第二章 5


 ついに戦争が始まった。戦線は僕の故郷の村より東側に位置していた。つまり、敵に押されてしまうと、僕の村が戦場地になりかねない。僕は騎士長という立場上、先陣を切って現場指揮を執っていた。

 僕はどうして騎士なんかになってしまったのだろうと後悔していた。僕が騎士じゃなければ、エルシーと普通の恋愛ができていたのに……。だけど、騎士にならなければ、彼女と出会うことはなかっただろう。そんな矛盾を抱えたまま馬を飛ばして戦線へと赴いていた。流れる景色は現実感が少しずつ欠けてゆくような気分だ。だが、ひとまずエルシーのことは置いておいて目の前の戦争に集中しなければならない。騎士長という立場上、僕の指示一つで、現場の兵士たちを殺しかねないのだから、冷静にならなくてはならない。しかし、どうして人はこんなにも悩みを抱えることが多いのだろう? 愛する人を傷つけたくないから戦争はしたくないのに、村の家族のため、生活の金のために戦地で戦わなくてはならないのだ。少なくとも、エルシーが戦線にいないことを、そして彼女が戦争によって傷つくことがないことを願うばかりだ。

 

 村より東にある川を越えると、平野が広がっていて、そこに兵士たちが並び、物見櫓が組まれ弓矢の準備をし、投石部隊が投石器に石を運び込み、竜使いたちがドラゴンに餌をやりながら談笑している。その光景の中に僕はいた。毎日演習を繰り返したおかげで、自分が自分のものでないかのように勝手に体と口が動き、兵士たちに指示を出している。自分の故郷の方を返り見ると、この戦線をなんとしてでもここより前に進めなくてはいけない。じいさんと妹を戦禍に晒すようなことはあってはならない。


 物見櫓の兵士が叫んだ。敵が来た合図だ。東側を見ると、遠くで馬に乗った敵達が集団を作って、僕らの方へ向かってきている。僕は生唾を飲み込み、大きく息を吐いた。

 本物の戦争が始まる。

 僕は投石部隊に合図を送ると、彼らは石の雨を降らせた。遠くの敵は僕らの攻撃でバラバラに散らばるが、それでも怯むことなくその足を止めることはない。相手は馬に乗りながら、器用に弓を弾き、矢の雨を降らせた。僕は慌てて防塁に姿を隠した。いくら鎧で守っているからとはいえ、矢を放ってくるなんてたまらない。味方の兵士たちも負けじと矢を放ち返すが、何人は矢をまともに食らって倒れていた。敵はさらに勢いづいて、僕たちの陣地に乗り込んでくる。やがて、敵がもう数百メートルぐらいまで近づいた。僕は竜使いに合図を送ると、竜使いは呪文を唱え始め、ドラゴンを操り始めた。

「竜使いを守れ!」

 僕は兵士たちに向かって叫ぶと、彼らは保護呪文を唱え始める。

ドラゴンは敵の兵士に向かって炎を吐き、首を振り回して薙ぎ払った。これで戦力の大方は削れるだろうと思っていたが、

「まだ来ているぞ!」

 物見櫓の兵士が僕の方に叫ぶ。防塁から顔を出すと、再び向こう側から別の集団がやってきていた。さらに具合の悪いことにはドラゴンを5頭も引き連れている。S国の調査資料によれば、戦闘用のドラゴンは8頭しか飼育していないのに、ここに5頭も連れてきたとなれば、ここを重点的に攻め入るつもりだ。比べてこちらのドラゴンは2頭だけ。僕のいる戦線は王都から距離があるから、相手の戦力もここに力を入れる可能性は少ないとレアが提言し、ここの防衛は手薄にして、他所に回したのだ。どこかから情報が漏れていたのだ。

「おい! 中将宛に伝令だ!」

 僕は近くにいた兵士を呼んだ。

「戦線を後ろの川まで下げる。戦力をこちらにあるだけ持ってきてくれと伝えてくれ」

 兵士は頷くと、馬に乗って駆けて行く。そのまま、物見櫓の方を見上げて合図を送った。そこからラッパの音が3回響き渡るのを聞いた味方達は、戦線を後退させる準備を始めた。投石器と物見櫓に火を放ち、竜使いはドラゴンに飛び乗って川を渡った。僕は馬に乗って川の方へ走り出した。振り返ると、他の兵士が敵に対して剣を交えているのが見え、味方の1人が敵に殺されかけているのが見えた。しかし、彼を助ける余裕なんてない。緊張が臨界点を超えてしまい、口の中が乾き、涙が溢れそうになり、わけがわからなくなる。川にかけられた橋を渡ったあとに、再び振り返ると、さっきの兵士は倒され、数人の敵に囲まれていた。彼らは水筒に入れてあった酒を兵士に浴びせて、火をつけた。喧騒の中、その瞬間は無音だった。兵士は燃えながらのたうちまわり、苦痛のあまり口を大きく開け、声にならない声を上げたあと、胎児のように丸まって動かなくなる。その様子を見て、言葉にならない言葉を叫んでいる者、彼の体を蹴り上げて火の粉を舞わせる者。それをうっとり眺めている者……。それは祭りか、あるいは儀式のように僕の目に映った。心の底で感動が産まれ、それは羨望とも呼べる感情が湧きあがった。

「騎士長! 何をしているのですか!? はやく橋を落とさないと敵が渡ってきます!」

 その言葉で正気に戻った。僕はその兵士に急いで橋を落としてくるように命じた。


 お互いに川を挟んで膠着状態になった。陽が沈み、敵は夜の川を渡るのは危険と判断して、川原に夜営を張り、薪のまわりを囲んで歓喜の歌を歌っていた。その中には何人か女の声も混じっている。彼らは防御の手薄なところを狙い撃ちするのが成功したおかげで、精神的に優勢を誇っている。しかし、僕らは絶望していなかった。そもそもS国よりも我が国の方が兵士が圧倒的に多いからである。増援がくれば問題ないと踏んでいた。


 翌朝、駆けつけた増援のおかげで戦況は一気に逆転した。昼ごろには戦線を押し戻し、夕刻の頃には敵たちの士気が下がり始めて、降伏する者もちらほらでてきた。

 我が国では敵将の首を討ち取って王に献上するのが慣例になっている。戦況の優勢を聞きつけた王は、重々しい護衛を引き連れてやってきた。

「アリクよ、体は大丈夫か?」

 護衛を引き連れてこっそりと僕の元にやってきた王は心配そうに話しかける。

「ええ。大丈夫です。御心遣い痛み入ります、殿下」

「それで、敵の将軍はどこにいるのかわかっているのかね?」

「いいえ。これから探し当てます。敵はすでに陣形を崩しているので、指揮官を討ち取るのは時間の問題でしょう」

「それは頼もしいことだ。君は身体を傷つけることのないように気をつけるんだよ」

 王の言葉に僕は微笑した。彼は手を伸ばして、僕の頬をそっと撫でる。僕はその手を掴み、優しくキスをした。

 敵たちの死体がごろごろと転がっている中、誰が指揮をとっているのか探ると、数が少ないながらも未だに抵抗を続ける集団を見つけた。その中の一人は他の兵士と違い、鎧の左肩の部分に星マークをつけて、劣勢の最中にあっても、指揮官らしく仲間達を鼓舞している。顔に面頬を被っているせいで、瞳が誇張されていた。その視線は落ち着きがなく、弓を力強く引きすぎて、矢尻が震えているようだった。焦っているのだ。と思った。コイツに違いない。僕は味方を引き連れて相手集団にけしかけると、敵たちはあっさりと降伏するが、面頬を被った騎士は逃げだしていた。鈍い動きで、追手から必死に抵抗するが、すぐに捕まえることができた。手を後ろに回して縄で縛っても、まだ抵抗しようとしていた。

 僕は連れてきた敵を王の前に跪かせて差し出した。王は役職と名を名乗るように促すと、

「騎士長、エルシー・ケクラン」と言った。

 聴き覚えのある声だった。その名前のせい動揺し、視界が灰色になる。体を巡っている血が鉛に変わってしまって全身が重くなった。巡りが悪くなったと判断した心臓が、回復させようと、鼓動を強く打ち、加速させる。あのエルシーとは違う人物だと思いたいが、声は間違いなく彼女のものだ。聞き間違えるはずがない。

「面頬を外させろ」

 王の命令を聞いた僕は震える手で面頬を外すと、紛れもなくエルシーが現れた。彼女と視線がぶつかる。ひどく怯えた表情をしていた。王はまじまじと顔を見つめて、女とは珍しいと呟いたあと、

「アリクよ、この者の首を刎ねなさい」と言った。

 僕は王に対して首を横に曖昧に振った。両手の震えを隠すために腕を体に貼り付けた。エルシーの首を刎ねるなんて、そんなこと出来るはずがない。また運命に裏切られた。神は僕を見放したのだ。そのまま卒倒できればどれだけいいだろうか?

