第2話 ちょうしょうよう、って誰だよ?

 医者が立ち去ると、残ったのは、はげちょろけちゃんだ。


「いろいろ、教えてもらわないといけなさそうなんだ。教えてくれないかい」


 さっきまでの豊かな表情とは一変して硬い顔をしている。

 そりゃそうだ。ついさっき、四十の男だと言ったし、疫病の話もしたから。

 なんとも、思っていることがすぐに顔に出る子だなあ。


 まず、俺はコロナには感染したことはない。圭が感染したのは流行初期だったので、ホテルに隔離に行った。すでに当時俺は名目上の同居人でしかなかった。圭は俺が飲み歩くななどとうるさく言ったせいで、事務所に寝泊まりしていた。


 俺はあんなに愛してたのに濃厚接触者にもならなかった。


 隔離ホテルには荷物を外から一度だけ持っていけたから、持って行こうかとLineしたが、返信はなかった。それでも、心配は心配なので、圭の荷物を持っていったが、荷物がどうなったかは知らない。


 俺が実際に濃厚接触者になったときは、支社内部でのことだった。


 二つ目に、俺が唯一愛した人は男なんだが、と言っても、この世には同性愛が犯罪の場所もある。


 そもそも、犯罪ではなくても、生殖可能性がないからモラルに反するとか、生理的に受け付けないとか、いろんな理由で嫌悪する人がいる。


 このオリエンタルというか、中華趣味の屋敷でどうか、俺はよく知らない。


 わけもわからないうちから迫害されたいわけなんかない。ここは言葉を飲み込むしかなかろう。


 じゃあ、なんと言えば良いだろうか。

 何もしないから、と言うのは、ロリコンおっさんの常套句だ。


 ここは、誠実にいかねば。真面目な顔をして聞いてみた。


「俺はね、何が何だかわからない。だから教えて欲しいんだよ」


 はげちょろけちゃんは一歩近づいた。


 俺は布を押し広げてベッドに腰掛けて、どこかにオットマンか何かがないかと探すのだが、何もない。

 はげちょろけちゃんは、俺が何を探しているのかと聞きたげだ。


「どこかに、君が座るところがあるといいんだけどね」


 途端にはげちょろけちゃんは俺の足元に跪いた。


「どうしたんだい」

「ぬひに座るところなど」


 ぬひ。

 俺の頭の中で漢字が変換された。

 奴婢。


 俺は現代日本人なのだ。ぎょっとしてしまう。


 どうも、かなり厳しい身分制があるらしい。

 じゃあ、この「じょうし」はどんな身分の人なのだろうか。

 この、はげちょろけちゃんの様子を見ればおそらくそれなりの身分の人なのだろう。


「じゃあ、そのままでいいんだけどね。紙と鉛筆でも何かないかい?」

「えんぴつ?」


 はげちょろけちゃんの頭の上に、大きなはてなマークが浮かんだような気がする。


「書くものだよ」


 持ってきてくれたのは、和紙のような紙、つまりはコピー用紙でもノートでもないような紙と筆だった。小さなインク入れのようなものまである。

 華奢な小筆を受け取りながら心配になった。書道なんて、小学生の頃からやってないんだが。

 

 そういや、圭は、字が綺麗だった。「高橋先輩って、女の子みたいに綺麗な字を書きますよね……」なんて、女の子が言ったことがあったほどだ。対して、俺の字はミミズがのったくったような悪筆で、おんなじ女の子が俺に言ったことがある。「原田先輩のは、読めない」って。


 いずれにせよ、はっきりしているのは、ここは、きっと絶対漢字が使える場所だ。


「じょうし、というのはどういう字かい?」

「おんなへんに、」


 案の定、はげちょろけちゃんは俺に背中を向けながら空中に字を書いた。


 娘、と俺は書いた。次の字を待つのだが、この細腕の書いた字が、なんとも綺麗な字だ。俺のミミズがのったくったような字じゃない。

 ふと、圭に連れられて行った奈良の国立博物館の正倉院展で見て、唯一覚えている光明皇后の筆跡を思い出した。

 何かに「藤三娘」と署名しているのだが、藤原家の三女という意味らしい。あの光明皇后の字のようにたくましさを感じるような字だ。


「子(し)」


 はねちょろけちゃんが空中に字を書きながら言った。

 つまり、「娘子」と書いて「じょうし」と読むのか。


「これが俺の名前なんだね?」


 はげちょろけちゃんは首を振った。

 じゃあ、この身体は誰なのか。

 はげちょろけちゃんは呪文を唱えた。


「ちょうしょうしょのちゃくじょ、ちょうしょうようさま。せんほくぐんおうのせいぶにん、あんけいけんくんであられます」


 漢字の変換ができたところから考えよう。

 一つ聞き取れたのが「嫡女」のような気がする。そうすると「ちょうしょうよう」が俺の名前らしい。


 もう一つ聞き取れたのが「おう」と「ぶにん」。

 片方は、王かな。


 正倉院で思い出した。大学入試の日本史レベルの知識だが、確か聖武天皇の母親の藤原宮子は皇后になったことも皇太后になったこともない。「皇太夫人」だったような気がする。「夫人」と書いて「ぶにん」。聖武天皇の妻の、光明皇后が皇室以外からの初めての皇后だ。


