アーニー

 僕の兄はサディストだった。父も母もいい人で、鈍感だったから、兄の本性には僕以外誰も気づいていなかった。僕は両親の見ていないところで、兄に傷つけられた。

「アーニー。お前は野垂れ死ぬ運命なんだよ」

 ニヤニヤしながら兄は僕の耳をひっぱった。

「痛い……! やめてよ、お兄ちゃん」

「そんな哀願で俺がやめると思うか?」

 手の甲をつねられる。兄は跡が残らないように痛い思いをさせるのが上手かった。

「……どうしてお兄ちゃんは、こんなことをするの……?」

「お前が嫌いだからさ」

「嫌いでもいいよ……でもこんなことするのは間違ってる」

「アーニーのくせにお説教か?」

 つねる力が強くなって、僕は泣いた。父と母に言っても、二人は僕がまた冗談を言っていると思っていた。

「アーニー、お兄ちゃんは遊んでくれてるのよ」

 母は笑いながら言った。

「そんなこと……ない。お兄ちゃんは僕の手の甲をつねるんだ」

「そんな痛いことないでしょう? お兄ちゃんはあなたを愛しているのよ」

 親に話が通じないことほど地獄なことはない。親は現実を見ない楽天家だった。僕は早く家を出たかった。次男だから、修道院という道があった。これ幸いとばかりに、僕は16歳になってから家を出た。


 開放感しかなかった。友達もたくさんできて、僕は修道院でこの世の春を味わっていた。こんなに楽しいところはないと思っていた。しかし、ダリアは違ったようだ。彼はいつも硬い顔をしていて、周りに馴染もうとしなかった。修身はいつもいい成績で、規律をきっちりと守っていた。僕はそんな彼が気になって、何度か話しかけた。

「ダリア、あっちで遊ぼうぜ」

 そう話しかけると、ダリアは困ったような顔をして言った。

「お誘いはありがたいけど……僕はいいや。部屋で勉強しようと思ってるんだ」

 そう言って、彼はスタスタと行ってしまった。友人のジェイドが僕の肩に腕を置いて言った。

「ダリアを誘っても無駄だぜ。アイツはお堅い聖人だから」

 聖人というのはそうかもしれない、と思った。まさか、彼が人知れない悩みを持っているなんてつゆほども思わなかったのだ。


「アーニー。今日の沐浴が終わったら、祭壇前まで来て」

 ダリアからそう思いつめた目で告げられた。僕は反射的に頷いていた。

「分かったよ、ダリア」

 するとダリアはくるりと背を向けた。短い猫っ毛が綺麗だった。僕は何か儚さのようなものと、一抹の不安を感じた。


「よく来てくれたね、アーニー」

「君が初めて誘ってくれたから」

 するとダリアは寂しそうな目をした。

「これから僕、告解をしなくてはならない……君相手に」

「告解?」

「そう。……僕は実の兄を愛していたんだ」

 その時の僕の驚きは大きかった。

「……お兄さんを?」

「そうなんだ。ドォムっていう。優しくて、強くてユーモアセンスのある素敵な人さ」

 僕は驚きながらも、じわじわと羨ましさを感じはじめていた。僕の兄とは違う。そんな、恋をしてしまうほどに素敵な人だなんて、羨ましい。

「変だと思うかい?」

「ううん、羨ましいと思った。僕の兄とは随分違うみたいだから」

 どこかダリアはほっとした顔をしていた、ような気がする。

「でも、実の兄さ。同性だし身内。この恋は叶うはずもない」

「……」

「僕はこの恋を終わらせることにしたのさ。だからこうやって君に話してる。ほんとにありがとう」

「僕でよければ……」

 それから僕はダリアの話と、恋心についての話を聞いた。話し終わった彼は、ほっとため息をついて言った。

「これで終わりにしようと思う」

「……楽になったかい?」

「うん。とても」

 だから、だから僕はダリアがまさかあんな選択をするとは思わなかった。いったん聖堂を出た僕は、ざわざわとする気持ちに従って、また聖堂の扉を開けた。

「ダリア」

 返事がない。もう帰ったかなと思う。でも、いないことを自分の目で確かめたくて、祭壇のほうに歩いていった。そこにはダリアがいた。ほとんど虫の息になったダリアが。

「……ダリア!!」

 僕が駆け寄り、彼を胸に抱くと、ダリアは焦点の合わない目で僕を見た。

「……アー……ニー」

「どうしてこんな……」

 鮮血が僕の服を濡らしていった。

「……馬鹿!」

「アーニー……覚えて、おいて。僕は愛に死んだのだと……」

「そんな……! 生きなくては伝わる想いも伝わらないだろう!」

「伝わらなくていいんだよ……兄を、困らせる、から」

 ダリアの口端から一筋の血が流れ落ちた。

「でも僕は証明したかった……僕は愛に死ねるのだと。同性愛も自殺も禁じたこの国で、その両方に背いて、自分の意志で死んでいくのだと」

「もう話すな! 今から止血するから」

「ありがとう、アーニー……僕の話を聞いてくれて。関わろうとしてくれて」

 ダリアの指が僕の頬に触れた。僕は彼の手を衝動的に両手で包みこんだ。

「ダリア……君がつとに真面目だったのは、お兄さんのことがあるからかい」

「そう……自分は罪を犯しているのだと、最近まで思っていた。でも、真実の愛が罪なはずはない。そう気づけたから、よかった……」

 ダリアは目を閉じてぐったりとした。大声を聞きつけて、年上の修道士が聖堂に入ってきた気配がした。僕はずっとダリアの傷口を押さえていた。

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