第19話 大家の日常①
トリシアは毎朝、キングサイズよりさらに大きな特注ベッドの上で目を覚ます。どれだけ転がっても問題ない。少し固めが彼女の好みだ。天蓋によって淡くなった朝日を見るのが好きだった。広い寝室は最初こそ落ち着かず、やってしまった……と不安になっていたが、今ではもう見慣れた景色になった。
(なかなか鏡台を使う機会がないわねぇ)
大きな楕円形の鏡がついた木製のドレッサーは、クシやジュエリーの収納場所という役割のみ果たしていた。まだまだスカスカだ。最近劇場へ行ったことにより、ついにメイク道具が一式加わったが、冒険者として動く日には使うことがないので、重厚感がある取手に触る機会はなかなか訪れない。
(魔物除け効果のある
魔物にできるだけ悟られないよう、臭い消しの石鹸は存在する。だがプラスの効能があるものはなかった。
トリシアは以前依頼を受けたことがる薬師ケインの顔がよぎった。だが彼はきっとこういった商売に興味はないだろう。そうなると狙い目は彼の妻のマギーだ。どうやらケインはなんだかんだマギーの言うことには弱いようだった。
(そう言えば双子がまた先生に会えるって嬉しそうにしてたわね)
エディンビア領はやっと高名な薬学者であるケインに、ダンジョン内に群生している魔草の調査依頼を出した。もちろん彼がすでに個人的にダンジョンに潜り調査したことは知らないふりをしている。
高名な薬師に確認してもらうことにより、有用で貴重な魔草が採取できるダンジョンとしての肩書きを得るつもりなのだ。
ケインの方も面白くはないと思いつつ、騎士団を引き連れて大規模な調査ができることなどまずない。すでに下見は終わっているし、スムーズに進むだろう。
ネグリジェと呼ぶには甘さが足りないシンプルなワンピースの寝巻きで部屋の中を裸足でうろつく。ふわふわのスリッパはベッドの横に置きっぱなしになっている。
(衣類の方も魔道具みたいにバンバン発展してくれないかな)
前世ではスウェットを着て休日を過ごしていた。冒険者用の防具の種類はたくさんあれど、着心地の良さではまだこの世界は追いついていない。
(貴族って何着て寝てるんだろ……シルク? シルクってあるのかな?)
これまでの冒険者生活に必要のなかった寝具について考えることも増えた。家のない冒険者には縁のない衣類の代表格だろう。
大きな衣装棚の中には少し前に着た深いブルーのドレスが入っている。棚の方はついデザインが気に入って購入してしまったものだが、まさか役に立つ日がくるとは思わなかった。つい最近までは、寝巻や普段着がちょこんと入っているだけだったのだ。
冒険者用の服は玄関とバスルームの近くに別途クローゼットルームを作っている。トリシアは武器を持たないが、中古の魔道具を置いておけるのでついつい色々と買うようになってしまった。
(でもドレスはロマンがあるわよね~この人生で着ることになるとは思わなかったけど)
孤児として生活していたかつての自分が見たら驚いただろうと、過去を懐かしんだ。
ふと衣装棚を見ながら観劇の日のことを思い出し、トリシアはまた少しだけドキドキした。ルークに頭を撫でられたことはあれど、抱きしめられたことはない。……抱きかかえられたことはあるが。いつもなら着た服をリセットして、買ったばかりの綺麗な状態に戻すところだが、あのドレスだけはそれが出来ずにいた。
あの後、ルークはひどく焦るように自分の行動を謝罪していた。下心からの行動だと捉えられて、また自分の側からいなくなるのではと不安になったのだ。それがわかっているトリシアは今、過去の自分の行動を少し後悔していた。
(だってまさかこんなことになるなんて思わなかったし!)
自分に言い訳をする。孤児として生まれ育ったトリシアの現実は厳しかった。幼い頃から前世の記憶があったのは幸いで、おかげで前もって将来を考えることが出来た。だから後ろ盾のない女が1人で生きるための道筋を立てたのだ。その中に貴族の息子と恋愛は含まれていない。
(身の程をわきまえてただけじゃん!)
ルークの母親に耳にタコができるほど言われた言葉だ。
実際、ルークの気持ちがただの気まぐれの可能性だって十分あった。そもそも侯爵家の嫡子が孤児との結婚などありえない。不確かな他人の気持ちに縋って生きてはいけないと、ルークの気持ちを軽く見て、蔑ろにしていた。
(そのツケがまわってきたのかな……)
これまでのトリシアには誰かに恋する余裕などなかった。
だがその余裕が出来たところで、前世から引き継ぐ恋愛下手なトリシアにはなにをどうしていいかサッパリわからなかったのだ。
「ご主人様、お目覚めでしょうか」
パンのいい匂いが部屋に入ってくる。ティアが朝食に届けてくれた。巣の近所には美味しいパン屋が朝早くから開いているのだ。
「あ! チーズが入ってるやつ!」
「ええ。今日は多く作っていたようです」
人気があって買えない日もある。美味しいものはご近所皆が知っていた。
ティアが紅茶を淹れてくれている間に、トリシアは薄く切られた塩漬け肉と目玉焼きを焼いて、縁に蔦の絵柄がある皿に盛り付ける。
「昨日ゆがいた豆があるの」
「わかりました」
ティアが保冷庫からそれを取って小皿に入れてくれた。
「や~。たまにちゃんとした朝食をとるといいわね~丁寧に暮らしてる感じがする」
いただきます。と、2人で揃って朝食を取る。以前は一緒のテーブルで食事を取るのを遠慮していたティアだったが、遂に根負けしたのか素直に座るようになった。
アルコールではなく、パンと少し焦げた肉の匂いがする朝にトリシアは幸せを感じる。ティアも同じなのが穏やかな表情を見てわかる。それを見るといつも、身も心も満足感に包まれるのだ。
(現役冒険者としてどうなのって思わなくもないけど)
貸し部屋業を始めたら、冒険者を引退するとこを考えていた。上位階級を目指そうにもヒーラーでは頭打ちなことはわかっていたし、長年命を預けていた相棒イーグルから切り捨てられたことはやはり堪えた。
なのにいつの間にか憧れに近い目標だったB級に昇格し、あっちこっちから引っ張りだこなソロのヒーラーになっている。貸し部屋業も順調だ。……魔道具の買い過ぎでなくなった貯金は一向に増える様子が見えないが。
(人生ってわからないもんね~)
窓を開け朝日に照らされた海を見ていると、穏やかな風と一緒にピコとダンの楽しそうな笑い声がトリシアの部屋まで入ってきた。
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