さよならモラトリアム

藤石かけす

第1話 セピアの本棚

 水の張っていない水田では、むき出しの土の茶色が、世界をまだらに彩っている。車が二台通るのがやっとの道を、一は迷いなく進んでいく。小さなころから、何度も通った道。全盲になっても辿り着けるであろうあの場所。一週間後の自分がこの場所にいないということが、彼にはまだ実感として認められない。

 穏やかな陽光を吸って、あぜ道の草花が微笑んでいる。その間にまばらに立った家々も、心なしか明るい顔色をしているように見える。旅立ちに膨らむ胸には最適で、別れを惜しむ涙にはそぐわないうららかな光景が、目の前には広がっていた。

 一は、この町に特に未練はないと思っていた。生まれ育ったのは間違いなくこの町だが、両親が土地の人間ではない彼にとって、故郷への愛着はほとんどなかった。自分は水栽培のようなものだ。だけど、それでもいいではないか。むしろ、中高生の彼は、泥臭さもしがらみもなく、きれいな水だけがあればどこでも生きていくことができる自分に優越を感じてすらいた。



 点在する家屋のひとつの前で、一は足を止めた。築五十年以上の、小さな民家。その壁の一部は、木の皮を加工して重ねたみののような装飾に覆われている。玄関においてある朝顔の鉢は、しおりが小学生の頃のものだ。一も全く同じものを持っていたが、庭に放置したら、いつの間にか経年劣化で表面に粉を吹いていた。

 左手に持っていた黒い筒を、リュックサックのサイドに突っ込んで、親の顔より見た擦りガラスの扉に手をかける。小さなころは建付けの悪さに悪戦苦闘したこの扉も、今となっては難なく動かせるようになってしまった。

「おかえり」

「じいちゃん、俺だよ」

 孫娘と勘違いした店長に、一は苦笑しながら訂正を入れる。

「おお、一か」

「しおりはまだ友達と写真撮ってるよ。当分帰ってこないと思う」

 しおりのクラスは、この後食事に行くとも聞いていた。自分のクラスにはそういうことを言い出す人がいなくて助かったと、失礼ながらも思ってしまう。


 一の幼馴染の菅野しおりの祖父は、『みのむし書房』という名の古本屋を営んでいる。民家の一階の一部を利用した店。壁一面に並んだ本の背表紙からは、年月を経たもの特有の余裕が滲んでいる。老齢の店主の背中も相まって、この空間に流れる時間全体がセピア色だ。普通の人には淀んで感じられるような空気が、一にはこの上なく心地よかった。


「卒業おめでとう」

「ありがとう」

 小学生のころ、毎日通った知恵の森のにおいが、つんと鼻に流れ込んでくる。そうだ、高校なんかよりも、『みのむし書房』に毎日いけなくなることのほうが悲しいじゃないか。

「大学には行くんだろう?」

「もちろん。東京に行くよ」

「東京か。本の買い付け以外ではほとんどいったことがないな」

 そうだろう。だって自分は、しおりからなるべく遠いところを選んだのだ。それは当然、彼女の祖父からも遠いところということになる。

「いつ引っ越すんだい?」

「明後日」

 だいぶ早いな、というじいちゃんの言葉に、一は頷いた。自分で選んだ日取りだ。何かに後ろ髪をひかれて絡めとられてしまう前に、ここからとっとと逃げ出すのだ。大人になるまえに、鬱屈した素直ではない自分とは決別しなければ。


 一としおりは、生まれる前から知り合いだった。母親同士が出産前に病院で出会ったのだ。夫の仕事でこの町に引っ越してきた母が、町に馴染めたのもしおりの母親のおかげだ。そんなこんなで、二人は小さなころから一緒に遊ばされていた。小学生の頃は、放課後になると毎日この家に来て、しおりの部屋で宿題をし、じいちゃんの座る番台の横で、店の本をどちらがたくさん読めるか競ったり、次に売れそうな本を予想したりしていた。おかげで一の体は、すっかり活字に侵されてしまっていた。

 一の生活は、いつまでたっても本とこの場所を中心に回っていたが、しおりは違った。もともと快活で、友達の多かったしおりは、中学校にあがると運動部や生徒会に入って忙しくなった。地頭もよく機転の利く彼女は、もともと勉強しか取り柄のない一と同じ高校に入学した。だが、学校が一緒でも、二人の関係がだんだん希薄になっていくのは止められなかった。重なり合っていた二人は次第に交点を持つだけになり、最後には接点くらいしかなくなった。一はいつも、教室や廊下で、背中を丸めて、しおりの健康な笑い声をぼんやりと眺めていた。

 だが、じいちゃんはそのことを知らない。もしかしたら気が付いているのかもしれないが、言及はしてこない。それは、二人ともが小学生の頃のように、互いの話を、この翁の前でするからなのかもしれなかった。彼らは強がりだった。でもこの店で二人で顔を合わせている時だけは、心の底から笑えていた。少なくとも一はそうだった。でもしおりは違ったのかもしれない。そう気が付いたとき、信じられないほど情けなくなった。


 しおりときちんと話をしたのは、いつが最後だっただろうか? 高校に入ってからは、挨拶と事務連絡くらいしかしていないような気がする。彼女の目を見て話す回数よりも、この店の番台の家族写真で笑うしおりと目を合わせることのほうが多かったのではないか。

 小学生のころ、宿題で将来の夢にについて考えた。何も思いつかない一に向って、しおりは「大人になったら、一番好きな本をプレゼントしようね」と言ったのだ。一の誕生日は十月だ。彼女はこのことを忘れてしまったに違いない。「一の好きな本は、今よりもっと難しい本になってるんだろうな」と、口をとがらせて言った彼女の顔を、今も鮮明に覚えている。



 一は、もう一度ぐるりと本棚を見渡し、その間を縫うように歩いた。本を手に取ることはしない。そうしてしまうと、もう二度と出ていけないような気がした。この町に未練はない。けれど、この場所には、あまりにもたくさんの思い出があった。


「じいちゃん、これ、しおりに渡しておいて」

 レモン色のブックカバーに覆われた一冊の本を差し出す。何度も迷って、結局あの時一番好きだったミステリにした。未練たらしくて情けないけれど、どうしても爪痕を残したかった。

「明日もまた会うんじゃないのか」

「まあ……忙しくて渡せないかもしれないしさ」

 ごまかすように言って、老爺にそれを押し付ける。

「じいちゃん、今まで本当にありがとう」

「今生の別れみたいな言い方だな」

「まさか、お盆と正月には帰ってくるよ」

 後ろ手に手を振って、出口の扉に手をかける。十年以上滑らせ続けた引き戸は、今までで一番軽くてあっけなかった。



 しおりの誕生日は、明後日だ。

 明後日、一はこの世界を卒業する。

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