天上の友禅

ゲコさん。

天上の友禅

 「天上の友禅」という昔話がある。

 遠い昔この地に空の上から人が降りて来た時、そのうちの一人が絹織物を地上に置いていった。その布には夕暮れの空が黒、紫、赤で友禅で染色されており、その上を金彩加工の施された鶴と雲が何十も舞っているという。

 その布を手にすると、鮮やかな夕暮れの空を登り、雲も鳥も越えて天上の世界に行けるのだという。その天上の世界には飢えも病も、貧困も寒さもなく、皆が幸福に過ごせるのだそうだ。


 この町の住民なら必ず一度は耳にしたことのある子供だましの昔話だが、私は未だにこの話を固く信じている。

 天上の友禅はある。そしていつか私は天上の友禅を探し出し、この穢れた油にまみれた町から逃げ出して、苦痛のない世界に行く。きっとそこには私が大好きだったお

 ねえちゃんもいることだろう。



【アブラウサギとアブラウサギ工場】


 アブラウサギは、体中からべちゃりとした油を分泌する獣だ。ウサギと呼ばれているが兎との共通点は長い耳だけで、全く異なる肉食獣である。常に体から油を分泌している為体毛は退化し、こげ茶色の表皮が見えている。体の大きさは中型犬ほどで、足は短く、体の殆どが大きな腹と口に占められている。悪食で何でも食べる為、人も捕食の対象にされる事がある。

 世界中の様々な文化、宗教から忌み嫌われる生き物で、「人間の宿敵」とも呼ばれている。

 そして私は、あろうことかそんなアブラウサギの死骸から油を搾り、その油から日用品を生産している工場で働いている。


 私の平日は毎朝五時に布団から起き上がることから始まる。

 寝起きは腰が痛み、重い眠気が残るがいつもの事だ。

 アブラウサギ加工工場の独身社員寮であるこの部屋は手狭で、布団から三歩で洗面台と小さな鏡がある。顔を洗い、寝癖を水で撫でつける。化粧はしない。すぐ汗で流れてしまう。人によってはばっちりお化粧をして、休憩時間に化粧直しをしっかりする人もいるけれど、私はいつもしないし、そういう人達からは余り好かれていないので、鏡を快く使わせてもらえない。


 ユニフォームへ着替え、タオルハンカチを小さなカバンに入れ、バスへ乗り込む。遠くにわずかに明るい雲が見えるが空はまだ暗く、その代り草木の匂いが強い。

 最近は湿度が高く、草木の匂いの他に水と土の匂いがする。思い切り深呼吸したら、バスに乗り込んでいる他の社員に怪訝な顔をされた。

 天井の、小さなオレンジの室内灯を頼りにバスに乗り込む。いつも寝坊する社員がいて、誰かが「おい、またあいついないのか」と悪態を付いた。ただ、それ以外は静かなもので、皆目をつぶって車に揺られる。

 私も最後列の席で目を閉じる。二十分ほどで工場には着く。二度寝には不十分だし、本当に眠い時は工場に着く直前に眠り始めてしまう距離だといつも思う。

 いつも通り、バスが工場に停まると、眠気と不機嫌な気持ちが混ざった吐息が誰からともなく吐き出される。皆気だるそうにバスを降り、正門へ真っ直ぐ歩く。


 毎日門に垂直になるように、十人程度のデモ隊が私達を無言で睨んでいるが、目を合わせてはいけないと工場から通達されている。彼等が毎日工場の前で掲げる横断幕には、「穢れを撒き散らすな」と赤文字で書かれている。

 赤文字の端の方にはコミカライズされた天女が汚れた羽衣を抱えて泣いている。「天上の友禅」の昔話に出てくる天から降りた人を模したものだった。


 私の住む町は世界的に見てもアブラウサギの発生量が多い地域であり、町の面積三分の一を占める広大なアブラウサギ工場で町民の多くが働いている。大きな企業で働くことは一般的には誇らしいことなのだろうが、この工場で働くことは恥ずべき行為と考えられている。

