第3話 芽生え
目覚めてから三日後、若干の痛みは残るものの、レティーシャはまともに動けるようになった。全身のいたるところにあった紫色の痣も黄色くなり、腫れもほとんど引いて経過は順調。
打撲の痣に隠れていた、右肩の花のような痣を隠すように、レティーシャはブラウスのボタンをしっかり留めた。
そうして「今日からグレン様に尽くすわよ!」と気合いを入れて、家政婦の仕事に取り掛かったのだが――
「ぐぬぬぬ、バケツがこんない重いなんてっ」
「そんな細い腕で、水を入れすぎだ。肩や腰を痛めるだろうが。病み上がりの自分を労りながらやれ、阿呆。俺がやった方が速いから貸せ」
そう言ってグレンはレティーシャからバケツを取り上げて、川から家まで運ぶ。
ついでにレティーシャがびしょびしょの雑巾で拭こうとしたら、彼はガミガミしながらも毎回絞ってくれた。夕方には、掃除の心得の本をくれた。
そして翌日、次は洗濯物に挑戦したところ……
「うぅ、冷たいぃーっ、重いぃーっ」
「お湯を足せ、お湯を! 面倒くさがるのは良くないぞ! あと、重かったら少しずつ運べば良いだろうが。それか俺を呼べ、馬鹿が!」
「でも早く終わらせたいし、グレン様のお手を煩わすわけにも」
「うるせぇ! 手に負担かけて、余計な手荒れでもしたらどうするんだ。丈夫な俺の心配より、まずは弱っちぃ自分の心配をしろ。良いか? こうやるんだ」
そう言って洗濯物のほとんどをグレンがやり、夕方には洗濯の心得の本とハンドクリームをレティーシャに与えた。
しばらく掃除と洗濯は任せられそうにない。それでも、もしかしたら、と淡い期待を胸に料理をしようとしたのだが……
「レティ、その顔と包丁の持ち方は人を殺すときのだ。今日の食材はなんだ? 俺か?」
「違いますっ!」
「だよな。とりあえず、料理は論外ということはわかった。お前は黙って俺の作った飯を食うんだな。座って待ってろ」
ため息を付きながらグレンは、慣れた手付きで料理をはじめていく。
肩を落としたレティーシャは素直に椅子に座って、掃除の心得の本を開くことにした。
(埃は上から落としていく……知らなかったわ。自由に読めた小説には、身分の低い人のための単純な仕事と説明されていたのに。奥が深い仕事じゃないの)
日陰者だったが、一応王女。掃除や洗濯はもちろん、料理もメイドがやってくれたため未経験。その上、出歩けるのは人目につかない決められた範囲と時間帯のみ。使用人や料理人たちの働く姿は、直接見たことがなかった。
小説を鵜呑みにし、なんでも任せてと豪語した先日の自分が恥ずかしい。
一方でグレンは何でもひとりでできる人だ。年は二十六歳、独身。何年もひとりで暮らしているだけあって、すべての動きがスムーズ。
ちなみに職業は、世界では貴重な存在である魔術師。川に流されたレティーシャを助けられたのも、すぐに家に運び込んで手当てができたのも、魔法の力があったからこそのようだ。一度、魔術師だと証明するために見せてもらった魔法は、レティーシャが言葉を失うほどの実力だった。
そして仕事先は教えてくれなかったが、出勤は自由とのこと。レティーシャを保護してから、休んでいるらしい。
そういった一連の行動から、グレンが驚くほど面倒見がいいお人好しだということは明白。常にレティーシャの体調を気にしてくれていることもひしひしと伝わり、いつも不機嫌そうな表情を浮かべていても、口が悪くても一切怖くない。
この日も、グレンがレティーシャに作ったランチは、完璧に栄養バランスが取れたプレートだった。
「胃腸はもう大丈夫だな? 今日から肉をしっかり食えよ。倒れられたら面倒だからな」
「本当に、グレン様に拾ってもらえて良かったです!」
「俺はとんでもない人間を拾ったと呆れているところだ……お前、今までどうやって生きてきたんだよ?」
王女として、王宮の奥でひっそり生きてきました。なんて言えるわけもなく、レティーシャは口ごもる。
(私が本物のレティーシャです! なんて言ったら付いた嘘のこともあって、ファン思考が行き過ぎて頭がおかしくなったと思われそうだし……でも家事炊事なんて、きっと普通の人はできることなんだろうし……)
