胡蝶の夢〜俺が郡王夫人(ぐんおうぶにん)になった件〜

垂水わらび

第1話 覚醒

「お飲み」


 甘い香りの中で男の声がする。


 がっしりとした腕が軽々と俺の体を抱き上げる。男は足を立てて俺の体を支えているのだろうか。なんと口づけされた。なんだなんだ。俺は必死に抵抗しようとしたが、動かない体の、歯と歯の間は自然に空いて、甘いものが入ってきた。


 体に染み込んでいく……この甘さと辛さは生姜を擦って黒糖をお湯に溶いたのの中に入れたかな。

 そして俺は喉がぴったりくっついてしまうほど、喉が渇いていたことを知った。


「飲めたね。もう一口」


 男の口移しで、何口か生姜湯を飲んだ。体に生姜と黒砂糖の味が染み渡り、ぽかぽかと温まる。

 いや、これはこの男の体温か。


「また来るから」


 俺はなぜかな、「ああ、来てくれよ……」と答えたかったが、口は動かない。


 再び気づいたときには、頭がぼうっと痛い。

 最近流行りのコロナにとうとう感染したかなと思いつつ、白檀の香りの中で、俺は寝返りを打った。


 いや……な・ん・で、白檀の香りがするのか。

 なんでさっき、ボトっと額から布が落ちたんだ?


 恐る恐る目を開けると、蚊帳の中にいるのだろうか。白い薄い布がベッドの上に吊るされていて、その中にいるようだ。


 なんだなんだなんだ?

 お持ち帰りされたとか?


 お持ち帰り?白檀の香りがするってことは、坊さんにお持ち帰りされたとか?

 天台宗の寺に入り浸って、夏休みにも冬休みにも雑用の手伝いをさせてもらっていた大学時代にも、そんなことはなかった。


 これでも俺は、乱倫は嫌なんだよ。


 誰かをお持ち帰りしたこともなければ、お持ち帰りされたこともない。

 二十一からはずっと、高橋圭(たかはしけい)といて、十八年で破綻した。

 その後はゼロ。

 圭しか知らない。


 その俺さまをお持ち帰りするとは、どんな破戒僧だと勢いよく起きたのだが。


 何かどころじゃなかった。何もかもが、違った。

 例えば?


 例えばこの髪の毛はなんだ。黒くて艶やかで、ストレートの長い髪の毛が、俺の視界にある。

 引っ張ったら、痛いから俺に生えてると決め打ち可能だ。

 姉貴の若い頃みたいな、黒くて艶やかで太い。あのタヌキ顔の美醜はともかくとして、髪の毛の美しさだけは一人前だった。

 兄貴の髪も、こげ茶だったけれど、太くてピンピンしてたっけ。


 俺の髪は兄貴や姉貴よりももう少し柔らかで、こげ茶だった。さすがに四十になって白いものが混じっていたから、白髪染めをしていて、太めのロットでパーマをかけて、柔らかなウェーブのワンレンショートだったのに。


 銀行員とはいえ、俺は社史編纂室に異動になって、髪の毛で遊べるようになったってのに、さあ。


 こんな気持ちの悪いほど真っ黒で長い髪の毛じゃないぞ!

 どれだけ長いかって、俺の顎の下、肩の下、胸の、って何だ!!!!!

 む……胸が膨らんでやがる。


 膨らんだ胸、ということは?……お、ん、な?


 手を見れば、俺の見慣れた腕じゃない。

 白く細く柔らかで筋肉がない。


 女で、しかもかなり若くないか?


 必死で姉貴の腕を思い出そうとするが、姉貴の腕をよく覚えてる弟ってかなり気持ち悪いだろう。

 当たり前だ。覚えちゃいない。


 そういえば着ている服も何だかへんてこりんだ。甚兵衛さんのような巻くタイプのパジャマというか、白いお寝巻きだ。


 その、股間に、震える、手を、当てた。


 ない。

 ない。


 俺の、お楽しみ棒が、ない。

 その下の、快楽の源も、ない!