 工場で生産された日用品はアブラウサギがデフォルメされたラベルを貼られ、世界中に安値で売り出されている。その日用品は日々の生活用品も満足に変えない人達が苦肉の策に買う。そんな、世界中から嫌われている生き物から搾った穢れた油を社会的弱者に買わせる企業というのが私の働いている会社の世間的評価だ。


 かなりの町民がこの工場で働いているにもかかわらず、工員はこの町の中でさえ侮蔑と軽蔑の対象になっている。各家庭でわが子へ教育を施す意味はアブラウサギ工場で働かせないためであり、貧乏な家庭が子供達を皆アブラウサギ工場以外の場所で独り立ちさせることは美談として語られる。そして裕福な家庭の子供がアブラウサギ工場で働くことは裕福を嫉む市民の溜飲を下げるスキャンダルにもなるのだ。


 工場の正門を開けて中へ入る。さあ、今日も一日が始まる。油まみれの、世界中から忌避される仕事に費やされる一日が。




【おねえちゃんの思い出】


 私の幼少期の思い出を何か一つ、と言われたら「おねえちゃん」の事に限る。おねえちゃんは実の姉ではない。私の兄弟は兄しかいないが、その辺りは割愛する。


 おねえちゃんは近所に住んでいた年上の女の子で、幼い頃たまに遊んで貰っていた。私には友人がほとんどいなかったので、私が誰かと遊んだ記憶は大体おねえちゃんと遊んだ記憶になる。おねえちゃんは私よりももっと仲の良い友人が沢山いたらしく、よく遊びに誘っても断られていたが、暇なときには私と遊んでくれた。気が向いたら余ったシールを分けてくれることもあり、私はそのシールを大事にとっておいたものだった。


 おねえちゃんには年の離れた弟がおり、おねえちゃんはその弟を毛嫌いしていた。私と遊ぶ時にはその子への呪詛を呟き続けていたものだった。弟がいることで彼女の人生はどれだけ不幸なものかいつも私に吐き出し、私はいつもそれを聞いていた。それでも私には大事なお友達であり、憧れのお姉さんだった。


 そんなおねえちゃんは、十五歳でこの世を去った。いつも弟に危害を加える彼女は、問題行動のある子と見なされ、施設に預けられた。その後に施設を脱走し、アブラウサギに襲われ喰い殺されたのだ。

 発見された時にはほぼ骨になっており、手荷物からおねえちゃんと判断されたらしい。カバンの中に弟への恨み言をひたすら書いたノートと、殆ど中身のない財布、沢山の包丁が入っていたそうだ。電車やバスを使えば安全に移動できるのに、おねえちゃんはその移動費すら包丁に変え、徒歩で家を目指して弟を亡き者にすべく脱走したらしい。


 私は、まだおねえちゃんが死んだことが信じられない。でも、そう思うと同時におねえちゃんは死後の世界で穏やかに暮らしてほしいとも思っている。だから私は天上の友禅を探しておねえちゃんに会いに行く。ずっとおねえちゃんが天上で穏やかに暮らしているよう神社にもお寺にも教会にも祈っているのだ。きっと天上で、弟にもアブラウサギにも苦しめられず暮らしていることだろう。



【休日の探索】


 週末の休日は、外に出て天上の友禅を探しに行く。今日はまだ行っていない区民館へ行くことにしよう。その区民館にある緞帳に鶴と雲の刺繍が施されているのだそうだ。もしかしたら、万に一つでも、その緞帳が天上の友禅かもしれない。


 バスを乗り継いで最寄りのバス停に向かう。バスの座席は茶色のものに座るのがアブラウサギ関連の仕事についている人の暗黙のルールになっている。

 バスは時折アブラウサギを轢き殺しながら進む。ドンッドンッとその度にバスが揺れる。

 公共バスの車体前面には強力な撥水加工が施されているためそこだけ色が違う。アブラウサギを轢いても汚れないためだ。


 私が働く工場では、アブラウサギを狩る部署だけでなく、こういう轢かれたアブラウサギを回収する部署もある。私はそこで働いている。来る日も来る日も道路ではねられたアブラウサギを専用のトラックにのせるのだ。