 ということは、王の、夫人?正夫人ということだろうか。


「オッケー。ちょうしょうよう、というのが俺の名前なのかな?」

「おっけぇ?」


 またはげちょろけちゃんの頭にはてなマークが浮かんでいる。申し訳なかった。とにかく俺が悪い。俺は聞き直した。


「ちょうしょうよう、とはどう書くのかな」


 はげちょろけちゃんは空中に書きながら答えた。


「そうにょうに、上に大小の小と書いてその下に月です」


 趙。中華系の姓だな。確かに、この部屋に似つかわしい。

 はげちょろけちゃんが手を広げたり小さくしたりしながら続ける。


「しょうは、大小の小」


 小。


「玉のよう」


 手に任せて「瑶」と書くと正しかった。


 趙小瑶。


「娘子の筆跡は変わらないのに」


 はげちょろけちゃんが言った。


「どうして、娘子と呼ぶのかい」

「娘子は敬称です」

 

 俺は頷いた。

 

 さあ、趙しょうしょが何かを教えてもらわないとならないのだが、中華系の名前だと思った途端に、今度は大学受験レベルの世界史の知識がぴょこっと出てきた。


「三省六部制(さんしょうりくぶ)の、どこかの部の尚書(しょうしょ)かい?」


 はげちょろけちゃんは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、趙尚書は何部の尚書なのかい?」


 六部は中央行政府の機関で、それぞれは言わば、日本で言うところの省庁の分担のようなものだ。三省は六部の上位組織だ。日本の省庁の「省」だって、ここからきているのだから。

 はげちょろけちゃんは、空中にカタカナの「エ」を書きながら答えた。


「工部(こうぶ)です。お父君の趙尚書は工部尚書であられます!」


 工部、多分公共工事でも担当するんだろう。そこのトップのお嬢さんかよ、俺は。なんとも身分の高いお嬢さんになったもんじゃないか。呆れ返っちゃうね。


 ところで、重大な問題がある。

 俺はさっきからトイレに行きたい。

 お手洗い?お便所?


「あのさ、」


 俺ははげちょろけちゃんに自分の腹を指して下に向けてみた。


「持ってまいります!あまりないので、心配していたんですよ。おむつのなかではお嫌ですよね」


 はげちょろけちゃんが持ってきたのはなんと、おまるだった。


「……これに、しろと?」

「どうぞ!」


 はげちょろけちゃんが俺の甚平さんみたいなのを脱がせようと手をかけるのを押しとどめるだけで精一杯だ。


「……しろと言われたって」


 やばい。間に合わない。

 俺ははげちょろけちゃんの目の前で、おまるにまたがったのである。

 尊厳……俺の、成人男性としての……尊厳。

 股も拭かれた……。


 しばらく絶句していたのだが、おまるを持って外に出ていたはげちょろけちゃんが戻ってきたので、気を取り直して解読を続けよう。


 次のはげちょろけちゃんの呪文は「せんほくぐんおう」だ。「王」かと思うのだが。


「せんほくぐんおうとは?俺の夫なのかい?」

「第八皇子、」と言って、はげちょろけちゃんは口ごもった。


「こっちからですね、白に水の北です」


 泉北と書いて、そのまま手は郡王と書くと、はげちょろけちゃんは頷いた。

 おやまあ、やっぱり王だって。それも第八皇子。そういえば、さっき「せんほくぐんおうふの北殿」と言ったが、「泉北郡王府の北殿」か。

 正夫人と書くと、はげちょろけちゃんは頷いた。


「あんけいけんくんとは、安寧の渓谷の、」


 安渓県君。

 手が書いた。


 つまり、工部の趙尚書の嫡女の趙小瑶は、泉北郡王の正夫人で、安渓県君なのか。


 頭がまた痛くなってくる。

 これはあきらかに精神的なものだ。


 気を取り直して、次へ行こう。

 さあ、これを教えてくれる君は誰だい。


「うんらんは?」

「海の蘭です」


 海蘭。


「後宮で雑用している頃に娘子に、拾っていただき、名前もつけていただきました。それから海蘭はずっと娘子にお仕えしていますよぉ」


 海蘭は子犬のような目で俺を見つめる。


「……文字も娘子に教えていただいたのに」


 かわいそうに。

 だが次を解読せねば。


「たいいって?」


 話をいきなり変えても、慣れているのか海蘭は指で空気に書きながら答えてくれる。


「大(だい)に点をつけた、太(たい)。医師の医です。あの方は皇宮への出入りを許された名医の一人で、王太医(おうたいい)とおっしゃいます」


 ここまで俺はずっと、日本語を喋っているし、日本語を聞いていると思う。

 ここは、日本なのか?中国なのか?

