2:漂着

 一瞬放り出されるような感覚がした直後、全身に鈍い衝撃を感じた。

 やがて瞼の奥が白く眩しくなった事に驚き目を開ける。

 固まった首を傾けてみれば一面の海が広がり、燦々さんさんと輝く日差しの下で潮風の匂いと心地よい波の音に包まれ……もしかして、死ぬことが出来たのだろうか?

 ふらふらと立たない足腰を持ち上げ起き上がると、はらりと布が落ちていった。


「あ、あ……あぁ……」


 かすれた喉が空気を揺らし、濡れた素肌に風をまとう感覚が心地よく突き抜ける。

 自然と海に向かって手を広げ、裸の全身で死後の世界に来られた喜びを感じていた。


「えっと………き、君!! それ着て!!」


 誰だろうと、知らない男の声で振り向く。

 彼は急に目を背けると、落ちている外套を指さした。


「……?」


「裸なんだよもう! せっかく掛けたのに!!」


「えっ? は、はい」


 もしかして、ここは死後の世界ではない?

 それに気付いた私は、慌てた素振りの彼の前で大きな外套を羽織る。

 ぶかぶかと丈は合わないし、ベタベタと張り付く布地が気持ち悪いはずなのに、どこか暖かかった。

 

「僕はヴィクトール。君は?」


「……」


 頬を染めて早口で名乗る彼は、あまり女性に慣れていないのかもしれない。

 自分が女だということも忘れかけていたけれど、彼の反応でそれを思い出した。

 しかし、ここがどこか分からない。オリオン王国であれば私は大罪人だ。

 素直に名乗ってしまえば、この親切な人にも迷惑がかかるかもしれない。偽名でも考えたほうがいいのだろうか。


「名前を言えない……その左腕の入れ墨……逃げてきた奴隷かな? 安心してくれ。このアレクサンドロフ公爵領は奴隷制度に反対しているから、君は自由だよ」


 迷っていると、彼は私を逃亡奴隷だと思ったらしい。

 左腕に刻まれた入れ墨……私の肉体と同化した聖剣の、その鞘となる紋章に見覚えがないのであれば、確かにオリオン王国とは無関係な人だろう。

 ただ彼の口から出た地方の名前に聞き覚えがなかったので、素直に首を傾げた。


「あの、ここは、オリオン王国、では、ないのですか?」


「オリオン? 随分遠くから逃げてきたんだな。ここはギネビア王国っていうとこで……まぁいいや、ついてきなよ。人助けも僕の仕事だから」


 ギネビア王国という名前で、ここがどこか理解した。

 祖国オリオンから西の大陸で、私はどうやら誰かによって船に載せられ流されたようだ。

 ともあれ私に行く宛はないので、大人しく着いていく。

 その途中私はやっと、人間の作法について思い出した。


「お手を、煩わせて、すみません」


 迷惑をかけたら、謝らなければいけない。

 先導してくれる背中に声をかけると彼はくるっと振り返り、頭を掻いた。


「どちらかというと、僕は感謝の言葉のほうが好きだねぇ」


 照れたようにへらへらと笑う、少し年上で背の高い男だ。

 彼の言うことにも一理あるし感謝の言葉を……えぇと、名前は何だっけ?


「ありがとう、ございます……えぇと……」


「ヴィクトール。このアレクサンドロフ公爵に二度も名乗らせるとは、本当に大物だね君は」


 潮に焼けた蜂蜜色の髪をかきあげ、海のように深い蒼の瞳が笑う。

 爽やかに笑ったヴィクトールは、私が名乗るのを待っているようだった。


「……ジュリア……と、言います」


「いい名前だ。美人さんにはよく似合う。しっかしこう、よく見ると珍しい人種だな。髪も肌も真っ白なのに、瞳だけが真っ赤で……」


「……」


「ああいや! 裸の君を長々と見ていたわけではないのだがね? 本当だよ?」


 助けてもらってなんだが、随分軽薄な男だ。

 頬を染めてわたわたと手を振る彼に自然と頬が持ち上がり、クスクスと息が漏れる。

 あ。私、笑ってるんだ。


「まぁいいや。とりあえず、僕の別荘で着替えようじゃないか」


 久しぶりに高ぶる平和な感情に我ながら驚いていると、ヴィクトールはポリポリと頬を掻く。

 そしてそのまま、彼の屋敷に案内してくれた。





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