 アブラウサギが轢かれる音をぼんやりと聞いているとにバスは目的地の区民館前に着いた。私を嫌そうに眺める老人を一瞥しながら降りる。


 区民館の真横に小さな社があった為、少しだけそこに寄り道する。私は神社でもお寺でも教会でも道端のお地蔵さまでも、お祈り出来るところではいつも手を合わせてお姉ちゃんが天上で幸せに暮らしているよう祈願しているのだ。

 社の賽銭箱に小銭を入れて、小さな鈴を鳴らす。どうかどうかお願いします。…これでよし。

 会う神仏片っ端からお祈りをしているのだ。きっと誰かが聞き入れてくれて、おねえちゃんは天上にいることだろう。だから私は早く友禅を手に入れて会いに行かねばならないのだ。


 区民間の中はひんやりと冷房が利いていた。入り口すぐ横の守衛に声を掛ける。

「すみません、見学をさせて頂きたいのですが」

 守衛の方は怪訝な顔をする。催し物の予定もない、図書館もない、遊具の類もないこの小さな区民館に何を見学したいのかと顔にありありと書かれていた。

「こういう施設が好きなんです」

 慌てて言い訳をする。気難しそうな顔をした守衛はふううん、と長く唸った後渋々私を入れてくれた。


 鍵が開いている部屋を片っ端から見ていく。

 一番大きなホールのドアを開けると、目当ての緞帳が目の前に広がっていた。ホールは演劇や講演の為のステージが設置されており、そのステージ全体を緞帳が覆っていた。

 確かに鶴と雲が刺繍されている。しかし下地は全面赤茶色で夕暮れの背景ではない。それに金色の糸での縁取りもなく、恐らく天上の友禅ではないのだろう。

 しかし、一応と思い、緞帳まで歩いていき、緞帳に触れる。そして目をつぶり、強く念じる。どうか私を天上の世界へ連れていってください。お姉ちゃんに会わせてください。そして私もそこで暮らさせてください。


「あんた、何してんの?」

 気が付くといつの間にか私の後ろに立っていた守衛の怪訝な声で我に返る。

「すみません、こういう緞帳が好きなんです」

 慌てて言い訳をする。目を開いても私がいるのは区民館で天上ではない。守衛はふうう、と鼻でため息をついた。



【りりぃさんのこと】


 「うわーっ」という気持ちがいっぱいになることがある。上手く説明できないが「うわーっ」なのだ。そしてそんな時はりりぃさんを寮に呼ぶことにしている。

 りりぃさんはこの町の娼館で働く女性だ。短い髪とアーモンドのような目をして、耳にはいつも大ぶりのピアスを付けている。りりぃというのはいわゆる源氏名で本名は知らない。


 私は彼女の客として彼女を指名する。客が同性でも、指定場所がアブラウサギ関連の建物であったとしても来てくれる貴重な方だ。寮には私の友人として紹介してある。


「久しぶりね、元気だった?」

 彼女はフランクに私に語り掛けてくれる。まるで友人のようで、その話し方に大分救われた気持ちになる。それだけで「うわーっ」が少し減る。

 彼女にベッドに座ってもらい、私は彼女の膝に頭を乗せて横になる。彼女を呼ぶ時はいつも時間いっぱい膝枕してもらっている。そして髪を撫でて貰ってとりとめもない話をする。とはいえ、私が話せることは余りない為、彼女に話してもらって相槌を打ったり、少し気まずいが無言なときもしばしばある。


 そうこうするうちに時間が来る。彼女に代金を払って定型文のようなお礼を言う。

「ねえ、あのね」

 お金をポシェットにしまいながらりりぃさんは言う。

「部屋の中だけじゃなくて、お外にも行ったりしない?プライベートでは会えないけれど、一緒にお買い物したり、食事したり」

 こう言われるのは初めてではない。りりぃさんはちょくちょくこう言ってくれる。外に出てリフレッシュしよう、と。しかし外では膝枕は出来ないので、いつも断っている。無言で首を振って。


