禁じられた聖杯

乱狂 麩羅怒(ランクル プラド)

プロローグ


—人間とは哲学的矛盾である— 


その部屋というものはやはり小ぢんまりしたもので、壁は……いや、なんだってこんなことを話し出したんでしょう?——その壁はありふれたもので、なにも変わったところなんてありませんでしたが、そうした過ぎ去ったことを想いだすと、なんとなく、気が滅入ってくるのです……おかしなものですね——辛かったくせに想い出になると、なんとなく楽しくなってしまうのですから。いやなことも、腹を立てたことも想い出のなかでは、そのいやなところがなんとなく洗い清められて、魅惑的な姿となって浮かんでくるのですから。


—『貧しき人々』より—


 §


 俺自身の記憶を辿って行くと、母さんが風呂場で泣いているところへ辿り着く。当時3才だった俺は、母の涙が衝撃的で、それに対して、自分は何もできず無力であることを悟った。母さんの泣き声を聴いたじいさんが駆けつけてきた辺りで記憶は途切れている。後で聞いた話だと、俺の名前を忘れたから泣いていたらしい。彼女はその日から丁度3ヶ月後に俺と妹を捨てて、憲兵と共に王都へ去った。


 俺は妹とじいさんと共に、村の外れの一軒家で暮らしている。そこはお世辞にも立派と言える代物ではなく、屋根に葺いている草の一部が腐り落ち、外壁はところどころ隙間があいていて、風が吹き付けると、飼い主に蹴り飛ばされた犬のようなうめき声を漏らしていた。

 俺の家の周りには、時折魔物が山から降りてくることがあった。それは村人からアンドロギュノスと呼ばれ、呪われた生き物として忌み嫌われていた。それは、顔が二つあり、片側は鷹のような鋭い目つきをしていて、もう片方は梟のような丸い目をしている。それぞれに嘴がついているが、羽はついていない。牛のような体躯でのそのそと歩き回り、時々、自分の産んだ子を食べていた。こいつは人間に危害を加えるような危険な魔物ではない。俺は時々そいつに餌をやって、体を撫でたりしていたが、アンドロギュノスが俺に心を開くようなことはなかった。


 妹は重い障がいを持っていた。家の隣にある納屋で、視点の定まらない澄んだ瞳をキョロキョロさせながら、飽きることもなく手を宙に伸ばし掴むような動作をしていたり、奇声を上げていた。彼女は村の牧師さんの言葉が無ければ、産婆に喉を絞められていたことだろう。

 俺は雑用やじいさんの作った野菜を村で売って日銭を稼ぎながら、村の子どもたちと一緒に遊ぶような普通の子どもだった。だけど、ある日を境にみんなから虐められるようになった。妹のせいだ。妹のせいで俺も知恵遅れ扱いされて、石を投げつけられたり殴られたりした。その時は妹を恨んだけど、彼女は障がいを抱えながらも立派に生きていると牧師さんが言っていたから、妹を責めなかった。しかし、怒りが収まるわけがなく、いじめてきた奴らに仕返しをした。俺はみんなと違って働いていて力がついていたから、力の強さに怖気付いて逃げ出した。その時は気分がよかったけど、今度はいじめた奴らの両親に怒られた。虐められたのは俺なのにどうして怒られるのか、わけがわからなかった。その時、俺は守ってくれる父さんと母さんがいないことを悟った。家に帰って「どうして父さんと母さんはいないんだ?」とじいさんに聞くと、父さんは行方不明で、母さんは妹を産んでからしばらくして王都に出て行ったと話した。母さんは王都にいることはわかっているけど、音信不通だから何をしているのかわからないらしい。どうしてそんなことになったんだと訊くと、じいさんは黙った。だから自分で考えた。どうして父さんも母さんも俺たちを置いて、去ってしまったのだろうか? 一生懸命考えたけど、答えは出なかった。