「出来ないのかね?」

 王は僕の態度に眉をひそめる。エルシーの方を見ると、彼女は腹を括ったようで、目を閉じて下を向いていた。残酷な現実を目の前に吐きそうになる。しかし、刻一刻と時は流れ、状況は変化するのだ。僕は選択しなければいけない。エルシーの首を刎ねるか、彼女を庇って逃げるか。前者を選択するなんてありえない。しかし、後者はリスクしかない。仮に捕まったとすれば僕の首まで刎ねられる。もし、逃げ伸びることができたとしても、家族が国賊扱いされて、牢屋の中で死を待つことになるだろう……。どちらの選択肢にも希望の光はない。

 空をオレンジ色に染め上げる太陽が広大な大地へと沈みかけていた。僕の影が長くなり、身体の半分を黒く染めた。剣を鞘から引き出すと、鏡面に磨き上げられた剣身が、運命に怯えて影に覆われている顔をゆらゆらと映した。僕はエルシーから見て左側にまわりこみ、剣を振り上げ首元に狙いをつけた。僕はいつでも自分の未来の為に生きてきた。たとえ愛する人を殺してでも……。

「エルシーよ、最後の言葉はあるか?」と王が最後の情けをかける。

「わっ、私は……」

 エルシーの言葉は上擦り、震えていた。

「そこに立つアリクと関係を持っていました。そして彼の子どもがお腹の中にいます」

 彼女の言葉が、僕の身体中に鞭を打ち、痙攣させる。ただでさえ速い心臓の鼓動がさらに加速し、呼吸が追いつかずに荒くなる。—まさか、それは嘘に決まっている—心の中で呪文のように繰り返し唱え続ける。

「アリクよ、本当か?」

 ほとんど影に覆われた王が僕を見た。

「……知りません。私は彼女を初めて見ました」

「嘘よ! 私を見て!」

 エルシーは涙を流しながら掠れた声で僕を呼びかける。僕は彼女を見ることができない。頭があまりに非情な現実を直視することを経験則的に拒否している。代わりに王を見た。王は何も言わずに僕の目をじっと見ている。

 緊張がある一線を超えたせいで、客観が意識を支配し、僕は目を閉じる。……何も恐れることはない。ただ、振り上げた剣を振り下ろすだけだ。何度も訓練してきた動きをするだけのことだ。覚悟を決めて目を見開くと、腕を振り下ろす。一瞬、視界の端でエルシーの唇が動き、何か言ったように見えたが、躊躇うことはなかった。剣はエルシーの首を落とした。彼女の胴から火山が噴火したように大量の血が吹き出し、血と匂いが身体にまとわりつく。彼女の首は地面に転がり、空を仰いだ。半開きになった瞳はどこも見ていなかった。王はその様子を見届けると、再び護衛に囲まれて、去っていった。現場のリーダーを失った敵たちは、まだ戦い続ける者もあったが、時間の問題だった。


 僕は彼女の首と身体を近くにある一本の木の下へ運んだ。僕は剣を取り出して、地面を掻き、穴を掘った。剣ではなかなか深く掘れないから、そのうち跪いて、両手で穴を掘り始める。やがて、全てを包み込む夜が訪れた頃、やっと人一人は入れることのできる穴を掘ることができた。エルシーの方へ向き直り、彼女から鎧を外した。すると、胸から向日葵の押し花がポロりと出てきた。それは僕がプレゼントしたものだった。僕はそれを強く握りしめると、留め具に気づかず、掌から血が流れた。エルシーが後からつけたものだ。これをブローチにして御守りとして身につけていたのだ。彼女が押し花の裏に留め具をつけているところを想像すると、僕は深い悲しみに囚われる。腹を見ると少し膨らみが出ていた。彼女は本当に孕っていた。僕はその腹に手を当てると、涙が溢れた。動くこともできずに、ただ、涙が止まらない。深い悲しみは人を絶望に押しやり、時として動けなくさせることがわかった。エルシーの死体を見るたびに、もう彼女が起き上がることも、秋波を送られることもない事実を突きつけられ、心が抉られる。彼女の腹の中の小さき命も僕の目の前で見ることは叶わないのだ。男の子か女の子かも分からず、どっちの顔に似ているのかもわからないまま途絶えてしまった。自分は本当に愚かな選択をしたのだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう? 僕はただ途方に暮れる。穴の中に静かに彼女の身体を横たえ、首の見開いた目を優しく閉じさせて、上から土を被せた。墓石の代わりに彼女の剣を突き刺し、目印になるように柄の部分にブローチをつけてやった。彼女の鎧もそこに置いて行こうとしたが、迷ったあげく、面頬だけ持って立ち去った。


 ……面頬からエルシーの血の匂いがする。

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