「貴方が心配だわ」

 りりぃさんは困ったように笑いながら私の俯いた頭を撫でる。

「私に出来ることは少ないけれど、何か苦しいことがあったら言ってね。あまり空き時間がないけれど、連絡してくれていいからね」

 そう言ってりりぃさんは去っていった。

 そんなに私はひどいことになっているのだろうか。アブラウサギ工場で働き、おとぎ話を信じ、時折「うわーっ」という気持ちになる私は。



【鉄塔と中間報告】


 月に一度くらいの頻度で町の外れにある崖の上に巨大でぴかぴかの鉄塔が現れることがある。

 鉄塔の出現と私の休みが被っている日はその鉄塔に赴くことにしている。


 鉄塔の根元には厳重にロックされたドアと呼び鈴がある。その呼び鈴を鳴らして自分の名前を名乗るとインターホンから「はいよー」という気だるげな不機嫌そうな声が応え、ドアが開く。

 ドアの向こうには、エレベーターだけがぽつんと置かれ、そのエレベーターでいつも通り八階へ向かう。エレベータ室内の壁はガラス張りで、私は周りの景色が小さくなっていくのを何となく眺める。


 八階にはいつも通り大きなスクリーンと並べられたパイプ椅子があり、そのパイプ椅子の最前列に彼が座っている。足を組んで、手を頭の後ろで合わせ、つまらなそうにスクリーンを眺めている。今日スクリーンに映し出されているのは発電会社が作った子供向けの映画のようだ。どうやって発電を行うのかを特撮ヒーローと一緒に学ぶようナレーターが語っていた。


 私はいつも通りエレベーターから出ずに黙って彼を待つ。しばらく待つと、今初めて気付いたように彼が私に振り向いた。

「おお、じゃあ上行くぞ」


 いつも通り二人、エレベーターで九階へ上る。エレベーターの扉からビニールシートが敷かれ、バスルームまで続いている。そのシートの上を歩き、バスルームで体を洗い、服を着替える。これもいつもの事で、彼が言うには私は「油臭い」のだそうだ。

 その後、リビングへ向かい、ソファに座っている彼から数メートル離れて立ち、彼と前回会ってから今日までどこをどう天上の友禅を探索していたのかを報告する。ソファの横にはホワイトボードがあり、この町の地図が貼られている。彼は私の報告を聞きながら地図に私が訪ねた場所をチェックしていく。


 彼の名前は分からない。私が天上の友禅を探している時にこの鉄塔に訪れて以来こういう付き合いになったのだ。

 私は決して賢い方ではないので、こうやって友禅探索のことをまとめてもらえると自分がまだ行っていないところが一目で分かって助かる。

 それに彼は天上の友禅を探していることを笑ったり馬鹿にしたりしない。ただ淡々と面倒そうな目で頷くだけだ。


 友禅が見つからなかったという探索結果と、今後はどこに探しに行くのかということを話し、彼への報告は終わる。

 その後は彼に促され、ベッドに横になる。彼が私に覆いかぶさってくる。これもこの鉄塔を見つけて以来行われているいつも通りの事だ。その後、私はまた体を洗い、彼と一緒に八階へ戻り、映画を見る。そして家に帰されるのだ。

 


【りりぃさんを見送る】


「町を出て移住することになったの。」

 ある日、帰り支度をしながら、りりぃさんは言った。

「ずっと外の世界に出ることが夢でね。お金をずっと貯めてて、遂にビザを手に入れたの」

 ここは世界中からアブラウサギに穢れた土地として認識されているため、町の外に移住するためには国内でも特殊なビザがいる。

 この町よりも遥かに安全で清潔な他の町への移住はこの町の住民達皆の憧れではあるのだが、ビザはとんでもなく高額で、移住できるのはごくわずかだった。りりぃさんは賢い人なので上手くお金を貯められたのだろう。

「町を出る前に私を呼んでくれて良かった。貴方いつも決まった日時で指名しないんだもの。来週末の二時に駅を出る予定なの。良ければ最後にお話ししましょう」


 そう言ってくれたので、私は当日、りりぃさんの出発を見送りに行った。彼女はすでに沢山の友達に囲われて談笑していた。泣いている人もいて、彼女はそんな人たちを優しくハグしていた。私の出番はないように思えたが、花を持って突っ立っている私に、彼女の友人達が話しかけてくれた。りりぃさんの周りは、りりぃさんと同じフランクで優しい人達に囲まれているのだと思い知る。

