開かずの呪文開けます
森戸 麻子
第一部
依頼と偽物
死者の国へ行くにはフード付きのマントをすっぽりと被り、カボチャ頭の仮面をつけ、十月三十一日の時間線から「向こう岸」へ渡る。古典的なやり方だけどこれが一番確実なんだ。相方は既に着いていた。俺と同じようなフード付きのマントに、白く虚ろな目のついた仮面。三日月を寝かせて雑に縫い合わせたような、にやけ顔の口。
「前の顔はどうした」
「あれは飽きちゃって」と、シュウノは言った。仮装のせいで表情が分からないが、いつも通り機嫌が良さそうだ。
俺は別に死者の国専門の解呪業者じゃないが、ここに来るときはいつも顔と全身を見せずに動けるから好きだった。シュウノが付いてきてくれるのもなんだかんだで有難かった。彼にとっては現世のほうの仕事はさほど面白くないようで、誘っても渋られることが多い。
真っ黒な夜道を行くとやがて民家がぽつぽつと現われる。その景色は現世とさほど変わりない。依頼のあった家の門と玄関は開いており、俺たちは一応挨拶をしながら勝手に上がり込む。死者の国には時間の流れがないため、依頼者と普通のやり方で顔を合わせたり意思疎通をすることはできない。それに、俺の業務上はその必要もなかった。
居間の家具がすべて端に寄せられ、絨毯も目一杯剥がされていた。床の中央に大きな魔法陣。さらに、様々な色の文字が幾重にも書き足されていた。見たことのない文字だ。
「うわあ、ヒエログリフ」シュウノが呑気に感心したような声をあげた。
「なんだよそれ」
「エジプトの古代文字」
「ああ、いや知ってるけど」思わず舌打ちが出た。「また『自作呪文』か」
「ははは。また面倒な仕事?」
「………、どうかな」俺は言いながら、ふと彼をじっと見た。
白い仮面とマント。それでも、背の高さと声で彼だとわかっていた。待ち合わせの場所にいたし。
こんなことあり得ない、だって、まさか。気付けるはずがない。
「お前、シュウノじゃないな? 誰だ?」と、俺は言った。
「い、いやだなあ、ダンナ」
偽物はシュウノの声で、シュウノの台詞を吐く。あまりにもそっくりなので、確信が揺らぎそうになる。
俺は偽物を壁際の椅子に向かって突き飛ばし、その白い空虚な顔の仮面に手を掛けた。
抵抗しない。シュウノの仕草を「予習」してきている。だが、全身が竦んで強張ったのが分かった。大根役者め。
「死にたくないだろ?」俺は仮面を掴む手に力を込めて見せた。「両手を後ろに回して」
「あの」
「早く」
相手はおとなしく従った。
俺はそいつの両手首を簡易呪文で縛った後、家具の上に積んであった安物のポシェットを拝借して、そのストラップで物理的にも彼を縛り、椅子に括り付けた。
それから床の魔法陣に向き直った。まず、仕事を片付けなければ。
自作呪文のほとんどは既存の呪文をベースにしていて、よくある言い回しをオリジナルの言い回しに置き換えるという「対応表」ありきのものだ。そして結局は「対応表」を作る手間と覚える手間が煩わしくなるため、呪文の内容そのものは単純で紋切り型になることが多い。
マントの下から、ノートパソコンとデジカメを取り出す。そこらで買った普通の中古品だが、もちろん、この仕事用に改造してある。床の魔法陣を撮影して情報をパソコンに取り込み、「処理」をしてカメラに送り返す。その後、またカメラを床に向け、フラッシュを焚いて「逆写」する。魔法陣の周りに書きこまれていたヒエログリフが、見慣れた筆記体のアルファベットに置き換わる。可読性は上がったが、今ひとつしっくりこない。何度か処理と逆写を繰り返して、ようやく破綻の無さそうな呪文に置き換えられた。
想像通り、よくある単純な呪文だった。たわいのない趣味の素人仕事で、映像と音声とコメントが保管され、特定の合図をトリガーに再生されるようになっている。ちょっとした日記とかホームビデオの類だろう。
現世で受ける仕事も、この死者の国で受ける仕事も、九割がこんなものだった。素人が扱える簡易な呪術が大量に普及し、誰もが、新しい家電を買うくらいの気軽さで日常に呪術を導入するようになった。だがその結果、することといえば思い出の品物やデータの記録、手紙、ホームビデオ、あとはせいぜい家計簿や節約術くらいのところだ。そして、だいたい一般的な家庭において一家の全員が呪術に明るいことは稀で、作成した者が急死したり失踪したときなんかに、そこに残された呪文を操作できる者が他におらず、解除もできず、それが何を意味するのかも分からないので処分や整理もできない、といったことが起きがちなのだった。
俺は魔法陣に記憶されていた映像と音声を軽くチェックし、複写を取った。後で依頼者の要望を聞き取って、紙に印刷するなり、ディスクに焼くなり、呪術以外の方法で再生したいと言われたら対応するつもりだ。魔法陣のほうは、よりメンテナンス性が高い記法で書き直したものをノートに記録し、床に書かれたものは消去する。消去してこの部屋の呪術環境を「フラット」に戻したいというのが依頼主の要望だった。フラット、の意味を依頼者がきちんと理解しているようには思えなかったが、素人にごちゃごちゃ問い詰めるのも悪いから、ここは最大限に意図を汲んで――
