすらと伝えているように見えたためだろうか。受付の対応が親切で、分からないことも教えてくれたので早く済ますことが出来た。こうして私たちは少々の時間と手数料を代償にこの国のお金を手にすることができた。

 私たちが手続きを済ませ、銀行に止めてあった車に乗り込んだところで、私は彼に聞いた。

「ソルヴが行きたいって言っていた所って、どのあたりにあるの?」

 この街に海はなく、当分はそこに行く旅になると言っていたので、彼の目的地がここではないことは確かだった。

「まだ先だよ。地図だとこのあたりかな。トゥモールの端っこだね。と言ってもあと一つ街を超えたら着くみたいだけど。」

 彼は地図に指をさしながら、そう説明した。地図で見ても分かる通り、この街リッツァルは様々な都市に囲われるような形で存在していた。彼が指で指した目的地は海辺だがトゥモールの端で、リッツァルからの中継点となる街は一つしかなかった。つまり、その街を通らなければ目的地に行けないということらしい。

「そういえば、水着とか買っておいた方がいいのかな?」

 気が早すぎるかもしれないが、楽しみだったことが作用し私は準備に取り掛かりたかった。

「ええと、実は海水浴場って感じのところではなくてさ、そこも街なんだ。「ウェープラン」という街だ。漁港?みたいなのがあるようなとこ。がっかりした?」

 がっかりした。私はてっきり海水浴場だと思い、その情景に心を躍らせていたのだから。嘘をつかれたわけではないので怒りはなかったが落胆はそれなりに大きかった。でも私が欲していた漣や朝焼けは楽しめるのだから、と気持ちを切り替え前向きに考えることにした。

「ちょっぴりね。でも楽しみよ。」

 彼に申し訳ない気持ちにさせないためにも楽しみだという事を強調して言った。

「ごめんね、変な期待させちゃって。でも良いところだと思うよ。俺も行ったことはないんだけど。」

「気にしないでよ。そこもきっと言う通り良い所だと思うし。それよりさ、この街もちょっと見ていこうよ。」

 私がそう答えると彼は車にキーを差し込み、車を回した。この時私は些末な違和感を覚えていた。本当にどうでもいいことで、もしかしたら私の思い過ごしかもしれない。違和感は彼の「したいこと」にあった。また、私が今回、海水浴を期待した要因でもあった。それは、なぜ彼がわざわざ目的地として「街」を選んだのか。という事である。元々、この旅は彼がそんな街で起きているデモや暴動に嫌気が指したという理由も含まれているのだ。最近のニュースを見れば、このデモや暴動が普遍的なことになりつつあり、どの街に行ってもその可能性は捨てきれないはずだ。そんな理由で、彼はもっと自然的なところを欲し、そこに向かおうとする思ったのだ。

 私が想像した海水浴場も街の近くにあったりするのは予想できるが、より自然的で人々の喧騒からは離れられる所だ。だから私はずっとそう思い込んでいたのだ。でも今の彼の口ぶりをからは、彼は確かに海というより、街に行こうとしていた。漁港などの言葉がそれを彷彿とさせる。このあたりは、といってもかなり膨大な範囲だが、開拓が終わっていると言っても過言でない程に街が続いている。人がいないところの方が珍しいくらいだ。だからそんな場所に行くには、うんと遠くへ行かなくてはならないだろう。でも、それでもいいではないか。私たちには時間もあるんだし、そもそも駆け落ちなんだし。そんな疑問が心の中に微かに揺らいでいた。

 私たちは商店街付近を車で徐行しながら、どんな施設があるのかと拝見していた。周りはデモの集団や、何やら口論する人たちが少々いたが気になるほど邪魔な存在にはなっていなかった。彼らなりの配慮もあるようだ。その一帯は商店街らしい商店街で、食料品店や服屋、宝石店などが幅広く展開されていたが、私たちの興味を強く惹いたのは娯楽施設だった。フィットネスクラブや映画館、珍しいものだと伝統的なサーカスなどがあり、都会らしくかなり充実したラインナップだった。私たちは最初、サーカスが良いと思ったが、どうやら公演期間ではないらしく残念ながら見ることはできなかった。それが起因し何かに魅せられたいと思った私たちは映画を見ようという事になった。

