誘惑の鏡

「そもそもこれは鏡じゃないんだと思いますよ」ニセノは無数にひび割れた姿見を覗き込み、その枠を細長い指でトントンと叩いた。


 姿見の枠は落ち着いた灰色で、木目調と唐草模様が混じったような地味なパターンが薄く印刷されている。ニセノはその上部の中央を指し、「ここにカメラが」と言った。


「ええ?」シュウノが椅子の上でギョッとしたように姿勢を正した。


 よく目を凝らすと、枠の模様にうまく溶け込む形で小さな穴が三つ並んでいた。

「スマートミラーか」俺は呟いた。


 要は大きな携帯端末だ。その画面にハーフミラーを重ね、鏡としても端末ディスプレイとしても、またそれらを重ね合わせた拡張現実ARディスプレイとしても使えるようにしたものだろう。


「これ自体、現実を映し出すものではなく、人が見たいものや見せたいものを恣意的に見せてくるスクリーンですよ。鏡に取り憑かれる人は昔からよくいたんですけど、スマートミラーに取り憑かれる人ってそれより遥かに多いんだそうですよ」ニセノは右手の人差し指と中指だけを伸ばし、ふわふわとした動作で鏡の枠にかざした。「彼女には一度亡くなった子供を育て直すという過酷な現実があり、目の前には見たいものを現実に重ねて見せてくれる誘惑の鏡がある。そして家には夫の仕掛けた呪術が溢れている……となれば、あと一歩だけ欲が出て、呪術を使って通常の技術では見られない夢を鏡の中に付け足したいと願ってしまうことも、十分にあり得そうです」


 ニセノが動いていないのに、割れた鏡に映るものがぐにゃぐにゃと揺れた。


 姿見の枠全体に、もともとあった唐草模様とは別の装飾が浮かび上がる。崩れた筆記体に矢印や星形のようなものが入り込んだ文が、途切れなく鏡の縁を一周していた。

 この仕事をしているとたまに見かけるやつだ。何処ぞの有名人が紹介したとかで、そのファン層に広まって局所的に流行した自作呪文。広まるのも早かったが廃れるのも早かったはずだ。


 思わず舌打ちしそうになる。「しょうもないことを……」

「え、なんて書いてあるんです?」ニセノが振り向いた。

 俺はそれには答えず、ニセノを押し除けて鏡の前に立った。


 手を伸ばす。鏡に向かって。


 無数に割れた鏡にはもう、何も映っていない。俺の姿が映るべき場所には灰色の靄がかかり、ゆっくりと波打っていた。


 鏡に突き当たるはずの俺の指はどこにもぶつからず、するすると向こう側に飲まれる。そのまま腕の付け根まで突っ込み、頭も中に入れて覗き込んだ。

「おーい」自分の発した声が遥か下に見える真っ白な床に反響した。


 つるりとした円筒形の空間を見下ろしたような眺めだ。中央に男が一人、身体を丸めて倒れている。意識はあるらしく、背中が微かに動いていた。


「倉橋さんですか?」俺は男に向かって声を掛けた。「そこにいちゃ危ないですよ」

 男は蹲ったまま、呻き声と啜り泣きの混じったような声をあげた。「……もう、ほっといてくださいよ……」

「いやいや。事情は知りませんけど。もしかして、クラリィ?」

「僕じゃありませんそれは」倉橋は苛立った声で言い返した。

「とりあえず元気なら良かった。ただそこは本当の空間ではないんでね、すぐに出てください。こちらに手を伸ばして」

「もういいんです」

「いや、そんなこと俺に言われましてもね……」


 いい歳の大人が何をやってるんだと思ったが、ニセノの話が本当なら倉橋は戸籍上は三十代でも、実際は肉体も中身も二十歳程度か。だからといって、じゃあ仕方ないとはならないが。


「倉橋さん。こちらの仕事は終わったんですから、お代は払ってもらいますよ」

 俺は言いながら肩までその空間に入り込んで倉橋に向かって腕を伸ばした。見かけ上はとても手が届くはずのない距離だが、ここは実在する空間ではないので距離自体にあまり意味がない。目を瞑って身を乗り出すと、指の先がベルトに触れる。手探りでベルト通しのループを探して引っ掛け、指を曲げて思い切り引っ張った。


 水中から陸に上がるときのような重たい感触を覚えながら、元の寝室に倉橋の身体を引き摺り出す。鏡から灰色の靄が消え、ひび割れた表面に倉橋の打ちひしがれた顔が映し出された。


「ふーん、この人がねえ」シュウノが素早く歩み寄ってきて、倉橋の顔を不躾に凝視した。「言っちゃ悪いけど、すごく平凡そうな人だ」

「こら」思わず子供を叱りつけるような声が出た。「俺のお客さんの顔にケチつけるなよ。なんの立場なんだよお前は」

「だって一時は有名な音楽アーティストだったんでしょ? この人が?」

「違うよ、そうならない道に進んだんだよ……」二度目の人生ではな、と付け加えようとしたが、本人の前でそう言って良いものかわからず、俺は口篭った。


「もう、いいんです」倉橋は俯いて弱く首を振った。「何もかも無駄でしたよ。無意味だったんです。僕の人生は」

「鏡の向こうに何があったんです?」シュウノが聞いた。

「なんにも。母がしまっておいた僕の写真とか、服とか、おもちゃとかそんなのです」

「成長の記録みたいなのですか。いいお母さんじゃないですか」

のものしか無かったんです。過去の、クラリィだったときの僕のものがあるかと……それをここに隠していたのかと思ったのに」

「そういうものを探してた? だからこんなに家じゅう散らかってるんですか」

「そう、でも、一個もないんですよ。本当に全部捨てたんですよ、あの母親は。そんなに、それほどまで、僕が音楽の道に進んだのが気に入らなかったんですかね? こんなに何もかも捨て去って……僕自身にすらその記憶がなくなって……それで満足なんですかね?」

