19話
気を失っていたアリス。激しい揺れに体を上下されて意識を取り戻した。
「アリス! 大丈夫か、痛みはないか!」
すぐに気づいたヒヅキが身を案じて声をかける。彼女の体も上下に連れていた。
外傷でいえばアリスは殆ど無傷。反面、ヒヅキは深手を負っている。人の心配をしている場合なのか、と問いたくなる。反射的に自己より他を優先する性分なのだろう。
「動けそうには、ないですけど……大丈夫です」
アリスは体を動かそうとするも、節々が悲鳴を上げた。金色の獅子を生み出したこと、そして獅子に力を送り続けたことで体力を消耗しきったらしい。倦怠感も伸し掛かるが、心配かけまいと笑顔を見せ気丈に振る舞う。
「ラムちゃんは……」
意識を失う寸前の記憶を思い出す。夢であってくれたら、と願わずにはいられない。体力より、心の傷の方が甚大だった。
「アリスは、立派だった。今はまだ、考えなくていい」
アリスはこの傷を生涯忘れることはないだろう。同じように力を持って生まれて、同じ人に恋をした。一緒に過ごせばもっと仲良くなれた。もしかすると、喧嘩もしたかもしれない。そんな可能性を潰したのが自分であると、向き合い続けなければならない。時が風化させることもなく、思い返しては傷つき続ける。
ならばせめて今くらいは、自分の心を労わってもいい。
「……ありがとうございます」
ヒヅキの気遣いが、あの戦いは夢ではなかったのだとアリスに実感させた。
気丈に振舞おうとしていた心が決壊する。
「う、うぅ……」
啜り泣くアリス。涙が枯れ果てるまで、その音が止むことはない。
それを横目に見るヒヅキの目元も腫れている。アリスに悟られないよう、淡々と声を出すことすら苦しかった。少しでも気が緩めば、声が掠れてしまいそうで。
ヒヅキとアリス、そして未だ目を覚まさないデイタ。三人が揺れているのには訳がある。
三人は今、ゴリラに担がれていた。決着が着いた後どこからか現れ、三人を運び始めたのだ。デイタの抱え方だけ、やけに恭しいのは気のせいか。
「君たちはどこに向かっているんだ?」
「ウホ、ウホホ」
ゴリラ語はわからない。ヒヅキの知るところではないが、アリスならゴリラとも会話ができる。しかし悲しみに暮れる今は、何も聞こえていないだろう。
世界中に現れた裂け目、ホロウは拡大し続け、既に不気味な白が世界を染め上げようとしている。プテラがそこら中に蔓延り、白き異形の支配する世界に様変わりしていた。
ゴリラたちは瓦礫にまみれた街を、勝手知ったる森の中のように、軽快に進む。
道中プテラが何度か攻撃をしてきたが、執拗に追いかけてくることはなかった。
そうして少しずつ街を離れ、やってきたのは。
「街からそう離れてもいない場所に、こんなところが……」
ヒヅキが呆気にとられるのも仕方がない。
崖に囲まれた、凍り付く池の水面。ところどころ割れていて、揺れる水面に合わせて氷が動く。
森の木々は雪を被り、風が吹く度粉雪が舞う。
そして見上げるのは、大樹。白に侵食され、腐敗し朽ちゆくその異様は絶望を掻き立てる。まるでこの世界の現状を映し出しているようで。
言葉を失うヒヅキを現実に引き戻したのは、横から聞こえた足音。
「貴様……生きていたのか」
顔を向けたヒヅキの視界に映ったのは、腹部の傷を押さえて歩くコウガの姿だった。
「ゴリラの上から挨拶たあ、偉くなったもんだな」
憎まれ口を叩く余裕は辛うじてあるらしい。
「何をしに来た」
冗談に付き合う気はない。
「グルフォスが消されちまったんで、この世界から出るにはお前らに便乗するしかなくなったんだわ」
「この世界から出る方法を知っているのか?」
「あ? てめえは知らねえのかよ。そこで寝てるガキが世界枝を繋ぐ穴ぶち開けれんだよ」
