知らない部屋
「テロメア老化説はDNAの発見と研究が進んだ二十世紀末に広く知られて、その後定期的に流行を繰り返している健康志向のひとつですよ。DNA鎖の末端にあるTTAGGGという塩基配列の繰り返し部分のことをテロメアと言って、細胞が分裂するたびに少しずつこれが欠けて短くなっていくんです。そして充分に短くなったとき、細胞はそれ以上の分裂をやめてしまう。それが、細胞が老化した状態です」
「……そういう伝説?」俺はオブジェの軸に刻まれた文字をカメラで取り込みながら聞いた。
「いえ、ここまでは科学的な事実です。で、そこからやや飛躍して、テロメアがなるべく短くならないようにコントロールできれば、若返ったり、老化を阻止できる、寿命が伸びる、健康を維持できる、みたいな言説が生まれて支持されるわけです」
「……そっちは伝説?」
「いまだに老いて死なない人間が一人もいないところを見るに、伝説なんじゃないですかね」ニセノはなんとも適当な口調で言った。
「……ふーん」
呪術にハマる人に健康マニアが多いのは、よく言われることだし俺自身も体感している。その二つはほとんど真逆のもののはずだが、「従来的な科学技術の系譜から外れたもの」という点に希望を見出す人は少なくないらしい。
パソコンに取り込んだ呪文に、変わったところは無かった。オブジェを宙に固定する呪文、バランスが崩れたときに姿勢を戻す呪文、弱い光を出す呪文、周囲の雑音を低減させる呪文。どれも単純でありがちな呪文だ。末尾に狂気的な回数の「TTAGGG」が書き足されていること以外は。
サヤに案内されて他の部屋を確認している間に、夫の
「一体、何がどうなってるんだか……」
妻に促されて問題の部屋を覗いた頼斗は、それ以上足を踏み入れようとせず、困惑した目で廊下の俺たちを振り返った。
「これは何なんです?」
「浮かぶインテリアです。特にそれ以上の意味は無いかと」俺は答えた。
「意味は無いって、そんなはずはないでしょう」
「勿論、ご本人にとっては意味のあるものでしょうけど、解呪という点では取り立てて何も……」
「お母様がテロメアの話をされていたことはありますか?」ニセノがやんわりと割り込んだ。
「テロメア?」
「あるいは遺伝子、DNA、細胞の寿命や老化について……」
「さあ。普通の主婦ですから、そんな難しい話は」
「広義の健康法のひとつだと思うんですけどね」ニセノは呪文に書き足された奇妙な文字列とその意味について、俺に話したようなことを再度、頼斗にも説明した。
話を聞き終えた頼斗は顔をしかめて後頭部をガリガリと掻きむしった。「もう、何が何だか……他の部屋はどうなんです? これ以外にも呪術が?」
「確認中ですが、今のところはありません」俺は言って、調査が途中になっていた奥の居間に引き返した。
ほとんどの物は部屋の隅に積まれた段ボールに入っていた。二年間の退避休眠の間、汚れや劣化を避けるためだろう。呪文の気配は無いが、念のため全ての段ボールを横並びに置いて開封した。キッチン家電や食器類、タオル、マットなどの日用品の他に、工芸品やぬいぐるみが詰まった箱が幾つもあった。デフォルメされた熊、兎、小鳥、金魚、イルカ……どれも、子ども向けの玩具という感じではなく、棚の上やカウンターの隅を彩るちょっとした置物のようだ。
問題は、これらを全部置いたら棚どころか床一面を埋め尽くしても足りないということだが。
「なんだよこれ……」
着物姿の兎の夫婦の編みぐるみを手に取ってしばらく無言でいた頼斗が、急に堪えきれなくなったように声を張り上げた。
「これは干支の置物だと思う」サヤが段ボールから似たような置物を幾つか引っ張り出した。「ほら、虎とか牛とか……十二支全部あるのかな」
「そうじゃなくてさ!」頼斗は苛々した動作で兎の夫婦を段ボールに押し込んだ。「こんなの母さんの趣味じゃないだろ? こんな……なんなんだよこれ、誰に買わされたんだよ」
「買わされたって、ねえ……そんな高い物でもないと思うけど」サヤは困ったような顔で肩をすくめた。
