第11話 海蘭の正体

 泉北郡王。

 二人の皇后に育てられた男。

 前の皇后の息子の太子と育ち、今の皇后の息子と最も親しい。


 俺はあることに気が付いて、背筋に冷や汗をかいた。


 かつて戦前の日本には「姦通罪」というものがあった。


 これは姦通した女性と相手の男性を罰するというものだ。夫が姦通、すなわち浮気をしても、姦通した男性ととその相手の女性は罰しないので、不平等極まりない。それゆえ、現代日本の刑法にはない。


 しかし、平安時代にも天皇には「女御更衣あまた」いるにも関わらず、皇太后の藤原高子(ふじわらのたかいこ)が男と親しくしたとして、皇太后の位から引き摺り下ろされている。

 当時、夫の清和天皇はすでに亡くなっていたんだぞ。未亡人が男をくわえこもうが、いいじゃないか。


 おそらくそこには、その当時の宇多天皇勢力と、高子の息子の陽成上皇勢力との間に、宇多天皇の次代を、陽成上皇の子や高子の生んだ陽成上皇の弟にするか、宇多天皇の子にするのかの争いがあったのではないだろうかと今の俺は思う。


 陽成上皇側の敗北の象徴が、高子の廃后だと思うわけだ。結局、宇多天皇は早々に譲位し、のちに出家して、初めての「法皇」になる。宇多天皇の次に即位するのは、息子の醍醐天皇だ。


 ここは、現代日本よりも、平安時代に近いのではないだろうか。


 兄弟の間で後継者争いがあるならば、太子に対抗できるのは、皇后が生んだ息子以外にはいまい。つまり、周王だ。


 その周王は俺のところに夜這いした。


 郡王が土壇場で太子を選んだ場合、俺は周王と一緒に姦通罪に問われる可能性があるんじゃないのか。


 俺はゾッとして、去っていく紫薇の後ろ姿を追いかけたかったが、俺の背中にはその郡王の温かい手が当てられている。


 最悪の場合、この温かい手によって、俺は死ぬことになる。


 趙小瑶が見ている夢が原田正人なのか。

 原田正人が見ている夢が趙小瑶なのか。


 俺はどっちも同じだと考えるので、趙小瑶の死は原田正人の死そのものだ。


 俺の目的は「安寧に暮らしたい」だ。

 だが、大きな目標は「生き残ること」に変わった。


 処刑なんて痛そうなことは嫌だからね。


 銀行のトラブルシューティングならば、情報の適切な開示を行うことが先決だ。そのためには、情報を全て正確に把握する人間が指揮をとる必要がある。


 ならば、ここではどうすればいいのか。


 俺が生き残るためには、俺が情報を全て正確に把握する必要がある。


 俺は隣に立っている郡王を見上げた。やはり、美男子であることは変わらない。

 だが、ガキだ。

 俺の命は俺が握るぞ。


 郡王は俺の視線に気づいて、俺を見た。


 俺はね、怠惰だから、安寧に暮らしたいんだよ。わかっておくれ、郡王くん。


 紫薇の姿が視界から消えて、泉北郡王が言った。


「数日前から体調を崩されていた父皇がとうとう起き上がれなくなられた」


 嘘だろう。

 代替わりが早まる可能性があるのだろうか。


「南都に療養に来ておらるのだと聞いた」

「その通り。帝都の冬は寒いゆえに、王太医が南部での療養を勧められ、南都が選ばれた。太后も皇后もこの南都にお越しになった」


 こういうことだろうか。


 家族企業の社長が療養に来ていた別荘で倒れたが、まだ名誉会長の母親が健在の家庭だ。前妻の息子と後妻の息子が共に取締役だ。前妻の息子が一応後継者と指名されているが、家庭内には後ろ盾がいない。