 まあ、俺の夢の中なんだろうし。反対にこの趙小瑶の夢の中に俺がいたなら、そうなるんじゃないだろうかとも思う。


「次は俺のことだ。俺はいくつなんだい?」

「十八です。王府にお入りになってもうすぐ一年になります」


 新婚さんか。それなら、郡王が来るだろうな。面倒な。


「郡王は?」


 海蘭は口ごもった。


「仲が悪いのかい?」


 海蘭は小さく頷いて、不満げに答えた。


「殿下ったら、娘子を冷遇しておられます。でも、」

 海蘭は俺の手を握って続けた。

「でも、度々お越しになって、昏睡状態だった娘子に生姜糖を溶いて口移しに飲ませたのは、殿下です」


 あの男が郡王か。

 海蘭は聞いてもいないことを言い始める。


「太子殿下と郡王殿下が娘子を巡って争われ、太后が郡王殿下とお決めになったんですから」

「おう。太子妃になり損ねたってわけかな?」

「いいえ」


 海蘭は真顔で続ける。


「太子殿下には正妃がおられますが、郡王には正夫人はおられませんでした」

「あ、太子の側室になり損ねたってことか」


 海蘭は俺の腕を取ってぶんぶんと振り回す。


「太子殿下が即位されたら、貴妃におなりのはずだったのに」


 貴妃、ねえ。

 俺は「長恨歌」の楊貴妃しか知らないので、なんか不幸な死に方をしそうな気がして嫌だね。

 同時に、太后の考えることはわからないではない。


「確かに、鶏口となるも牛後となるなかれって言うからな」


 太子の側室になるよりは、郡王の正妻になる方がいいだろう。

 で、郡王は欲しがっておいて、冷遇、ねえ。

 素直にはげちょろけちゃんはほっぺたをぷっくーと膨らませて言うのだ。


「女遊びをしない堅物だと太后は評価しておられたのにぃ。後宮におられた頃の方がまだ親しくされていましたよぉ」


 十八歳を娶る男が四十ということはあるまい。正妻がいないのだから、初めの結婚だろう。二十歳を超えるか超えないかではないか。

 おそらく、侍女に囲まれて育っただろう若い皇子が、妻と親しくしようとしない。

 それはどういう意味か。


 さっき、海蘭は「太子の側室になられた方がどれだけ良かったか」と言ったが、背後にどんな意味があるのだろうか。だが、何しろ目の前にいるのは少女だ。


「殿下は、王府では普段はどこにいるのかい?」

「南殿におられます」

「この北殿には?」


 少女は俯いて答えた。


「……殿下はお越しにならないわけではありませんが……」

「そりゃ良かった」


 海蘭は首を傾げた。


「良かった、ですって?」

「そうだよ。ほら、俺の状況を考えてみておくれ。俺は四十男だと思ってるのよ。そこに若い夫ってのがやってきてベタベタされるのは嫌だよ。いくつだい?夫ってのは」

「殿下はちょうど二十におなりです」


 やっぱり、ガキだ。二十歳のヘテロセクシュアルの男の前に「妻」として十八歳が置かれているんだぞ。顔がよっぽどまずくないかぎりは、手を出すだろうに。


 手を出さないなら、この顔がよっぽどまずいのかな。


 いくらメイクがはげちょろけだろうが、海蘭は典型的なきつね顔美人だ。すらりとした体つきで、そこそこ身長もあるのではないだろうか。現代的なチャイボーグメイクをすれば、モデルにはなれなくても、インスタインフルエンサー程度にはなれるだろう。


 とにかく、美人だ。


 俺は顔を指差して美人に聞いてみた。


「この顔は、美人なのかい?」


 海蘭はぱあっと顔を明るくして、答えた。


「都一番の美女といえば趙家の令嬢ではありませんか。」


 美人らしいぞ。

 仮によっぽどの仲の恋人がいても、家に都一番の美女がいるのにさ。

 こりゃお仲間かもしれないし、お仲間じゃなかったら相当ねじくれているぞ。

 この話はここで打ち切っておいた方がいい。

 というのも、仮に同性愛が許されない場所ならば、郡王は隠したいだろうし。この世には自分が同性愛者ゆえに同性愛者を指弾する者もいるんだから。


 郡王がどういう人間か見極めてからだ。

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