第21話 そして恋を知る

 メイド達に身なりを整えてもらったイーディスは、廊下で待つオズワルドと共に会場へと戻った。


 イーディスが不在であったのは一時間にも満たない時間だったようで、騒ぎになるほどのものではなかった。事が起きたのが会場から離れた場所であったのも気付かれなかった要因かもしれない。


 主役であるオズワルドが一時的に消えてしまったのは問題があるが、そこは側近のアレンとルーカスが上手くやり過ごしてくれたらしい。こちらも騒ぎにならなかった。


 なんやかんやあったが、『王太子殿下の成人祝い』は、大盛況のまま幕を閉じた。最後まで役目を全うする事ができたイーディスは、心底安堵した。


 そんなこんなで宴から二日後。イーディスは、オズワルドの執務室へと呼び出されていた。


 宴の翌日──昨日は、元々休みを取っていたので会うのは二日ぶり。昨日はオズワルドから好きだと告白された事に、一日中頭を悩ませる羽目になった。


──正直、どんな顔をして会えばいいのか分からない……。


 悩み過ぎて答えの出ない頭は、もはやパンクして使い物にならない。そんな状態のまま、執務室の扉をノックする。


「イーディスです……」

「入っていいぞ」


 返ってきたのはオズワルド本人の声であった。イーディスはドキリと跳ね上がる心臓に気付かないフリをして、執務室の扉をくぐった。


「イディ、すまない。この書類を書き上げてしまうから座って待っててくれ」

「あ、はい…」


 覚悟を決めて入室したのだが、肝心のオズワルドは政務中であった。ちらりとこちらを見たが、すぐに書面へと視線を落とす。


 拍子抜けしながら、言われた通りソファに座って待つことにした。オズワルドが言わずとも、使用人が紅茶とお菓子を並べてくれる。


──そういえば、政務中のオズワルド殿下を見る機会って珍しいかも。


 オズワルドがイーディスの元へ来ることはあっても、その逆はない。一財務官が王太子の執務室に行くことなどまずないからだ。


 物珍しさからついオズワルドを観察する。


 漆黒の夜闇のようでありながら、美しい光沢を放つ艶やかな黒髪。書類へ目を落としているので伏し目がちだが、凛々しい瞳は海の底のような落ち着いた青色だ。羽ペンを握る大きな手は、しなやかで長い。


 やはりご令嬢達が騒ぎ立てるだけはある。端整な顔立ちに鍛え上げられた体。間違いなく男前だ。


 そこまで考えてハッとする。自分は何て事を考えているのだろうか。慌てて視線をお茶菓子へと向けた。


──そういえば、あの時……真っ先に思い浮かんだのはオズワルド殿下の顔だったなぁ。


 アロイスに襲われて絶体絶命のあの時、心の中で助けを請うたのは頼れる父でも優しい兄でもなく、オズワルドであった。それがなぜなのかはイーディス自身、まだ理解していない。


 自分自身の行動を不思議に感じながら、出されたお菓子へと手を伸ばす。バターたっぷりのフィナンシェは、しっとりしていて見るからに美味しそうだ。それを一口頬張りながら室内を見回すと、ふとある事が気になった。


──あれ…? お兄様とルーカス様がいない。


 側近二人がいないのは珍しい。護衛も兼ねている二人がオズワルドから離れるとは、よほどの事があったのだろうか。


 二人きりの室内には、オズワルドが羽ペンを走らせる音と書類をめくる音が響く。不思議なことに、二人きりだというのに嫌な感じはしなかった。


──アロイスと二人きりになった時は、最初から嫌な感じがしたのに。


 あの時は逃げなければとしか思わなかった。しかし、今こうしていても、オズワルドにはそんな嫌悪感を感じない。幼少時から付き合いがあるからだろうか。


 つらつらとそんな事を考えながら、甘くなった口内を紅茶の程よい渋みで満たす。カップを置き、今度は香ばしい匂いのするクッキーへと手を伸ばした。


──あ、これも美味しい。


 この時、オズワルドが笑いを堪えていることにイーディスは気付かなかった。


 明らかに緊張して入室してきた時とは打って変わり、今は幸せそうにお菓子を頬張っている。その姿はまるで小動物のようだ。可愛いやら面白いやらで、笑いがこみ上げてくる。


 イーディスが二つ目のフィナンシェを食べ終えた頃、オズワルドがペンを置いた。


「お疲れ様です。紅茶を準備してもらいますね」

「いや、大丈夫だ」


 立ち上がろうとしたイーディスを制し、オズワルドはその隣へと腰を下ろした。


「イディ、ゆっくり休めたか?」

「あ、はい。おかげさまで」


 社交辞令のような会話にイーディスは内心首を傾げた。忙しいオズワルドがこのようなことで呼び出すはずがない。そこですぐにオズワルドが言いたいであろう事を察した。


「えっと……例の件の事情聴取でしょうか? この後、軍部へ向かえばいいですか?」


 一応被害者として聞き取りをされるのだろう。オズワルドは気を遣って言い出しにくかったに違いない。


 だが、なぜかオズワルドは眉間に皺を寄せた。くっきりと。


「その件はいい。あいつは侯爵令嬢を襲った罪で廃嫡が決まった。父親のバーンズ伯爵も宴に侵入者を手引きした件で捜査を受けている」

「バーンズ伯爵も?」

「ああ。親子で結託していたわけではないようだが、バーンズ伯爵は俺の政策に異を唱え続けてたからな」


 反王太子派──イーディスも少しは知っている。まさか宴を台無しにしようとしていたなど思いもしなかった。


「イディ」


 名を呼ばれたイーディスは、顔を上げた。そこには真剣な表情のオズワルドがこちらを真っ直ぐに見ていた。


「俺が公にイディを傍へ置いたことで、今後お前が狙われる可能性が出てきた」

「………はい」


 反王太子派はバーンズ伯爵だけではない。自分の娘を王太子妃へ据えたい者だっている。今回のような貞操の危機だけではなく、命を狙われる可能性だってあるのだ。


「イディの気持ちも聞かず、大勢の前で婚約者扱いした事は悪いと思っている」

「悪いという自覚はあったんですね」

「アレンと同じ事を言うな…」

「兄妹ですから」


 ついツッコミを入れてしまったイーディスだが、オズワルドからいつになく真剣な雰囲気を感じ取り口を噤んだ。


「ああでもしなきゃイディは意識すらしてくれないだろう?」

「意識? 何の事ですか?」


 ふざけるのではなく本気で分かっていない様子のイーディスに、オズワルドはがっくりと肩を落とした。あそこまで言葉にしたのにまた振り出しに戻ってしまった気がする。


 しかし、すぐに気を取り直す。ここでハッキリしておかないと、進展は見込めない。


「俺がお前を好きだということだ。出来ることならイディにも俺を好きになってもらいたい」

「…………へ?」


 オズワルドのあまりにも直球な言葉は、一度イーディスの脳内を通り抜けていく。一周回ってようやくその意味を理解する頃には、イーディスの顔は真っ赤になっていた。


「その反応……少しは期待してもいいという事か?」

「はぇっ……!」


 オズワルドの柔らかな微笑みに余計動揺する。いつも人をからかってばかりのオズワルドが、まるで大切なものを見るかのように優しい目を向けてくるのだ。


「イディ、お前の気持ちが知りたい」

「わ、わ…私は……」


 オズワルドの青い目に見据えられ、上手く言葉が出てこない。口を動かしても言葉が喉に張り付いたように何も出てこない。


 オズワルドの事は嫌いではない。兄のアレンやルーカスと共に遊んでもらった記憶は、幼い時の大切な思い出だ。しかし、男性──異性として見た事があるかと言われればそうではなかった。


──でも、オズワルド殿下は嫌じゃなかった……。


 アロイスに迫られた時は、涙が出るほどの嫌悪感を感じた。『嫌なら殴っていい』、そう言われて首筋に触れた熱く乾いた唇の感触。そして感じたほんの少しの痛み。驚きはしたがそれを嫌だとは思わなかった。


 あの違いは何だったのだろう。イーディスは、自分自身に問いかけるように思案した。


「俺の事は嫌いか?」


 オズワルドの切なげな声色にイーディスはハッとした。悲しそうな表情に慌てて首を横に振る。


「でも…わ、私は……恋とか……まだよく分からなくて…」 

「知ってる。イディの鈍さは筋金入りだからな」


 イーディスの独白するような答えに、オズワルドは苦笑しながら即答した。鈍いと言われ少しムッとするも、再度真剣になったオズワルドの表情に口を噤んだ。


「イディ、俺がお前を守る。お前の初めての恋の相手は俺であってほしい。どうか俺の婚約者になってはくれないか…?」


 無理強いをするのではない優しい声色。オズワルドは、あくまでもイーディスの意思を尊重してくれる。


──王太子が望めばマクレガー侯爵家我が家は断れないのに。


 それだけで政略結婚ではなく、一人の女性として望まれているのだと分かった。


 恋など分からない。仕事の方がずっと大事だ。でも、何だか胸の辺りが温かくてくすぐったい気持ちになる。オズワルドから好きだと言われるとむずむずして気恥ずかしい。


 オズワルドを見上げれば、いつも自信に満ち溢れた顔が、今はどこか緊張しているように見えた。きっとイーディスの答えを待っているのだろう。


──この人となら恋を知ることが出来る…かもしれない。

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