 私は彼らの前でうまく振る舞えているだろうか。目をそらさないようにしながら微笑みを絶やさないようにしながらりりぃさんの友人達とも雑談をする。鏡を見ながら練習した自然な笑顔を心がけて、頭の中で練習した言葉を話す。

 知り合いなの。とても良くしてくれて。

 私の職業は言わないようにする。そして彼女の職業と源氏名も。


 手の平が冷や汗でいっぱいになった頃、りりぃさんが私の方に来た。

 見送りに来た順番に話をしているらしい。そういう細やかな気配りがずっと好きだった。一緒にいると自分もまともな人になれたような気がした。

「おめでとう。少し寂しいけれど、りりぃさんがずっと行きたかった場所で頑張るチャンスがあるっていうのが本当にうれしい」

 そう言いながら、花束とメッセージカードを渡した。りりぃさんは何か言いたそうに一瞬顔を曇らせたが、その後笑って花とカードを受け取って私を抱きしめてくれた。行かないで、なんて無粋なことは言ってはいけない。それはだめだ。

 

 アブラウサギの加工に携わる人間は移住が決して認められない。アブラウサギはこの世界のどこの場所でも不浄の生き物だから、体の隅まで不浄の油にまみれている私達にそんな権限はない。

 町の外に出られないのだから、町の上空に思いを馳せたっていいじゃないか。


 りりぃさんは時間が来ると、トロッコ型の電車に乗って行った。ずっと私達を見て手を振って、どんどん小さくなっていった。

 りりぃさんが見えなくなってから友人の一人にこっそりと話しかけられた。りりぃさんと同じ、すらっと背の高い人だった。

「あのね、実はね、私りりぃさんの仕事仲間だったの。あなたの事もりりぃさんから聞いているの」

 そういって、りりぃさんのお友達は、背の低い私の為に腰を折ってネームカードを私に手渡してくれた。

「ずっとりりぃさん、あなたを置いていくことを本当に気にしていたのよ。他のお客さんのことは特にどうも言っていなかったの、貴方だけ。あのね、私のお客さんとしてだけじゃなくて、本当にお話しするだけでもいいから。連絡してくれたらうれしいな」

 うまくその言葉に対応出来ていただろうか。そつのない事を言えただろうか。何を言ったのか思い出せないが、彼女は私と話した後にっこりと笑って去っていった。

 他のりりぃさんの友人達も徐々に去っていき、私は皆が去るまで駅の隅でひとり立ち尽くした。


 ああ、とにかく。家に帰ろう。



【再会】


 りりぃさんを見送った次の週末、鉄塔が見えたが行く気になれず寮のベッドで横になっていた。するとドアがノックされ、ドアを開けると寮の受付の人が立っていた。

「面会したいってお客さんが待っていて」

 はきはきとした物言いをいつもする彼女が言い淀む。

 不思議に思いながらロビーに行くと、同僚達が遠巻きに誰かを見ていた。

 「鉄塔の彼」だった。

 この寮は独身者のしかも女性用なので、男性客は珍しい。しかも一目でアブラウサギ工場に関係のない身なりをしている人はことさら珍しいのだ。


 彼は私を見つけるとただ一言「来い」と言って私を連れだした。

「ばかな女だ」

 バスの中で揺られながら私に一言だけ言ったきり、彼は鉄塔に着くまで無言だった。


 いつも通り九階でシャワーを浴びて着替えて、やっと彼はいつも通りの不機嫌そうな口調で喋り出した。

「天上の友禅探しはどうなった」

 私はあまり進んでいないと答えた。彼が理由も聞きたがったので、りりぃさんの事を話し、彼女のお見送りとその準備で最近の週末を費やしたことを答えた。

 りりぃさんのことを友人と言おうとしたが、彼には恐らくすぐ違うことを気付かれるだろうと思い、本当のことを言った。


「ばかな女だ」

 彼は私の話を聞いた後、もう一度言った。

「行きたいんだろう。天上の友禅の世界に」

 彼はおもむろに私の手を取り、エレベーターの開閉ボタンを押す。

 ドアが開くと、今まで行ったことのない最上階のフロアのボタンを押した。


 エレベーターはみるみる上昇し、ガラスの向こうは夕暮れの、紫、赤、黒が混在する空が広がっていた。

 視界の端には何か白いものの群れも見えた。群れはどんどん近づいていき、その正体が分かった。鶴だ。

 