「夫人はさすがに、四十だけあるな。勘が良い。この場合どうする?」


 は?俺に相談しているのか。そりゃそうか。まだ二十だもんな。


「太子殿下には連絡したのかい?」

「本王の名前で早馬を出した」


 太子はどうするだろうか。


「太子殿下は、帝都を握るんだろう?何か支障があるのかな」


 郡王は頷いて答えた。


「趙府の女主人がこの南都の太后宮にいる。同様に、多くの高官の夫人はこの南都にいる」


 あ。江戸時代の参勤交代を思い出した。

 大名の妻子は人質だ。

 趙尚書から見れば、泉北郡王夫人の趙小瑶のみならず、後妻も南都に人質になっている。


 そしてもう一人、皇子がこの南都にいる。


 ふと思って、俺は背伸びをして郡王の耳元に口を寄せて言った。


「玉璽は帝都かい?」

「南都にある」

「……周王殿下が南都にいるんだろ?」


 どんな反応をするのかと危惧したが、美男子は顔色一つ変えずに、そっと答えた。


「その通り。夜はこの郡王府で過ごす。いくらこの帝都ではなくても、南都でも皇帝の後宮に成人した皇子が長居してはならぬ。ゆえに、ここの南殿で過ごす」

 そしてため息交じりに続けた。

「海蘭が夫人の落馬事件を太子殿下に連絡して、周王がすっ飛んできた。父皇は帝都にいないことを口では咎めたがな。療養中の父皇に、母后、祖母の后もいる上に、昏睡した夫人を抱えた八兄の負担を共に担ぐためだ、父皇にも母后にもおばあさまにも会いたくてたまらず、と言ったので、なんと孝行なと太后娘娘に褒められた」


 まずいぞ、何をどこまで知っているのかすりあわせねば、と思っていると、こんなことを言ったのだ。


「……そっと周囲を見てご覧。海蘭がいないから」


 ゆっくりと北殿の中の方に体の向きを変えたのだが、確かにさっきまで紫薇を見送ろうと控えていた海蘭がいない。


 そのまま二人で北殿の俺の部屋に入るのだが、人払いをした。


 思い出した。


 周王は、海蘭が俺の落馬事件を帝都の太子殿下に伝えたと言った。

 さっき郡王も、同じことを言った。


 つまり、海蘭は、帝都の太子に連絡する手段を持っているのだ。


「海蘭が、陛下の不調を帝都に伝えると?」

「そうだ。どちらも、本王が起点になるが、二つの方向から聞けば、お信じになるだろう」

「……海蘭は?あの小娘は何者なんだ?」

「太子殿下の手の者」

「小娘だぞ」


 泉北郡王は答えた。


「あれの兄貴は太子殿下の近侍だ」


 人を使うのは難しい。


 簡単に銀行内部の学閥で例えよう。うちの銀行に関して言えば、東大出は少ない。ただ、「旧帝大」に変えると、人数が一気に変わる。打てば響くところがあり、一緒にいて居心地もいい。なので「旧帝大閥」と言い換えられる。


 その部下や後輩としてつくのが最大の人数を誇る、「地元の国立大閥」だ。


 旧帝大出の上司、先輩が右を向くとき、地元大出の連中も右を向いているとは限らない。さらに別の次元の「高校閥」という学閥レイヤーがある。


 海蘭は趙小瑶に仕えるが、趙小瑶が向く方向を向くとは限らない。それは、別のレイヤーがあるからだ。それが「きょうだい」。


「太子殿下の手の者が、夫人の側をうろつくのにそれをほったらかすのかい?」

「何か問題でも?」

「そもそも、太子殿下と泉北郡王殿下が趙小瑶をめぐって争ったと聞いたぞ。そのラ……」


 危うく、ライバルといいかけて通じそうにないなと言い直した。


「グフ、そのだな、夫人を巡って争った相手の手の者が、夫人の側をうろつくんだぞ?」

「それゆえ、父皇が南都に来られてからは、本王がこの部屋で休んだことはない。だが今回のように使えることもある」


 ちょうどそのとき、扉を叩く音がして、郡王が答えた。


「なんだ」

「殿下、お夕食はどちらでとられますか」


 木蓮の声だ。


 郡王は俺を見た。どうするかい?と聞いているのか。

 俺はにっこりと笑って答えた。


「殿下と二人きりでお話しできるなら、どこでも」


 郡王は俺を見ながら答えた。


「南殿で。夫人と共に」


 北殿に仕える人間によっぽど警戒しているらしい。

 俺の部屋を出るときに見渡すと、慌てて来たのか、扉の外で海蘭の肩が上下していた。

 海蘭は俺の後に従って南殿へと向かうのだが、郡王が手を振って合図をして、北殿に仕える者たちはついて来なかった。

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