いい案が浮かばず悩んでいると、グレンの口からため息が出た。
「俺のことを詮索するなって言っておいて、レティのことを詮索するのは公平じゃないな。言わなくていい。ただ、しっかり元気になって働けるようになれば問題ない」
「グレン様……私、全力で家事炊事を習得してみせます!」
「期待しているぞ。今のままでは、他の働き場所にも紹介できないからな」
「はい!」
グレンへの恩返しのためにも、新しい働き先に行くことになっても生き延びられるよう、レティーシャは改めてやる気を燃やした。
そして一か月が経った頃には、グレンほどではなくても、レティーシャは家事炊事ができるようになっていた。森の外に出て、買い出しするようにもなった。毎日体を動かし働いているせいか、すでに王女時代のときよりも逞しくなりつつある。
午前と夕方は家のことをして、昼下がりはのんびり紅茶を飲むという最高のスローライフを満喫していた。
「ただいま」
日が沈む直前、グレンが仕事から帰ってきた。格式が高そうな制服とローブ姿が麗しい。
レティーシャは笑みを浮かべて出迎える。
「おかえりなさいませ。今日は牛の煮込みですよ。昼から頑張ってみました」
「おいおい、随分と難易度の高い料理に手ぇ出したな。大丈夫か?」
ぐっとグレンの眉間に深い溝が刻まれる。
普通の人なら、料理の出来栄えを疑われたと気分を害するような言動と表情。
だが「大丈夫か?」に「頑張りすぎて、体無理してないか?」という意味も含まれていることを知っているレティーシャは、笑みを保ったまま返す。
「レシピに忠実に作り、味見もバッチリです!」
「お手並み拝見といこうか」
グレンは一度私室に戻ってラフな服に着替えると、早速テーブルに着いた。スプーンで肉を崩し、口に入れ、軽く瞠目する。
「旨いな。やるじゃないか。先月の腕前が嘘のような上達ぶりだな」
そう言いながら、グレンは口元をわずかに緩めた。レティーシャにできることが増えるようになってから、彼は不機嫌な表情以外も見せるようになってきた。
この顔を見ると彼女の胸はキュッと締まり、また次も見たくて仕事に精を出しているといっても過言ではない。
「ありがとうございます! これからも誠心誠意、グレン様のために尽くさせていただきます!」
「随分と必死だな」
「必死にもなりますよ! 今の私はグレン様なしでは生きていけないんですから!」
「んんっ」
グレンは吹き出しそうになるが、なんとか耐える。頬杖をついて、眉を寄せながらレティーシャを無言で見つめた。
彼は何かを言いたそうにしているが、彼女は分からない。
「あれ? 変なこと言いました!? だってグレン様が保護してくださらなければ死んでいたわけですし、こうやって屋根あり三食付きの生活もできてないですし、家事炊事を身に着けることもなかったですし、グレン様ほど面倒見がいい人はいないかと!」
「つまり、俺は必要な存在と」
「はい! なにがなんでも、しがみついていたいお方です! 命綱です!」
レティーシャは思わず立ち上がって、力説してしまっていた。ハッとしたときには、グレンは目を見開いて彼女を見上げていた。
けれどその表情は数秒だけで、グレンは破顔する。
「はははは! そこは恩返しのために頑張っているって、健気な雰囲気で言うところだろう。あまりにも明け透けな言い方だな。でも、そうか……くくっ、ここまで必要とされるのは悪くないな。じゃあ、これからも励めよ」
少し悪戯っぽい、満面の笑みがレティーシャに向けられた。初めて見るグレンのハッキリとした笑顔は、彼女の瞳には特別キラキラしたように映り、思わず魅入ってしまう。心臓の鼓動も早速まり、なんだか胸も苦しくて仕方ない。
(こういう症状、本で読んだことがあるわ。胸が高鳴って、無性に相手が眩しく見えるようになって、もっと近づきたいと思ってしまう症状。あぁ……私はきっと……グレン様のことが好きになってしまったのだわ)
恋を自覚したレティーシャは、その晩はもう渾身の料理の味が分からなかった。
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