 私たちは映画館の近辺に車を停めて、チケットを買いに行くことにした。映画館といっても大きな劇場で大きなスクリーンを通して映画を観るといった代物ではない。少し大きめの部屋といったような鉄筋コンクリートでできた無骨なテントに昔さながらの映写機を使ってスクリーンに映像を映して観るといったものなのだ。なのでそれに付随し、受付も簡素なもので、コンパクトに縦横に並んだテントの前に建てられた板小屋のようなものだった。決して横にポップコーンなどが売られている売店がくっついているような良くできたものではない。よって映画館の駐車場もないのだ。私たちは受付で、二人分のチケットを買い、番号が振られた部屋に入った。部屋に入って、座り心地のいい木目の椅子に腰かけてしばらくすると上映が開始された。

 私たちが選んだ映画はある男の生涯を描いたフィクションドラマだった。内容は、ある男は昔から絵を描くのが好きで、夢だった絵描きになったがその男が本当に描きたい絵は評価されず、頼まれて描いた絵が評価されるといった納得のいかない生活を送っていた。そうして過ごしていたある日、自分の描きたい題のコンテストが開かれ、それによってその男の人生が色づいていく。とこんなところの話だった。最後は男の絵に対する価値観が変わり、最初の仕事に一工夫入れて、人のために絵を描くことに喜びを感じるといった大団円で終わった。私は映画評論家ではないので大したことは言えないが、その男の心境の変化の部分にはあえて音が入っていないなど、味な作品になっていて満足のいく時間を過ごすことができた。ちらりと彼の方を見ると微笑んでいたので、彼も気に入ったらしい。私たちは席を立ち、映画の感想や考察を語り合いながら、出口まで行きチケットを投入する箱にチケットを入れて映画感を後にした。

 車に戻った頃にはとっくに昼を過ぎていたので、また配給の袋から缶やインスタント食品を取り出して車の中でそれを食した。隣町はそう遠くないこともあり、今日はその日のうちに向かうことにした。

 私たちは例によって、次の街「クロードサイド」へと続く検問所に車を走らせた。検問所にはしばらくは車を走らせる必要があったが、道が整備されており、スムーズに到着することができた。ここの検問所はどうやらクロードサイドと「ラネルツ」という街に続く検問所らしい。この街は都市というだけあって、それぞれの検問所はいくつかの街に続いていたりするそうだ。しかしクロードサイドへ行くという旨を伝えるとそこの担当者に止められた。担当者は高齢の少しやせ細ったベテラン作業員といった風だった。最初は彼に話しかけていたが、私が通訳できると解ると私に話し出した。

「クロードサイド?あそこは今、暴動中だよ?それも数日間も収まってない。いつ収まるかもわからないし…今はラネルツに行く人がほとんどだよ。どうしても行くってんなら止めはしないけど。」

 そのご老人は困った様子で、そう言った。親切心でそのようなことを教えてくれたのだ。

「ウェープラン?に行きたいんです。他の道があればそこを通ります。」

 私はダメもとで聞いてみた。さっきは推測だったが、他に道はあるかもしれない。ご老人は親切に簡素な建物からわざわざ地図を取り出し、教えてくれた。

「申し訳にくいんだけどね。ほら、ウェープランは端にあって、つながってるのはクロードサイドだけなんだ。ウェープランと繋がる他国もあるけど、この国から陸続きなのはこの街だけだから迂回もできないんだ。」

 やはり、ダメだった。ご老人の言った通り、ウェープランと繋がっている街はあったがそれは違う国で、ここから迂回してウェープランに行くルートはないようだった。ほとんど置いてきぼりを食らってしまっている彼に今の一連の流れを説明した。私は彼の判断に任せることにした。

「行こう。少し危険かもしれないけど、行く価値はある。」

 彼の意思は固かった。私もその意志に従い、向かうことを決意した。でもこの時、なぜ私たちがこの街でゆっくりと過ごし、暴動を待つという選択肢を取れなかったのかは説明がつけられない。私が行くという意思を伝えるとご老人は

「分かった。気をつけてな。」

 と私たちを止めることなく、検査を行い通してくれた。私が人架だとわかるとその男の心配そうな顔は一層深くなっていたが、それ以上は何も言わなかった。私たちはご老人に感謝の言葉を伝えて、その場を後にした。

「地図にもある通り、クロードサイドはすぐに抜けられる。心配いらないさ。」

 彼は少し心配いそうな顔はしていたが、その強い意志に私は安心できた。

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