第5話 子どもが殺される可能性が1ミリでもあるなら
俺は森の中で息を潜めてゴブリンを待っていた。
仕事している最中も考えるのはネネちゃんの事だった。
柔らかい肌。首筋の辺りに鼻をつけてクンクンと嗅ぐとミルクの甘い匂いがする。赤ちゃんの独特な匂い。ずっと嗅ぎたい可愛い匂い。
大きな物を掴むことができない小さな手。指を差し出すとギュッと小さい手が握るのだ。
ネネちゃんは布オムツを巻いている。なぜかウンチは出来立てご飯の匂いがした。
可愛すぎて食べてしまいたくなる赤ちゃんが我が家にいる。
だから必ず生きて家に帰らなくてはいけなかった。
ネネちゃんがウチに来てから俺は自分の命を前以上に大切にするようになった。
俺が死んでしまったら、と考える。
俺が死んでしまったら美子さんが子育てしながら働かなくてはいけない。そんなの無理ゲーである。子育てで美子さんはいっぱいいっぱいなのに、どこに働く時間があるんだろうか?
彼女は編み物や裁縫の先生として仕事をしていたけど、子育てに集中するために休止することに決めた。
俺は死んではいけないのだ。
生きて帰って来て、赤ちゃんを抱かなくてはいけないのだ。
物語では生きて帰らなくてはいけない人が死んでしまう。死亡フラグというやつがある。だけど俺は死なない。死なないための対策はしていた。
腰にぶら下げている巾着の中には美子さんが作ってくれた団子が入っている。
彼女が作った料理には回復が付与されている。団子にしているのは手掴みで簡単に食べられるからである。
そして俺は自分からゴブリンのコロニーを攻めて行かない。
俺は木の上に身を隠してゴブリンが来るのを待っていた。2匹ぐらいなら倒せる。だけど3匹以上になったら倒す前に仲間を呼ばれる危険性があった。だから3匹以上いる場合はゴブリンと戦わない。1日を無駄にしても危険は犯さなかった。
この日はゴブリンを2匹倒した。ゴブリンの左耳を2つゲット。それにゴブリンの心臓が結晶化した魔石も2つゲットした。
辺りを警戒しながら急いで街へ帰った。
街に帰ったら冒険者ギルドに行って、ゴブリン2匹分の報酬を貰う。ごくわずかである。
1日で倒すゴブリンの数は平均1匹だった。
俺の収入だけでは家族が生きていくのがやっとである。
今日の収入を握りしめ、俺は家に足早に帰った。
家に帰ると部屋が片付けられていた。
片付けられているというレベルではない。物が半分以上も無くなっている。
「説明は歩きながらするから家から出ましょう」
と美子さんが言った。
慌てているような、急いでいるような口調だった。
妻は布で作られたスリングという抱っこ紐を付けていた。ネネちゃんは繭に包まれたようにスリングの中に入っていた。
「どうしたの?」
と俺は尋ねながら、ネネちゃんの小さな手を握った。彼女は小さな手で俺の手を握り返した。
「いいから淳君はコレを持って」
と大きなリュックを渡された。
「どこかに行くの?」
「だから説明は歩きながらするって言ってるでしょ?」
とイライラしながら美子さんが言った。
俺は荷物を持って、妻の後ろを追って外に出た。
「どうしたんだよ?」
と俺は後ろから尋ねた。
「疑われているのよ」と彼女が言う。
「何を?」と俺は尋ねた。
「妊娠せずに赤ちゃんがいるから」と彼女は早口で言った。「もしこの子が盗んだ子なら私達は死刑になるらしい。もしこの子が捨て子なら、この子は神殿に
「奉納?」
と俺は首を傾げた。
「殺されるのよ」と妻が言った。
殺される、という言葉の意味が俺には理解できなかった。殺されるってことは死ぬってことか?
「もしこの子が召喚された子なら勇者として育てられるらしい」
と彼女が言った。
勇者として育てられる。
俺は日本から召喚されたばかりの頃に城で勇者として修行をさせられた。
縁もゆかりもない世界を守るために死んだ方がマシだと思うような試練を与えられた。実際に何度も死にかけ、それでも強くなるように命じられたのだ。
彼等は……この彼等というのは王族のこと。俺達のことを必ず成長する兵器だと勘違いしていた。どんな試練にも耐えられると思っていたし、成長して強くなるもんだと信じていた。それに俺達が魔王を倒すことを快く引き受けると思い込んでいた。
ネネちゃんには勇者になるための修行をさせたくなかった。あんな嫌な思いをするのは俺達だけで十二分だった。
「その話は誰から聞いたんだよ?」と俺は尋ねた。
情報の出どころが知りたい。
「教え子」と彼女が言う。
教え子というのは編み物や裁縫を教えていた生徒のことだろう。
「その情報は正確なのか?」
と俺は尋ねた。
「わかんない。でもココにいたらネネちゃんが殺される可能性があるのよ」
と妻が言う。
「子どもが殺される可能性があるから俺達はこの街から出ないといけない」と確認するように俺が言った。
「そうよ」と美子さんは言った。
俺はネネちゃんを見た。
小さな腕がスリングから出ている。
「この子はまだ自分が産まれて来たことにも気づいてないのよ」
と妻が笑った。
「産まれたことに気づくのは3週間かかるんだっけ?」と俺が尋ねた。
美子さんが教えてくれた知識である。
「そうよ」
と妻が言う。
これから、この小さい生き物には沢山の幸せが待っている。俺達の役目は、それを守ることだった。
「この街から出よう」と俺が言う。「だけど今じゃない」
「どうして?」
と美子さんは戸惑いながら尋ねた。
「夜の森は、危険すぎる」
と俺が言う。
「でも……」
と美子さんが言う。
「落ち着いて」と俺は言った。「この子が危険なら1秒でも早くココから出たい。だけど夜の森を歩けば、それこそ3人とも死ぬ可能性がある」
「……そうね」
と彼女は言った。
美子さんらしくない、と俺は思った。焦っていることが彼女らしくないのだ。いつでも冷静沈着でシッカリしているお姉さんだった。だけど子どものことになると、冷静沈着ではいられないらしい。
「朝一に出よう」
と俺は言った。
ポクリ、と彼女が頷く。
俺達が家に向かって踵を返すタイミングで、遠くの方からパカパカという馬の足音が聞こえた。
平民街に馬が走るのは珍しい。
俺達は視線を合わせて、頷く。
それで民家の陰に隠れた。
馬を使うのは騎士団である。
貴族は馬車に乗っている、車でもエンジン音が違うように馬車と乗馬の足音が違うのだ。俺達は城にいたから騎士団が乗馬している時の足音も、馬車の足音も知っている。
こちらに近づいて来ているのは騎士団の馬の足音だった。
白い騎士団服に包まれた3人が俺達の家の前に止まった。
もし美子さんに言われて外に出ていなかったら、ネネちゃんを取り上げられていたかもしれない。あるいは俺達が殺されていたかもしれない。
騎士団が俺達の家の扉を壊して中に入った。
「今すぐ、この街から出よう」
と俺は小声で言った。
妻はポクリと頷いた。
闇に包まれた森のことを俺は想像する。
彼女達を守りながら魔物が潜む森から抜け出すことができるんだろうか?
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