コウガは顎をしゃくり、デイタを示す。
「デイタが……」
未だ目を覚まさないデイタを見て、コウガの言が真実か思案を巡らせる。
「そいつらといてなんも知らねーんだな。ちなみにそっちのガキは別の世界枝の化け物だぞ」
目を向けられたアリス。啜り泣いていたが、隠そうともしない嫌悪感をぶつけられて、漸くコウガに気づく。
「お、女騎士さん。この人は……?」
「敵だ」
ヒヅキが端的に伝える。
「敵……もしかして、あなたがラムちゃんを……!」
ヒヅキが敵と断言する人物。それが何を示すのか。おそらくこの状況を引き起こす一端を担っていた人物だろうと思い至る。ならば、ラムを追い詰めたも同然だ。
アリスが怒りを剥き出しにする。普段より幾分低い声が響いた。
「おいおいてめえが俺を責めんのは筋違いだろ。てめえと接触してあの化け物に埋め込んだ装置が外れたから、計画の実行が早まったんだからよ」
「え……」
悲劇の幕を開けたのは、アリスだった。そう言われて頭が真っ白になる。
「真に受けなくていい! 遅かれ早かれこいつらは実行していた!」
ヒヅキは、蒼白になったアリスからコウガへ視線を戻し、射殺さんばかりの視線を向ける。
その声は、アリスに届かない。
「まあそうだろうな。だがタイミングが違えば結果も違ってたかもしれねー。この結果に導いたのはそのガキで間違……」
つらつらと並べ立ててアリスの心を追い込む。
その時。
満身創痍の者が多い中、大きめの影が動いた。
飛ぶように肉迫したゴリラ。その渾身の拳が、コウガの腹にめり込んだ。ゴリラの背後にデイタを幻視するような、野性的な一撃。
すでに死に体だったコウガが吹き飛び、木々に体を打ち付けながら遠ざかっていく。
ヒヅキは目を瞬かせてその光景を見ていた。そして数瞬の硬直の後、アリスを見る。
アリスは、失意に染まっていた。只管に己を責める。放っておけば、自身の心を殺してしまいそうな危険な状態。
引き戻さなければ、とヒヅキが声をかけようとする。
「痛っ……」
だがヒヅキが口を開く前に、デイタが意識を取り戻した。まだ体を動かしてもいないというのに、デイタの全身に激痛が巡る。顔を歪ませ、思わず声を漏らす。
「「「「「ウッホー!」」」」」
デイタの覚醒に気づいたゴリラたち。感動のあまり、デイタを囲んで跳ね回った。リズミカルなステップに、拍手とドラミングを合わせる。
デイタは呆気にとられたが気を取り直すと、ゴリラたちの反応も他所に周囲を見渡した。
一人、居て欲しい少女がいないことに気付くまで、そう時間はかからなかった。
アリスと、特にヒヅキも満身創痍で決して安心できる状況じゃない。
デイタが意識を失っている間に何が起きたのか。気にはなるが二人の泣き腫らした顔を見ると、今聞くのは躊躇われた。
「ここまで連れてきてくれたのか。ありがとな」
大樹の元まで運んでくれたゴリラ諸君に感謝する。
ゴリラたちが感涙に咽び、誇らしげに胸を張った。
「よっ」
デイタがゴリラから降りて自分の足で立つ。目を背けたくなる数々の傷も、怪物から戻った後に現れた黒い罅も、未だ強烈な痛みを伝える。
「デイタ!? まだ動くな!」
気づいたヒヅキがゴリラの上から身を案じる。デイタの体は明らかに絶対安静を要する。怪我の惨状だけでももちろんだが、得体のしれない黒い罅が凶兆のように思えてならない。
「デイタ……? 大丈夫なの!?」
自責の念に押し潰されていたアリス。もう起きることは無いかもしれないと思っていた、大切な人の声。縋る様に無事を確認した。
「んー、ちょい痛いけど寝たら治るくらい」
そう言ってアリスに手を伸ばす。
「こっちやべーから早く帰ろーぜー」
デイタの左手がアリスの右手を掴む。
アリスは一瞬動きを止めた。
「……うん」