「さあ」とシュウノは首を傾げた。「でも、クラリィの思い出がしまってあったらそれはそれで嫌じゃないですか?」

「僕の音楽を否定されたんですよ。存在そのものを無かったことにされたんですよ」

「何者でもない凡人として長生きして欲しいと望んだんなら、まあそれが良いか悪いかはわかりませんけど、親としてはまっとうに見えますけど……他人目線ではね」


 倉橋はすっかり意気消沈した顔で力無く立ち上がり、俺に短く礼を言って支払いについて聞いた。

「だいたいどの電子マネーも使えますけど」俺は自分の荷物から会計端末を取り出して説明しながら、ふと寝室を見回した。


 ニセノの姿がない。逃げ足の早い奴だ。


 俺に対しては毎度図々しいのに、こういう局面では空気を読めるらしい。もしくは単に、責任を追及されたくないということか。


 実際、俺だって同じだが、依頼されたことを遂行する以外に何かできるわけでもない。倉橋が音楽の世界に未練があるのなら、今からでもその道に進むことは実年齢的に可能なわけだし、親の意向とは関係なく好きに生きれば良いのではと思ったが、俺がそんな助言をする立場でもないし。

 それに、あの鏡の呪文はニセノが指摘した通り、使用者の望む幻を見せるものだ。当然ながら、倉橋があの中で見たものと同じものを彼の親が見ていたわけではない。こんな場所に意味深に隠すくらいだから、それ相応の何かを彼の親は鏡の中に見ていたはずだが、それを俺の口から指摘するのも野暮に思えた。依頼されていないことにまで口出しする必要はないだろう。


 それでも、一応、家の外壁に現れた大量の文については、携帯端末の訳文も見せながら心当たりが無いか聞いてみた。

「ああ」倉橋は訳文を数行読むとすぐに目を逸らした。「クラリィだったときに受けたマガジンのインタビューですよ。きっと父親でしょう」

 探し回っていたものが見つかったはずなのに、倉橋はますます疲れた目をして肩をすくめただけだった。




 帰り道は拍子抜けするほど単純だった。行きに長く歩かされたはずの住宅地内の道路はどこにもなく、すぐに大通りに行き当たって駅前へ出た。

「今日は疲れた顔、してるねえ」シュウノが言った。

「今日だ」と俺は言った。

「まー確かに今回のあれはさすがにね。ニセノさんも酷な仕事をしなさる。この前言ってたもんね、一番長い人で十年巻き戻したって……それがあの人だったわけか」

「さあな、他にも何人かいるんじゃないか? あいつ信念とか倫理とか無さそうだし」

「ふふふ」シュウノは呑気に笑った。「そういや、結局、鏡の中には何があったんだろう? 倉橋さんが見たものは、倉橋さんの見たかったものに過ぎないよね?」

「そう……まあ、解呪して調べることも、できなくはないけどな」

 もし倉橋からまた連絡が来てそれを依頼されても、全力で断りたい。どうせろくなものじゃないに決まっている。


 夕方だったが、食事にはまだ早すぎる時間だった。今日の日当がわりにシュウノに一食奢っても良かったが、飯の時間になるまでこいつと街で時間を潰すのもなんだかウザい。

 どうしたものかと考えていると、ふいにシュウノが携帯端末を見て「ああ、あーあ」と言った。

「え、なんだよ」

「緊急通知。出ちゃったね。そろそろ出そうな気がしてたんだ」

「ええ……」俺も慌てて自分の端末を見た。


 特別通知、政府、汚染嵐、緊急速報、急激な増大、退避、現世、予測……長くない簡潔な文章のはずなのに、目が滑って単語がバラバラに飛び込んでくる。どうせ読まなくてもわかっている。をまたやれというのだろう。もう何度目だろう。疲れ切って、うんざりして、諦めて、それが当たり前になって……


「藍村君」シュウノが心配そうに俺の顔を見ていた。「そんな嫌そうな顔しないで」

「嫌な顔にもなる」

「すぐまた戻れるよ。長い昼寝みたいなもんでさ」

「そうだけどさ」でも、目覚めない者は一定数いる。口に出すのも嫌なことだが。

 死者の国に渡って眠るということは、そういうことだ。普通の眠りではなく、それはやはり一度は死ぬということだ。


 今日までにもっと現世の今を楽しんでおくべきだった。毎度この「通知」が来るたびに思うことだ。わかっていても、忘れてしまう。いや、忘れるわけではないが、つい、まさか今日ではないだろうと楽観してしまうのだ。


 駅前の人混みがざわつき始める。急に立ち止まる者や向きを変える者、甲高い声で電話をしだす者や駅員に掴み掛かって何かを問い詰める者……そしてその合間をすり抜けるように、有象無象が自分の目的地に向かって足を早める。それぞれこの後のことに向けて準備と都合があるわけだが、最後に行き着くところは皆同じだ。


 今から二十四時間以内に、現世に生きる全員が死者の国に渡る。

 猛毒を運ぶ汚染嵐をやり過ごし、再び目覚めるのは二年後だ。

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