「こんなのおかしいって。母さん、こんなじゃなかっただろ? この家だってなんだよ? こんな、床を全部張り替えたりして……」頼斗はパステル調のタイルが貼られた床を見渡した。「おかしいよ。全部おかしい。一体どうなってるんです?」
頼斗が苛立った目をニセノに向けた。スーツできちんと決めたニセノのほうが、話せる相手に見えたようだ。都合が良いので、俺は作業員らしさに徹することにして作業を続けた。
「お義母さんは元からこういう感じのが好きだったよ」サヤがとりなすように言った。
「元からこうだったって? 元から?」
「そうだよ……部屋も、こういう飾りも、前からでしょ」
「前からっていつからだよ?」
「さっきの干支のお人形だって、私たちが結婚したときにはもうあったと思うよ。子年だから鼠の縁起物だって、見せられた覚えあるもの……床を張り替えたのもその直後でしょう」
「俺は知らない」
「だって貴方は外食の方がいいって、外で待ち合わせることが多かったから」
「それはでも、たまに会うときくらい美味いものを食わせてやりたくて……!」
頼斗はどこか言い訳じみた調子で言い返しながら、次第に項垂れて勢いをなくしていった。
俺は開封した段ボールの中身を簡単に確かめ、異常が無いとわかったものから順にまたガムテープで閉じて再度積み上げた。
埃をだいぶ浴びてしまった。アレルギー薬を飲んでいるのでくしゃみが止まらなくなったりはしないが、喉がヒリヒリして仕方がない。
「他に呪術の痕跡は無さそうです」俺は頼斗とサヤの間の空間あたりに向かって言った。
「あの、アレはどうすればいいんです?」頼斗は例の小部屋に続く廊下の方を見やって聞いた。
「お客様のご要望に合わせます。片付けたいなら片付けられるようにしますし、処分されたいなら処分できるようにいたします。そのままにしておくことも可能です。あの部屋に他のものを運び込んでも構いません。少し光が出ているようなので、近くに本棚なんか置くと日焼けの不安はありますが……まあそれでも、普通の電灯や窓からの日差しと変わりない程度のものです」
「結局、なんなのかわからないってことですか?」
「呪術的な面では、ただの光る飾りです。あと少し、吸音効果があります。あの部屋にいると雑音が聞こえづらい。それくらいです。詳しい意図については、置いた本人にしかわからないと思います」
頼斗は無言でゆっくりと溜息をついた。混乱した表情で何か考え込んでいるが、それ以上なんの結論も指示も出てきそうになかった。
俺一人でこういう状態になったときは、とりあえず追加の指示があれば後日連絡を欲しいと言って逃げ帰る。後日の連絡があるかどうかは五分五分だ。個人が使う家庭用の呪術なんて結局そんなもので、中身を知らずに放置したからといって大きな損害が出ることは滅多にない。だから、関係者の意志次第なところはあって、しかも、大抵の関係者はこれといった意志を持たないことも多い。
ニセノはどう捌くつもりなんだろうか。俺はほとんど帰り支度をしながら、彼を窺った。
俺と湖上夫妻が見守る中、ニセノは端末を取り出してその画面を見つめた。会社に連絡でもするのかと思ったら、ネットを見ているらしい。
「おい……」
「あ、ありましたね」ニセノは明るく言った。「フォーラムで情報を募ったんです。
「まさか、市販?」
「正規の市販品じゃないです。個人が有償で頒布している……ってとこですかね」
ニセノは画面を俺たちに向けて見せた。
あの小部屋にあるものとよく似た雰囲気のオブジェの写真が幾つも並んでいた。その合間に、非対称な形の黒いハットを被った男の写真が混じっている。色白で特徴が薄く、作り笑顔を貼り付けたような顔だ。
一番綺麗に写った上半身アップの写真には、胸の辺りに「SCA代表 村野真信」と記されていた。
「この人に会ってみましょう」
ニセノは胡散臭さ全開の笑顔で元気よく言った。
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