第二部

遺物

 二年分の埃が降り積もった廊下を、水拭き掃除機が進んで行く。がみサヤは玄関に立ったまま、それを眺めていた。


 灰色に沈んだ廊下の中央に、パステルイエローの一本線ができる。掃除機は廊下の奥に突き当たると自動で転回し、今度は廊下の右端に沿って引き返してくる。二往復すると廊下全体が本来の床の色を取り戻した。


 サバサバした装いと喋り方には似合わず、義母のゆいはこういう可愛い色合いや子供の玩具じみたインテリア小物が好きだった。ここを訪ねるたびに、意外な気持ちであれこれの調度品を眺めたものだ。


 つい昨日のことに思える。実際、最後に義母に会った日の夜に退に入ったわけだから、体感としてはつい昨日のことだ。ひと眠りして、目が覚めたら二年後。周りも全員、この二年を眠って過ごしているから、単に今日が「昨日」の続きだと考えても違和感はほとんどない。ただ、家や通りの荒れ具合だけが、本当の経過時間を示していた。


 廊下の埃を取り終えて、突き当たりのリビングに掃除機を移動させた。


 出窓に並んでいた数々の小物や食器棚の中身は段ボールに詰められ、綺麗に片付いていた。二年間放置しなければならない持ち物を埃や害虫から守るためだが、まるで身辺整理をしていったようにも見える。実際、義母もそのつもりで片付けたわけではないだろうが、自分が退避休眠から目覚めない可能性がゼロでないことは理解していたはずだ。死者の国での長い休眠は、当然ながら副作用があり、年齢が高いほどリスクは高くなる。すでにこのマンションの名義の書き換えや生前贈与も済んでおり、ほとんどの財産は夫のらいのものだった。頼斗には兄弟姉妹がおらず、義父も早くに亡くなっているので、揉める相手がいないのは楽だ。

 その代わり、押し付ける相手もいないわけだが。


 死者の国での休眠から自分の母親が戻らないと知ったとき、夫の頼斗の反応は驚くほど淡白だった。

「まあ、もう歳だしな」と言いながら小さく頷いただけ。

 元から理屈っぽい人間だし、長期間の退避休眠のリスクは皆が承知の上なのだから、頼斗にとっては今さら騒ぐことでもないのかもしれない、とサヤは考えた。

 しかし、生活を再開してひと段落がつき、いよいよ義母の住居にも手をつけるとなったとき、頼斗は当然のように「母さんが帰るまでの間、俺達で手入れしとかないとな」と言った。

「え?」お義母さんが帰ると思ってたの、という言葉をサヤは慌てて飲み込んだ。

「フアイの研究所がE再生機構の実用化の目処が立ったと発表してたよ。需要が高い技術だし、公金も投入されているから、動きは早いと思う」頼斗はニュース記事の受け売りのような内容を捲し立てた。

「公金のことはよくわからないけど」サヤは論点をずらしてお茶を濁した。

「わからないとか言ってられないよ、もう、新しい生活様式に、みんなで適応していくしかないんだからさ」

「……お義母さんの家は、いったん掃除しとけばいい?」

「うん。悪いけど頼んだよ」

 頼斗はサヤにマンションの合鍵を預け、慌ただしく出勤していった。職場やその取引先にも休眠から戻らない者がぽつぽついるらしく、しばらくは混乱が続くようだった。


 ニュースを見ても、そんな話題ばかりだ。この二年間の空白と、休眠から目覚めない人達の穴埋めをどうするか。社会が完全に落ち着くまでにはしばらく掛かるだろう。


 その点、家のことといえば二年分の埃と虫くらいなものだから、単純で気楽ではある。面倒な親戚付き合いがあるわけでもなく、近所付き合いもこの地域は淡白だ。少し気掛かりなのは、パート先から「正社員以外は一旦待機」の指示が出てしまい、当分は自分の収入がないこと。しかしそれも長引くようなら別のパートを探すだけのことだ。


 実際、頼斗が母親の死を認めようと認めまいと、暮らしに大きな変わりはないのだから。サヤは心の中で自分に言い聞かせた。それに、頼斗の言うとおり、休眠から戻らない人間を現世に引き戻す技術がいつか見つかる可能性はある。その望みを持ち続け、死者がいつか帰ってくるものと仮定して生き続けることも、間違いではないのかもしれない。「川」を行き来する技術が確立されて社会に取り入れられてから、全ては変わってしまった。その変化に適応して価値観を塗り替えていくことも必要なのかもしれない。


 リビングとキッチンの埃を取り終え、寝室も終えた。家具や段ボールの埃はまだ降り積もったままだし、掃除機が拭き残した所もかなりあるが、今日は一旦、全部屋を歩ける状態に回復するのが先だ。

 残りの一室は物置がわりになっている小部屋だった。以前見たときは床置きの荷物が多かったので、掃除機で拭ける範囲は少ないかもしれない。そう思いながらサヤは扉を開けた。


 小部屋の中央には、巨大な針金細工のようなオブジェが浮かんでいた。金属製のように見える黒い線が複雑に分岐して絡み合い、尖った腕を四方に広げている。全体としてはダイヤモンドの大粒のように、対称性のある無機的な形状だった。

 オブジェは空中でゆっくりと回転していた。支えるものがあるようには見えない。小部屋に以前あった様々な荷物は綺麗に無くなって、小さな窓も黒い板で塞がれていた。


「なにこれ」サヤは思わず口に出して呟いた。


 小部屋の床にも二年分の埃が降り積もっていたが、果たして掃除機を走らせて良いものかわからない。頼斗に相談したいが、仕事中に連絡するのも気が引ける。業者に来てもらえば良いのか。


 しかし、いったい何の業者を呼ぶべきだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る