 背が大きくなって、大人たちに並ぶぐらいになった頃、牧師さんから学校へ通わないかと誘われた。俺はじいさんの畑仕事を手伝わないといけないし、妹の世話もあるから行けないと言った。何より貧乏だから学校に通えるようなお金の余裕はない。すると、牧師さんはこれからの世の中は勉強をしないと生きていけない、お金は払わなくていいから次の月から来なさいと無理やり約束させられた。彼は学校の運営に携わっていたし、村の中でも有力者だったから約束を無碍にはできない。学校のことをじいさんに相談すると、

「たくさん勉強して、人の役に立てるようになりなさい。何より勉強は金になる。家のことは心配するな」

 じいさんはそう言って俺の背中を皺だらけの手で叩いた。俺は勉強が生きるために必要なことという言葉ににピンとこなかったけど、じいさんや牧師さんがそれが大事だと言うなら、きっと大切なことなんだろうと思った。


 学校は知らないことを教えてくれたから楽しかった。いろんな先生が言葉や数字のことを教えてくれた。牧師さんも教師として神さまについて語っていた。そのことをじいさんに話すと、「神さまはいつもおまえのことを見ている。良い行いをすれば、必ず良いところへ導いてくれるはずだ」そう言って俺の頭を撫でた。俺は黙ってうんうん頷いた。だけど、神さまが俺たちをより良いところへ導いてくださるのなら、どうして俺は貧乏で両親のいない家庭へと導かれたのだろうか。お世辞にもこの環境が良いところだとはとても思えない。

 学校で友達らしい友達は1人もできなかった。ここでも妹の影が付き纏った。だけど、俺は気にしなかった。自分から避けている奴もいるだろうけど、親に言われて関わらないようにしている奴もいるかもしれない。年上や立場が上の人に逆らうことは難しいことだと、日銭稼ぎを経験したからわかっている。そして、俺は学校の成績は1番だ。だから、近寄りがたいものもあるのだ。だけど、俺自体はみんなとそんなに変わらないはずなのに。俺と他との子と何が違うのだろう……。


 ある日、森の近くで薪を集める雑用を頼まれた時だった。いつもの調子で拾っていると、森の少し分け入ったところから笑い声とともに話し声が聞こえてきた。気になったから様子を伺うと、1人の女子を3人の男子が取り囲んでいた。彼らに揶揄われている彼女は嫌そうにしていた。どうでもいいやと思って薪を拾おうとすると、不意にじいさんの言葉が頭によぎる。「人が困っていたら助けてあげなさい」べつにこの言葉を無視してもいいのに、そんなことを思い出してしまっては、助けないと後味が悪くなる。俺はわざと足音を大きく立てて集団へ向かった。すると1人の男が振り向いた。

「なんだお前か、アリクか。いつも思うけど、変な名前だよな」

 リーダーらしい男が言った。よく見ると、全員クラスメイトだった。俺は彼らの名前は知らないが、俺はあの妹の兄としてみんなから覚えられている。

「なんで近づいてきたんだよ? 妹は知恵遅れのくせに。お前も知恵遅れじゃないのか?」

 リーダーらしい男が俺の妹を馬鹿にしたことにカッとなり、いつもの手口でリーダーの喉を思い切り掴んでやると、周りの仲間たちは腰を抜かした。リーダーを殺すつもりだと思われてたらしいが、もちろんそのつもりはない。虐められていた頃も似たことをすると、周りの子どもたちは驚いて戦意を喪失するから同じ手を使ったのだ。しばらくしてリーダーを離すと、仲間たちを連れて逃げ出した。

「助けてくれてありがとう」

 女の子は俺に礼を言ってはにかんだ。彼女のありがとうは俺の体の内側をむずがゆくした。大人たちに言われた事はあっても、同世代の女の子に言われることなんて一度も無かったからだ。

「ここで何してたの?」

「小遣い稼ぎに薪を拾ってたんだ。貧乏だからね」

 俺の言葉に彼女は神妙な面持ちになる。

「妹さんは障がいを抱えているんでしょう?」

「うん」

「大変なのね。でも、あなたのようなお兄ちゃんがいれば、妹さんも幸せでしょうね」

 俺は彼女の言葉に驚いた。妹を出汁にして詰られてることはあっても、妹を気づかうような言葉が聞けるなんて思ってなかった。彼女の言葉は雫のように心に落ちて、波紋をつくる。

「そんなことないよ。でも、ありがとう」

 俺はなんか気恥ずかしくなって、素っ気なく立ち去ってしまった。この気持ちはなんだろう?


