09.ジェルダン王
明らかに空気じゃない物体が肺に侵入してきた。入ってきた時は熱かったけど、肺の隅々に行き渡る頃にはひんやりして、死を感じさせた。これでバレ・シューベルトの旅も終わりか。何と残念なことだろう。まだ町を出ていないのに。
耳には水中のごぼごぼという音しか聞こえない。あれ、まだ生きている。恐る恐る呼吸を確かめる。肩で息をしている。水の感触はあるし、目の前は血で真っ赤なのに肺に入って来ても苦しくない。むしろ楽になった。
確かに今、血を吸い込んでいるというのに息ができる。そんなバカな。最初は液体の感触があるけれど肺の辺りでふっと軽くなる。どうなっているんだと思った時、ある恐ろしい考えが浮かんだ。
(ひょっとして僕は、怪我が治るだけじゃなくて死なないんじゃないのか?)
不死身。いや、素直には喜べない。自分のことながら不気味で気持ち悪いではないか。そのときグッデが上から沈んで来なければ、自分に対する疑問で埋もれていたところだった。
グッデは数メートル先の所で、同様に下へ下へと落ちている。自分と違い、グッデは息をしている気配がない。
「グッデ!」
血という水中でありながら声も反響するように発声できた。
「何だお前。息ができるのか?」
さっきの低い声がまた聞こえた。同じく水中のくぐもった音で聞こえる。
「だ、誰だ!」
急に上からかかっていた波の力がなくなった。辺りが静まり返り、波の流れを感じない。水中に静止して止まったのだ。血の中で目を凝らした。目が染みるのは慣れてしまった。
一体何が話しかけてくるんだろう? 朱色から深紅まである広い海だ。人影は見えない。その代わり、耳元で誰かの鼓動が聞こえた。慌てて振り返ると、見えない何者かに首をつかまれた。
いや、見える。血の海の中でも異質の油っぽい血が、人間のような姿をしている。全身が血で、黄色いリンパ液やら油で光る肌。目だけ白いが、その目も時々、まぶたから血が垂れて隠れ、赤くなる。あまりのおぞましさに、生唾を何度も飲み込もうとするが、全て喉で突っかかって声も出なかった。
「はじめまして。私は火水(かすい)、暁のジェルダン王。血の池地獄の番人であり四大政師の一人。封印を解いてくれて心から感謝する。だが私の封印を解いたのは間違いだったな。私は人間の血を抜き取るのが趣味でね」
封印を解いた? さっきの鉄の門のことか? 何にしてもかなりの悪人に出くわしてしまったことには違いない。それに、四大政師だって? 政治家か、王と呼ぶには恐ろしすぎて不釣り合いな姿だ。いや、魔法使いだからこそ奇形な有様なのか。
ジェルダン王がグッデを手招くと、意識のないグッデは簡単に引き寄せられて、ジェルダン王の手に渡る。
「どちらから血を抜き取ろうか? ここはやはり扉を開けてくれた貴様か。それとも扉を閉めようなどと考えたこいつか?」
ジェルダン王の表情は油が垂れていて分かりにくいが、笑っているのは確かだった。とにかく、逃れようと手足をばたつかせたが、ジェルダン王に触れることさえできない。相手は本物の血、液体だ。なのに向こうはこちらを捕まえることができるようだ。
「無駄だ。私は血だ」
悪い冗談のような自己紹介をしながら盛大にジェルダン王が笑った。
「しかしお前は妙なやつだ。なぜ息ができる? いや、息をしているのではないな。血を飲んでいるのか」
そんなこと聞かれても分からない。それ以前に、何で血が人間の形をして、しゃべって、襲ってくるのかが理解できない。
「お前から血を抜いてやろう。そうすれば分かる」そう言ってジェルダン王はグッデを解放し、放した方の手を僕の首に添え足して両手でがっしりとつかみ、意地悪くにんまりと口角を歪める。
抵抗できなかった。真っ赤な指が力ずくで、首筋に突き立てられた。その指がねじこまれ首の皮下まで届く。叫びそうなほど痛い。なのに声は出なかった。赤い十本の指が、まるでポンプみたいに伸縮して、血を吸い上げていく。それが鼓動のリズムと合わせられているのが分かった。
ドクンドクンと脈打つたびに血が、ジェルダン王の指さきから彼の腕を伝って肩から胸部へと流れ込んでいるのが見てとれる。息が苦しい。頭もぼんやりする。体が寒い。ああ、さっきまで自分は死なない人間だなんて考えていたのがバカみたいだ。
抵抗の一つもできないまま、あっという間に意識が遠のいて血が抜かれ過ぎたと分かった。十本の指が勢いよく引き抜かれたときには自分の意思で赤い海で浮くこともできずに漂った。
目がかすんで、ジェルダン王がぼやけて見える。もう笑ってはおらず思案するように腕を組んでいる。何かの気が変わったように見える。
「闇色になりそうだな」
そうジェルダン王は呟いた。でもそれがどういうことなのか分からない。
「それはそれで面白い」ジェルダン王の静かな笑み。その直後、波の音。空が開けた。
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