しかし何でもないように取り繕う。デイタに引かれるまま、アリスも自分の足で立ち、二人で大樹の根本まで歩く。
そしてデイタが幹に指を差し込み、強引に開いた。
真っ白な空間が覗く。
世界枝を繋ぐ時空の狭間。
「女騎士も早く来た方がいいっすよ」
「あ、ああ」
デイタが振り返る。
信じがたい光景に固唾を呑んでいたヒヅキ。乾いた返事をしてゴリラから降りる。痛む体に顔を顰めつつ、デイタたちのもとへ足を運んだ。
「これに、入るのか……?」
異質すぎる空間。踏み込んだが最後、そこへ囚われてしまうような不安がどうしても拭えない。
ヒヅキはゴリラに運ばれる前、一瞬だけ意識を失っていた。その後目を覚まし街の様子を眺めていたが生存者は一人たりとも見当たらなかった。しかしまだどこかに生存者がいるかもしれない。自分だけ逃げていいのだろうかと葛藤する。
「怖いんすか?」
しかし後輩の生意気な挑発に青筋を浮かべた。
「貴様こんな時に……」
わなわなと怒りに震えるヒヅキ。
デイタは一旦アリスの手を離し、ヒヅキを引き寄せた。
「痛っ、何を……」
痛む体を強引に動かされ、文句の一つでも言ってやろうとした。
デイタはそんなヒヅキの背を押し、白い空間に突き飛ばした。
「ちょ、おい!」
ヒヅキが突っ込んでいくのを確認して、デイタが口を開く。
「よしっ、俺らも行くか」
「あとで怒られるよ」
アリスが小言をいいながら進む。デイタに促され先に足を踏み入れた。
するとその背が、優しく押された。
「……え?」
予想だにしない出来事。突然加えられた力に抵抗できず、アリスは白い空間の奥へと進んでしまう。
「俺まだやることあるから、あとで行くわ」
笑顔で告げるデイタ。
「あとでって……もう時間なんてないよ!」
こちらの世界はもう殆ど崩壊しかかっている。時間的猶予は極僅か。プテラたちの襲撃から最後まで残されるであろうこの場所以外は、もう大半が白に埋め尽くされている。悠長なことを言っている場合じゃない。危険だ。
デイタのところへ戻りたいが、足の踏み場もなく浮遊感に満たされるこの空間ではそれもできない。
「じゃね」
アリスのことを思い、いつものように優しく語りかける声。
反論も意味を成さず、デイタの意志を変えることはできないと悟る。
「絶対、生きててね」
帰ってきてとは言わない。それが難しいことだってわかってる。
だからせめて。どこにいてもいいから、生きていてと。
アリスには祈ることしかできないから。
「もち!」
デイタは安心させるように、声に自信を乗せた。
そして振り返りゴリラたちに目を配る。
「お前らも行っていいぞ」
ボスからの提案だが、ゴリラたちはブルブルと首を横に振った。残るつもりらしい。
「アリスのこと、頼むよ」
デイタのことを抱えていた、群れのリーダーらしき個体の頭に手を置く。
それは以前、動物園にてデイタがボコボコにしたボスゴリラ。
「ウッ……」
ボスゴリラは唇を噛む。
しかし、躊躇ったのは一瞬。すぐに自身の胸を力強く叩いた。
ゴリラたちが、ボスゴリラに続いて胸を叩く。
共に残りたいという己が意志を曲げ、託された思いをその身に刻む。その清らかな瞳に宿った誓いの炎は、デイタを満足させるのに十分だった。
「鼻くそ投げてた時とは大違いだな」
おっさんの様に寝そべっていたボスゴリラを思い出して笑う。あれから少ししか経っていないのに、見違えるほど頼もしい。
「任せた」
「「「「「ウッホ!」」」」」
ゴリラたちが白い空間に雪崩れ込む。
それを最後に、大樹に空いた穴は塞がっていった。
放り出された白い空間。アリスは自身の右手を抱いて、涙した。
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