 あの日を境に女の子は俺に挨拶をしてくれるようになった。今までクラスメイトに全く興味がなかったけど、彼女には関心を抱くようになった。彼女はユリと言い、村の有力者の娘だからみんなから慕われている。愛想が良く、真面目だった。俺は相変わらずみんなから異端扱いされていたが、彼女だけはそうしなかった。それでも、俺とじいさんは妹のせいで村人から避けられているから、こんなところを見られては彼女にも迷惑がかかると思い、二言三言話して素っ気なく立ち去ったりすることが多かった。その時に気づいたんだけど、もっと彼女と一緒にいたいと思った。

 数日経って、学校を休んでいたリーダーが、喉に大袈裟な包帯を巻いて学校へ登校してきた。リーダーは怪我の原因が俺だと教師に話し、問題になった。俺は絡まれて嫌がっているユリを守るために首を絞めるようなマネをしたのであって、怪我をするような力など入れていない。俺が先生に怒られる状況を作り出すために、わざとそうしているんだと弁明したけど、先生は聞く耳を持たずに頭ごなしに怒鳴りつける。ユリも俺の肩を持ってくれたけど、信用してくれなかった。

 結局、罰として1週間の自宅謹慎の受けることになった。つまらないことをするものだ。気に食わなかったら仕返しにこればいいのに、どうして回りくどいやり方をするのか? 納得がいかずに、怒りさえおぼえるが、牧師さんの言葉で、心を抑え込むしかなかった。


—君がユリを守るために暴力を振るったのは知っている。彼女からそう聞いたよ。だけど、暴力で問題は解決できない。暴力は別の問題を産むんだ—


 自宅謹慎は退屈で、ベッドに寝転がって窓の外を眺める他にすることはない。窓から見える空はいろんな形をした雲が流れていて、それに様々なものを重ねていた。あの丸いのは馬車の車輪だ。四角い雲は王冠で、あの横顔っぽいのは王様かな? いや、それにしては細すぎる。ユリの横顔の輪郭があれぐらいだ。肌も透き通った雲のような白さをしている。……あの雲のようにユリの肌も柔らかいのかな?

 そんなとりとめもない事を考えていると、窓から不意にユリの顔がぬっと現れた。俺は不意打ちをくらったから、飛び上がるぐらいに驚いた。彼女が窓をノックしたので鍵を外した。

「驚いたな、俺の家の場所、知ってたんだ」

「先生に聞いたんだ。ちゃんと謹慎してるかなと思って見にきたの」

 彼女は視線を振りまわし、興味津々に俺の部屋を眺める。彼女は俺のことを気遣ってくれて家まで訪ねて来たのだった。俺はユリを部屋に招き入れると、彼女は学校であったことを話し始めた。彼女は話し始めると止まらなかった。俺はその姿を見て驚いた。まさかこんなに明るく喋るなんて、普段の彼女からは想像もできなかったからだ。彼女の意外な一面を知れて嬉しかった。

 ユリは次の日もやってきた。今度は自分の家の話だ。彼女には兄が2人、妹が1人いる真ん中の子で、兄妹と毎日ふざけ合っている。時々喧嘩もするけど、仲は良いらしい。父は子供たちに勉強しろと口うるさく言うからユリはうんざりしているらしい。母はユリが学校に通い始めたぐらいに病気で亡くなったそうだ。その時は深い悲しみに暮れていたけど、死の間際に「強く有りなさい。自分を持ち続けなさい」とユリの手を握って語り続けたことを思い出して、その言葉を糧に前を向くようしていると微笑む。

 ユリは矢継ぎ早に話し続けるから、俺も話をする。家族のこと、両親がいないこと、働いていたときに目撃した大人たちのおもしろおかしい失態を、おもしろおかしく話した。それを彼女は楽しそうに聞いていたから、俺も調子にのって、さらに話をつづける。謹慎中はそんな日々が続いて楽しかった。