 待ってほしい、この風景は。

 

 心臓がどくどくと音を立てる。まさか、まさかと頭の中でくりかえす。

 彼を盗み見るけれど、彼は相変わらずの不機嫌そうな顔で無言に空を見るだけだった。

 エレベーターは分厚い雲に入り、長い間灰色の中を進むと遂にちんと音を立てて最上階にたどり着いた。

 恐る恐るドアの外へ出る。

 ああ、やっぱりという思いと信じられないという思いが混在する。


 そこには天上の世界が広がっていた。


 鮮やかに広がる緑の大地が、夕暮れの優しい光に照らされている。

 空気が油臭くない。水と土の匂いがする。

 緑の中の一角は花畑になっており、黄色の菜の花が満開に咲き誇っている。

 そしてその花畑の真ん中に誰か、いる。小さな子供を抱えてあやしている。

 その人に気付くと同時に走り出す。若干年を取って大人になっているけれど一目で分かった。

 


 足がもつれる。

 駆け寄り、そしてなんて言おう。どうするべきか分からないけれど、ただ会いたい。

 あちらも私に気付いたらしい。ぱっと笑った。

 そして子供を大事そうに抱えながらもこちらに速足で歩いてくる。

「ありがとうね、あなたのお陰で私ここに来られた」

 おねえちゃんは息を若干切らしながら途切れ途切れに言う。

「ずっと私が天上で暮らせるように祈っててくれてたでしょう。本当にありがとう」

 私は何の言葉も出てこなかった。胸がいっぱいで何も言えない。ずっとずっと会いたかった人がここにいる。


「ここで暮らせて、子供も授かったの。男の子。ねえ、抱っこしてあげて」

 そう言って子供を私に差し出した。恐る恐る両手を伸ばすと、おねえちゃんは腕の上に子供を置いた。どうしていいか分からないので、腕をそのままにして子供を見る。首が座って間もない小さな子だった。目元がおねえちゃんの弟にそっくりだったけれど、この子に対しては憎しみも呪詛もないようだ。

 数秒そうしていると、子供がむずかりだしたので、おねえちゃんに急いで戻す。子供をあやしながら私を見ておねえちゃんが言った。

「あなたも、ねえ、幸せになって。私ここで待ってるから」

「ずっと、この穏やかな世界で待っているから」

 そこから先の事は、覚えていない。


【そしてこれから】


 気が付いたら町に戻っていた。天上の世界も、それどころか鉄塔も消えていて、町はずれの崖の上ののっぺりとした平地に私は一人で立っていた。


 あれは何だったんだろう。現実にしては私に都合が良すぎるし、夢だとしたら何故ここに私はいるのだろう。

 鉄塔の彼に訊いてみたいが、そもそももう一度彼に会えるのだろうか。町を見下ろすと、真っ赤な夕暮れで町中が赤く染まり、少しずつ暗くなり始めていた。


 とりあえず、今日は帰ろう。また明日から、工場での仕事が始まる。

 きっとこれからも私は、天上の友禅を探して町中を探索するだろうし、おねえちゃんが天上で幸せに暮らせるようにお祈りするだろうし、もしもまた鉄塔が見えたら彼に会いに行くだろう。


 勇気を出して、りりぃさんのお友達にも連絡してみよう。彼女と、りりぃさんが勧めてくれたように外に出たりしてみようか。膝枕はいいや。「うわーっ」を小さくする別の方法を考えるのだ。


 私はこれからもこの穢れた油の町で、天上の友禅とおねえちゃんという信仰を持ち続ける。そして生きていくのだ。天上に私が呼ばれるその日まで。

 了

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天上の友禅 ゲコさん。 @geko0320

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