 頭痛なんぞ吹き飛ぶ。


 思わず、ぎゃーっと叫んでしまったのだが、音が違う。


「きゃぁぁぁぁぁぁ」


 金切り声だった。

 バタバタっと足音が近づいてくるのだが、俺はまた何もかもわからない。



「……じょうし、じょうし」


 あの頭の痛みはほとんど消えていたのだが、耳に突き刺さるような甲高い声の女が、声を震わせながら俺に話しかけている。しかし、「じょうし」に身に覚えがない。

 上司なんだろうか。


 絶対さっきのは悪夢だよな。


 誰かが俺の手を握っているのだが、今度はしっとりとした小さな手だ。この甲高い声の女だろうか。


「……たいい、じょうしは」


 同じ震える声が「たいい」という人に何かを尋ねているようだ。


「じょうしは、お眠りになっておられたようですよ」

 爺さんの声は一呼吸置いて続けた。

「もうしばらくするとお目覚めになることでしょう」


 目が覚めていることがバレているらしい。俺はできる限り、自然に見えるように、寝返りを打った。


「じょうしぃ〜」


 俺の体を揺らす手は、かなり小さいような気がする。

 仕方がないなあ。誰だい、君は。


 俺がゆっくりと目を開けるとベッドの枕元には、頭にお団子を二つくっつけた若い、若いというよりも幼いと言ったほうがいいような少女がいた。どう見ても二十歳は超えてなさそうだ。


 涙を流していて、メイクははげちょろけだ。マスクをしていないのが、なんだか不安にさせるし、着ている黄色っぽい服も傑作だ。なんだか奈良時代っぽい。


「じょうし、ご気分は」


 はげちょろけちゃんの隣にいる爺さんが俺に聞いたんだが、この爺さんの格好ときたら、それに輪をかけてなんちゅうこっちゃ。


 もちろん、マスクはしていない。

 お公家さんが冠るのって、なんだっけ。烏帽子?二種類あるじゃないか。頭がペコンと平なんだが上にピコっと飛び出しててそのうしろにピーンとしっぽがついてるのと、もう一つポッコンと上に長いやつと。


 長いやつが烏帽子だったと思う。

 もう一つは、えーと、冠!


 爺さんが被ってるのは、そのハイブリッドみたいな、前にプックリと出ていて後ろに二つ尻尾がついてる。その下に来ているのは、平安貴族というか、あれだよあれ、天皇が即位の時に着てたみたいな服!


 えーと、あれは、束帯!

 何に一番似てるかって、束帯だ。


 だが、俺はこの人を笑うことなんかできやしない。


 穏やかで落ち着いていてにこやかな佇まいなのだが、決してからかうことができるような雰囲気ではない。

 どう見てもプロだ。

 ガキじゃないんだもの、俺は。プロをおちょくって遊んだりはしない。


 確か、何かがあったような気がする。そして、この少女とこのお医者さんが助けてくれたんだろう。


 俺が起き上がろうとすると、はげちょろけちゃんが助けてくれた。


「先生、申し訳ありませんが、何が何だかよくわかってないんです。助けてくださったようで、ありがとうございます」


 声は、女だ……。

 まだ、悪夢の中らしい。


 爺さんは一瞬だけぎょっとしたような顔をして、すぐに微笑みの浮かんだ顔に戻した。

 やっぱりプロだ。やっぱりこの爺さんは医者だろうな。


「じょぉしぃ〜」


 はげちょろけちゃんがすごい表情をしている。

 恐怖か。悲しみか。驚愕か。それとも、全部か。


 隣にそんな顔をしている子がいるせいか、俺はとても冷静になってくる。

 ティッシュがないかな。この子は泣いて鼻水まで出している。


 俺が何かないかと探していると、少女も医者も何でしょうか、という顔をしている。


「君の顔を拭いてあげるものは何かないかと思って」

「じょぉしぃ〜」

 少女が抱きついてきた。


 人間の、体温。

 人間の、体重。

 人間の、柔らかな身体。

 人間の体温と体重だ……じんわりと暖かくて、重くて、柔らかな、人間の身体。


 女体に興味が全くなかったわけじゃないが、圭と一緒にいるうちにそんなものはなくなったし、そもそも性欲が薄れてきた。


 それでも、心の奥底に何かがうずまく。


「じょぉしぃ〜。うんらんのことはわかりますよね!」


 はげちょろけちゃんが嬉しそうに言うのだが、俺は医者の方を向いて首を振った。


「じょうし、ここがどこかおわかりですか」


 俺は医者のその先を見てみる。広がるのは、どう見てもアジアンなお屋敷だ。


 例えば、奥にある台は紫檀だろうか。猫足で背が高くて台面が狭いのだが、その上には水色の平らな皿があって、今にも開花しそうな蓮のつぼみが活けてある。


 横を見ればやっぱり紫檀らしい飾り棚に飾ってある瓶は白地に美しい青で絵が描いてある。


 東南アジア趣味でも、欧米のオリエンタル趣味というよりも、一度行った台北の、故宮博物院にあるような感じで、明らかに中華趣味のお屋敷だ。


 しかも、絶対何もかもが高い。そのまま、故宮博物院に再現してあった皇帝の私室だったかな、それにも匹敵しそうだ。


「……どこのお屋敷でしょうか。先生のお屋敷ですか?」


 それ以外に何と聞けばいいのだろうか。

 はげちょろけちゃんがガバっと体を起こして叫んだ。


「じょぉしぃ〜。ここは、せんほくぐんおうふの、ほくでんじゃないですか!」


 じょうし。

 せんほくぐんおうふ。

 ほくでん。

 

 呪文か?