 謹慎の最終日はつい話し込んで、日が落ちてしまった。俺は彼女を家まで送っていくために、謹慎を破って外に出た。帰り道に彼女と2人で会えなくなるのが、急に名残惜しくなり、つい黙り込んでしまう。なんでもいいから理由をつけて、彼女と長く居たいと思った。でも、どうすればいいんだろう? とりあえず何かないか? 俺は考えすぎるあまり、うーんと顎を上げた。星が見えた。これだ。

「星を見に行こう」

「星ならここから見れるよ?」

「ここより倍も観れるところ、俺知ってるんだよ。この辺には詳しいから」

 そういってユリの手を引っ張ると、彼女も優しく握り返した。

 帰り道の反対方向に防風林があり、そこを5分くらい歩くと、海に出る。ユリは目の前に広がる光景に息をのむ。

 水平線が現と夢の境界線のように空と海を分けて、海面は星空と同じ数の月と星が映り、波に揺られていた。夜なのに昼間のようなエメラルドブルーに輝いているのは、月と星がうちに秘めた感情を青い炎で燃やしているからだろう。ユリは僕を見て、すごい光景だと、目で訴えかけてきた。俺もユリの表情を見て満足する。彼女は靴を脱いだ。その足は白い陶器のようにほっそりとして白く、ふくらはぎが滑らかなカーブを描いている。彼女は浜辺に足跡を残しながら、やがて海に浸った。

「冷たい」

 そう言ってユリは笑った。俺も靴を脱いで海へ走る。色黒でゴツゴツの太い足でも彼女と同じように足跡を残す。思い切り飛び込んでみると、水面の星が飛び散ってユリにかかった。彼女も俺に仕返しをするために、思い切り水を浴びせる。

「お兄ちゃんが2人いるのよ。力で負けないよ」

 ユリは負けず嫌いで、気の強そうな瞳を僕に浴びせて、不敵に微笑む。

 しばらくして遊び疲れた二人は、浜辺にごろりと横になる。ユリの方を向くと、彼女もこちらを向いていた。

 甘く、長い沈黙が訪れる。

 やがて俺は彼女に顔を近づける。キスは拒まれることなく行われる。それは遊び半分で半分本気だった。その距離感は、ユリが俺を受け入れてくれる証明だ。世界でたったひとり、俺のことを受け入れてくれる、唯一の存在だ。俺は彼女に手を伸ばした。



 俺の背が大人たちを追い越した頃、牧師さんから王立第一学校への進学を勧められた。そこは国家の人材を育成する全寮制の学校で、それぞれ、騎士課程、聖職者課程、呪術士課程があり、そこで実戦と座学を積んで、王都に役立つ人材を育成する場所らしい。さらに、そこの成績優秀者は特別試験の受験資格が与えられて、そこに合格すると、面接も試験も無しで、王都に登用されるらしい。

「でも、学校に通うお金がありません」

「大丈夫だよ。君は村で一番の成績を残しているから僕から推薦すれば、学費を払わずとも学校に通うことができる」

「でも、家の収入はじいさんの稼ぎだけになるから難しいです」

「確かにそうなるけど、長い目で見れば、第一学校に行くべきなんだ。そこでいい成績を収めれば王都に登用されてまとまった収入が入るようになる。この村で働くよりももっと大きな額だ。君が稼ぐようになれば、君のおじいさんも妹さんにも楽をさせてあげられるよ」