「あのー……」縛られている偽物が口を開いた。
「何?」
俺は床拭きシートで魔法陣を消していた。特に何の変哲もない、掃除用のウェットシートだ。魔法陣に使われている塗料は水性のもので、おそらく普通の絵具だろう、乾いてこびりついているが地道に拭けば落ちそうだった。
「わたくしはこの後、どうなるんでしょうか」と、偽物が聞いた。
「待ってろ、シュウノの居場所を吐かせたらすぐ仮面を剥いでやるから」
「いやいや……」
「せっかちな奴だな」
「死にたくないです。わたくしは下っ端なのに」
「あっそう」
「知りたくないんですか? わたくしが何処に雇われているか」
「どうでもいいね」
「けど」
「会話して懐柔しようとしても無駄だ。お前は現世には帰さん。つまり死ぬ」
「スカウトに来たんです」偽物は必死な口調になった。「要は、あの、ヘッドハンティングというやつで。その前にお仕事の手際を確認させていただこうという、上の者の意向でしてこれは」
「ふーん」
ゴシゴシゴシゴシ。
俺は床をこすり続けた。床拭きシートを取り換え、塗料をふやかし、こそげ取る。
多少、時間はかかったが、魔法陣はやがて跡形も無く消えた。縛られている偽物は泣き出したらしい。仮面の下で鼻をすする音が聞こえて、それは演技ではなさそうだった。
「さて……」俺は簡単な報告書をまとめて、道具を片付け始めた。
「お願いします。現世に妻と息子がいるんです!」と、偽物は言った。
「はあ。それは自慢?」
「ち、ちが」
「あのね、よく知らん奴に付きまとわれて、いつ仮面を取られるか分からない恐怖を味わったのはこっちも同じなんだけど」
「すみません……すみません」
「なんでお前が被害者面なわけ?」
「すみません……すみません」
俺は思わず大きな溜息をついた。こういう、ただ単純に馬鹿な奴というのが俺は大嫌いだった。いくら問い詰めたところで口先で謝るだけで、俺が怒るのをやめればせいせいした顔をして去って行くだけだ。一ミリも反省なんかしない。だって馬鹿だから。
とにかく依頼人の家にこんなゴミを置いていけないので、椅子に括り付けていたストラップは解き、外に連れ出した。
夜の住宅街。死者の国はいつも夜だ。現世と変わらぬ街並み。ただ、家々の隙間を埋めるのは闇、空には星も無い。
仮面を取れば、現世には戻れない。形が保てなくなり消えてしまう、と説明されることが多い。それは「目撃者」の言い分であり、つまり、現世的な時間の流れの中にいる者には、その流れから外れた者は消えたように見えるのだ。流れに取り残された死者にとっては、生者の方が消えたように見えるはずだ。
俺はまだ簡易呪文で偽物を後ろ手に縛ったまま、路肩の電柱のところまで連れて行き、そこで足も縛った。
「もう、許してくださいよお」偽物はまためそめそ泣きだした。
「シュウノの居場所を言え」
「言ったら殺すでしょ?」
「言わなくても殺すぞ」
「うう」
「早くしてくれよ。めんどくせえ」俺は偽物の仮面にまた手を掛けた。
「ちょっ、ちょっと、あのつまり、現世です! シュウノさんにわたくしどもは何もしてませんよ!」
「じゃあなぜ彼がここに来ていない?」
「メールに細工をしたからです! 本当です、これは誓って本当です! マジで殺さないでください!」
「シュウノに偽のメールを送って、俺にも偽のメールを送って、行き違いを引き起こしたのか?」
「そうです、本当にそれだけです。シュウノさんは家にいらっしゃいます。それか、何かご自分の用事か。本当です。これは本当です」
「本当だとしたらそれも大問題だよ」
今までのメールアドレスは余所から監視されて自由に弄れる状態だったということだ。破棄して新しいのを取り直すしかない。小規模な自営とはいえ、仕事用のメールアドレスだ。死ぬほど面倒くさいことになる。
腹いせに目の前の偽物をぶっ殺してやりたかったが、その後味の悪さを引き受けるのも嫌になるほどの小物ぶりだった。こんなしょうもない奴のために自分の手を汚したくない。いや、もしかしたらそう思わせるための演技なのかもしれない。だとしたら、確かにシュウノのふりも上手だったし、こいつはプロの役者なのかもしれないな。
「なぜこんな手の込んだことを……」
「知りたいですか? わたくしは」
「いや、教えてもらわなくて結構」
俺は両手両足を縛ったそいつを電柱の前に立たせたまま、歩き出した。
「あの、ちょっと、解いてくれないんですか?」
「そこで待ってろ。シュウノの無事が確認できなかったら戻ってきてお前を殺す」
「無事ですよ。完璧に無事ですよ」
「じゃあ殺されなくて良かったな」
「彼の無事が確認されたら、戻ってきて解いてくれるんですよね?」
「そんなわけないじゃん。無事ならお前に用は無い」
「じゃあ、わたくしはどうなるんです?」
「知らんがな……」
簡易呪文だからそのうち勝手に解けるだろう。偽物はまだぎゃあぎゃあ騒いでいたが、俺は聞こえていないことにして足を速めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます