光秀の謎

 朽木谷と言えば光秀が来たエピソードがあったはず。


「国盗り物語やな」

「あれも道三編はおもしろかったけど」


 やっぱりあれもフィクションとか、


「あれは可能性を膨らませただけや」

「無いとは言い切れないよ」


 光秀が朽木谷を訪れたのは義輝の時、


「司馬遼太郎も義輝に会わせんかったんはさすがや」

「いくら落魄しても将軍だものね」


 身分差は朽木谷に来ても絶対なのか。


「なおさらのとこはあったと思うで」

「それぐらいしないと権威を保てないじゃない」


 だから義輝ではなく細川藤孝に会わせたとか。


「あれなかなかの発想だよね」

「コトリも信じ込みそうになったぐらいや」


 光秀と藤孝の交流は深いのは事実だそうで、その始まりが朽木谷での偶然の出会いとするのは秀逸だとコトリさんもしてるぐらい。


「だってやで、完全なフィクションとも言い切れへんやんか。そういうところを膨らませるのが歴史小説やと思うで」

「でも現実的にどうだったのだろう」


 戦国武将の多くは官職名の名乗りを持ってるのは知ってる。粟屋備中守とかもそうだよね、


「織田上総介も初めはそうやったはずや」


 だけどこれは自称であってニックネームみたいなものだって。だけど細川藤孝のものは朝廷からの正式のもので、


「従五位下兵部大輔いうたら堂々の官職や」

「無位無官の浪人の光秀なら土下座して直答も出来ないよ」


 そうのはずだけど朽木に落去中の設定が絶妙だそうで、


「御殿の中で畏まってばっかりおられへんから出歩いてもおかしないし」

「歩いてる時に里人に声をかけたって不自然じゃないもの」


 それでも光秀と藤孝が合うにはハードルがあったとか。やっぱり身分差?


「それは大前提やけど、余所者やからや」

「それで武士でしょ。暗殺者って疑われてしまうのがこの時代のデフォよ」


 言われてみれば。義輝もそれを恐れて朽木に逃げ込んでうものね。じゃあ、会う機会はやはりなかった。


「いや、それでもあるねん。光秀みたいに諸国を放浪しているような連中は、藤孝が欲しくてたまらんもんを持ってるねん」


 そんなものあったっけ、


「情報よ。とにかく情報伝達がプアな時代じゃない。だから、諸国の情勢をなんとか知りたいのよ。そういう話を聞かせてくれると言うだけで、食事を振舞ってくれたり、泊めてくれたりもあったのよ」


 だから光秀と藤孝が実は会っていたは完全に否定できないところがあるのか。その光秀だけど、


「謎が多すぎる人物や。出自さえわからんぐらいや」

「信長に仕える前にどうしていたかがサッパリわからない人物なのよ」


 えっと、えっと、美濃の明智家の御曹司で、道三崩れの時に・・・


「それが通説や。その証拠に明智を名乗っとるし、後の明智軍団には明智の一族も参加してるやんか」


 だったら、


「通説に沿ってもかまへんねんけど、道三崩れが一五五六年や。次の足取りが一五六六年の田中城の米田文書や。そいでもって信長の上洛が一五六八年や」


 米田文書まで十年。信長の上洛まで十二年なのか。ここが光秀の空白期間みたいなものみたいになってるとか。


「それもやで、タダの空白期間やあらへん。光秀の特技の一つは教養やけど、京都の貴顕紳士のウルサ型を感心させたのはホンマやと思う」


 光秀が最初に頭角を現したのはそこのはずで、信長もその特技を買って召し抱えた話はどこかにあったはずだもの。


「そんなもん、どうやって身に着けたかや。田舎の豪族の付け焼刃とはちゃうで」


 それが空白の十年になるとか。そう言えば米田文書では医学も身に着けていた事になるとか。通説では越前にいたとなっていたはず。えっと売れない兵法指南だったけ、


「それは国盗り物語やけど越前にはいたとは思う。そやけど、タダいたんやない。そこであの教養を身に着け、さらに諸国を回ってるはずや。それが見聞の広さになってるはずやねん」


 越前にいてそれが可能かどうかは・・・わからないから謎だよね。


「司馬遼太郎は道三の薫陶としとったな」

「それもアリだけど」


 道三にどれほどの教養があったかも不確かなところもあるそう。というか道三も今では二代説まであって正体不明の人物のところもあるみたい。それとたとえ教養があったとしても、道三にそれを教えるヒマがあったかどうかが疑問だとか。


「あんまり注目されとらへんが、一次資料としてエエぐらいのもんがあるねん」


 遊行三十一祖 京畿御修行記って聞いたこともないけど、


「遊行言うたら時宗やんか。時宗の三十一代目の教祖が畿内に遊行した時の記録や」


 そんなものがあるとは驚いた。これは昭和になってからある時宗の寺院から発見されたものだとか、


「内容は当時の他の記録と照らし合わせても矛盾がないそうや。そやから一次資料に値すると考えとる」


 そこに光秀が出て来るらしく該当箇所は、


『惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申』


 越前の称念寺に十年も居たとなっていて、これはちょうど光秀の空白期間に重なるんだって。


「ちょい捕捉しとくが、教祖は京都で天皇に会って、それから奈良に遊行する予定やってん。奈良に行くから筒井順慶に紹介状みたいなもんを光秀に書いてもらいに使者が行くねんよ」


 教祖の使者に会った光秀は懐かしがって、坂本城に引き留めて昔話に花を咲かせたぐらいの内容だって。こんな決定的な資料があったなんて、


「時宗と言うのがエエねんよ」


 時宗は遊行を基本にする宗派で、教祖さえ例外でないから、ああいう記録が残されているらしい。時宗僧の遊行は幕府も公認となっていて、さらに全国の時宗寺院を宿泊先に使えるとなると、


「光秀の諸国巡りを説明できる」


 それと称念寺は時宗の北陸の一大拠点で、


「文化の中心みたいなもんで、今やったら大学と思うたらエエで」


 光秀のずば抜けた教養も説明出来てしまえるとか。義昭との関係は、


「同朋衆に時宗僧が選ばれることも多いのよ」

「時宗僧やったら使者に適任やんか」


 同朋衆って何かと聞いたら、将軍の側近の話し相手、遊び相手ぐらいだって。そっか、そっか、義昭の使者として信長と会ってるうちに才能を見込まれて引き抜かれたとか、


「そんな感じやと思うてる。細川藤孝とのつながりも、その頃からとちゃうか」


 辻褄は合ってるかも。これだけの資料があるのに、


「通説って重いのよ」

「一度流布して固まるとなかなか変わらへんねん。たとえば桶狭間や」


 あれって谷間で勝利に浮かれて酒宴を始めた義元を梁田政綱が見つけ、そこに信長が奇襲をかけて討ち取ったはずでしょ、


「やっぱりそうなってるよね。あれってね、江戸初期に活躍した小瀬甫庵の創作なのよ」

「甫庵は今でいうたら司馬遼太郎みたいな人気流行作家で、その後に歴史を書いた連中は甫庵の小説が事実やと信じ込んでもてんよ」


 では桶狭間の真実は、


「長うなるからさすがにここで出来へん」


 今日もノンビリだな、もうお昼だよ。

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