 俺は牧師さんの言葉に心を揺さぶられる。彼は事あるごとに立身出世のことを語っていた。適切な努力と行動を採り、人から慕われるようになることこそが正しいことだと。その言葉は、彼が貧しい家庭に生まれ育ちながらも、両親のお陰で学校に通わせてもらい、こうして名誉ある立場につけた経験が裏付けていた。同級生の何人かは綺麗事だなんて吐き捨てているけど、俺は牧師さんのおかげで学校に通えているし、家が貧乏だから、その言葉を信じていた。それに、俺の成績が一番なのは、その言葉のおかげで努力を続けることができるからだ。だけど、これは俺の将来を左右する話だし、俺がそこで成績優秀者になって特別試験を受けられる保証も、王都に登用される保証もないのだ。ともかく俺一人では決めきれないからじいさんと相談すると言って話を持ち帰った。じいさんにそのことを話すと、「国のために勉強して働きなさい」と一言だけだった。つまり王立第一学校へ行けということだ。家の心配はするなとじいさんは背中で語っていた。俺は嬉しかった。じいさんが自分の将来の為に頑張ってこいと言っているのだ。絶対に王都に雇われて、お金を沢山稼げるようになろうと思った。


 王立第一学校へ進学すると牧師さんに話すと、牧師さんもそこの学校の出身らしく喜んでいた。いわば後輩ができたのから嬉しいのだ。その感覚はよくわからないけど、大人になればわかるようになるだろう。俺は牧師さんに騎士過程に進学したいと伝えた。体は丈夫な方だし、俺の性分にもあっていると話すと、牧師さんは僕の肩を叩いて、そのほうがいい、君ならそこでやって行けると言ってくれた。

 第一学校に進学することをユリに話すと彼女も同じ学校に行くらしい。彼女もまた成績が優秀で、彼女の家柄は代々呪術師を輩出しているので、ユリにも同じ運命が課されていた。

「同じ学校なんだね」

「うん。また一緒になれる」

 そういうと、ユリは照れたから、僕も照れてしまった。


 いつのまにか学校の卒業式を迎えていた。卒業式は特に感動するわけでもない。俺にとってそこはただ勉強して一番の成績を取るための場所だった。周りの連中のように友達と青春を謳歌するようなことは俺にはなかった。いや、ユリが居たからそうでもないのかも。友達のいる連中がいろいろ思い出を語り合っているところを見るとちょっと羨ましかった。友達が多くいれば、俺ももう少し違った人間になっていたかもしれない。

 それからまたカレンダーがめくられて、俺とユリの王立第一学校への引っ越しの日が訪れた。村から沢山の人が出てきて、俺たちを見送ろうとしていた。王立第一学校へ進学するのは俺たちだけで、特にユリは村の注目の的になっていた。俺といえば、腫れ物に触るような扱いをされている。そんなことにはもう慣れているので、俺は黙々と自分の荷物を荷車に放り込んで、ユリが持ってきた荷物もくくりつけていると、牧師さんが俺の方に近づいて話しかけてきた。

「俯いてばかりじゃダメだよ」

「俯いてないよ」

 俺は牧師さんには目もくれずにユリの荷物を荷台に次々と乗せてゆく。

「いいや、俯いているね。君は村の住民にあうと伏し目がちになるんだ。学校でもそうだった」

 そう言われてハッとする。そういえば、俯いている自覚はなくても、学校の記憶といえば床ばかりが思い出される。

「君は堂々としていていいんだよ。周りを気にすることはない。自分で自分のことを誇ればいい」

 牧師さんは俺の背中を叩く。自分が堂々としていいなんて今まで言われたこともなく、ましてや考えもしなかったから戸惑った。でも、彼がそう言うのなら、そうしてもいいのだろう。少しだけ背筋を伸ばす。

 見送りの住民から少し離れたところに、じいさんと妹がいた。彼らのもとへ歩み寄ると、じいさんは何も言わずに手を払った。あっちに行けと。いつもそんな感じだ。照れ臭いのだろう。じいさんに笑いかけて、妹には別れの挨拶に優しく抱きしめた。

 さて、出発の時間だ。荷車を持つとユリも後ろに軽やかに座った。彼女は眩しそうに空を見上げた。馬に荷物を引かせて行こうかと考えたが、そもそも俺の家に馬がいないし、帰りに馬を帰せる人が誰もいない。

 前を見ると、王都へと続く道が目の前へと続いている。それはどんな道かは初めて行くからわからない。だけど、道のりが書かれた地図は持っているし、ある程度の方角は検討がついている。


 でも、書かれたことと、実際に目の前に広がっている景色が違っていることはよくあることだ。

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