 いや、「ほくでん」とは「北殿」ではないだろうか。

 俺はおうむ返しに繰り返すしかない。


「せんほくぐんおうふの、北殿」

「そうですよ!」

「というのは、なんですか?」


 またはげちょろけちゃんが豊かな表情筋を披露するのだけど、ごめん。俺にはわからない。

 医者を見ると、説明してくれた。


「じょうしは、落馬して頭を強打されました」

 

 なんで俺が落馬するんだろう。


「……落馬、ですか?車にはねられたのではなく?」


 そうだ。


 最近目が霞むのでまさかの老眼!?と思いながらコンタクトと眼鏡の度を合わせてもらおうと思って、眼科に行った。

 老眼はまだだったが、度がずれてたから処方してもらってコンタクトを買って、隣の眼鏡屋に行こうとしたところで、歩道を走ってきた車にはねられた。


 俺は落馬事故じゃない。馬なんか乗ったこともない。

 俺は自動車事故にあったんだよ。


「じょうしは、車にはねられたとお考えで?」

「……はい」


 爺さんと少女は顔を見合わせた。

 違うのか!?


「じょうし、お名前はわかりますか?」

「……じょうし、と私のことを呼んでおられることはわかります」

「……姓名はどう心得ておられますか」


 医者に嘘をついたら、治療ができまい。


「……原田正人(はらだまさと)」


 医者が息を飲んだ。違うんだろう。そりゃそうだろう。

 俺はできる限り真剣な顔をして続けた。


「年齢はちょうど四十。四十にして惑わずの四十。性別は、男」


 俺に抱きついていたはげちょろけちゃんが飛び退いた。そりゃそうだろう。


「女の声で喋っているのが、とても、変な気がします」

「……じょうしは、ご自分を四十歳の男性だと考えておられると」


 目をつぶってクルンと回せばわかる。コンタクトが入っていない。


「……こんなに視力も良くなかった」


 しばらくして爺さんは言った。


「じょうし、こう考えてみてください。落馬して頭を打たれた衝撃で夢を見たのです。夢の中で四十歳の男性として過ごされて、まだその夢の中におられる」

「俺にとっては、反対です。車にはねられた衝撃で、じょうしという人になっている夢を見ているんだと」


 爺さんは微笑みをたたえたまま頷いた。


「どちらが夢かは、おいおいお分かりになるでしょう」


 俺は自分のほっぺたを引っ張ってみた。

 これまでにこんな、つきたての餅のような肌は触ったことがない。プルンとしてモッチモッチである。そして、爪を立てれば、痛い。


「どうです?」

「……痛いです。そしてこんなにモチモチの肌は知らない」


 爺さんは頷きながら言った。


「混乱しておられるんですよ、きっと」


 俺はふと思った。


 圭と終わってからは、余生だと思っていた。

 場所が変わり、肉体が変わっても、俺は俺だしな。

 やっぱり、余生であることに変わらない。


 昔読んだ本を思い出した。


「俺がじょうしという人かどうかはわかりませんが、何ごとも胡蝶の夢。俺の見ている夢のじょうしも、じょうしの見ている夢の俺も変わりません」

「孔子であられるか、落ち着かれるように、薬を処方します」


 ん?「胡蝶の夢」は荘子だぞ?孔子は「論語」……。


 そして、さっきからこの二人がマスクをしていなくて、ずっと気がかりなことを聞いたのだ。


「……疫病は流行してませんか?」


 爺さんは、身を乗り出した。


「疫病」

「俺のいたところでは、咳と高熱の疫病が蔓延して、唾液が感染経路とわかったので、手をこまめに洗ったり、口と鼻を覆ってたんです……」


 爺さんは答えた。


「じょうし、ここひと月ばかり疫病患者は見ておりませんし、最近咳と高熱の疫病がこの国で発生したとの報告も受けておりませんぞ……」


 そして、医者は後で処方箋を渡すと言って去った。

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