12話

 通学路を行くラム。


 幾つもの視線が無遠慮に注がれていた。何を思うのか、ラムを見て小声で話している。情報端末を見て何かを共有しながら、驚き目を見開くもの、一笑に付すもの、気味の悪いものを見たように眉を顰めるもの。


 それらはラムの心へ不快感を伴って入り込んでくる。


 内にある罪悪感が視線に対する認識を歪め、僅かな悪意すらも逃すことなく肥大化させていった。


 他人、そして自身に対して。逃げ場のない嫌悪感に突き動かされ、早足になった。


 玄関で靴を履き替える。漸く足に馴染んできた上履き。履きやすくなったことを実感して教室に向かう。


 席に着き、学生鞄を下ろして情報端末を操作する。調べたいこと、気になることがある訳じゃない。ただ、周囲のことは気にしていない、話しかけるな、と知らしめる為のポーズに過ぎなかった。


「……!?」


 しかしラムは今朝更新されたばかりの記事を見つけて、息をのんだ。鼓動が鬱陶しいくらいに主張してくる。それは記事をスライドし目を通していくにつれて、更に激しさを増した。この記事がラムという人間を終わらせることのできるものだと。


 記事に挿し込まれた動画をタップする。するとデイタとともに映る、初老の姿をした男の体にノイズが発生する。ノイズが収まると、初老の男は神に祝福されたかのような、顔のパーツが奇跡的なバランスで整った少女へと変貌を遂げていた。


 そこには、ラムの変身能力の一部始終が収められていた。


 色街で変身を解いた時、周囲の警戒はした。だが危機管理意識が足りなかったかもしれない。


 ただ、それ以外の動画はなんだというのか。


 更に関連して公開されたいくつもの動画には、これまでにラムが変身してきた姿が映っていた。変身後の姿である人物が、その後に辿った結末まで綺麗にまとめてある。そして記事は最後に、ラムの姿を変える力と一連の騒動の関連性を問うて締め括られていた。


 基本的にラムが変身能力を行使するのは、依頼者、つまりこの国の上層部の何者かが用意したホテルの一室だった。部屋は依頼の度に別のものを用意されている。


 ではその内部を撮影された動画が出回っているのは何故……


 悪寒が背筋を伝い、嫌な汗が滲む。動悸が激しさを増し、強く脈打つ度に寿命が縮まっていくような強迫観念に駆られた。


 だが、幾らでも言い訳ができそうにも思える。そもそもラムがノイズを纏い変身する姿を見て、合成やCGの類であることを疑わない方がおかしい。性質の悪い悪戯だと一蹴されて終わりだろう。


 その記事に、防衛大臣からの証言が載っていなければ。


 焦燥感で目が回りそうになる。


(こんなことをして、あいつらに何の意味があるの!? そんなに私を処分したいなら、これを使えば済むのに、なんで……!?)


 胸元を押さえるラム。


 思考は巡る。しかし目的地はどこにも無い。当てもなく行き交い、同じ場所をさまようだけ。依頼を受けないとは言ったが、だからといってこんな記事を出す理由が分からない。ラムが憎いのなら、危険視しているのなら殺せばいい話だ。一人殺すくらいなら、どうにでも揉み消せるのだろうから。


「見た目変えれんなんてすっごいね~。ほんとはブスだったりして」


 隠そうともしない、嘲りを含んだ女生徒の声。


 防衛本能か、無意識にシャットアウトしていた周囲の声。だが一つ耳にした途端に、喧騒が鮮明に聞こえてきた。


「どんな人にもなれんなら、役者としては最強じゃね?」


「凄いけど別にいらないだろ。役者ってたくさんいんだから、わざわざ姿変えさせるくらいなら合ってる役者探したほうが安上がりだろうし」


「確かに。じゃあ、もう死んじまった人の役とかならどうよ。実話を基にしたやつ」


「それなら替えが利かないか……? でも権利関係どうすんだ?」




「これってE3T2Bの偉い人だよな? 風俗行ってたとかで叩かれてた……」


「え、なら行ってたのはラムで、幕僚長は冤罪ってことになんね?」


「よく見ろ書いてんだろ」


「騒動の後に自殺した議員もいんじゃん」


「うーわ、これあいつが嵌めたのか。クズかよ」




「人に化けれんのって犯罪とか向いてそー」


「俺ならお前になって全裸で走り回るわ」


「ふざけんな」




「お前がほんとはラムだったりしてな」


「なわけねぇだろ」




「どんな神経してたらこんなこと出来んだよ」


「ガキの頃から芸能界とか入って人の顔色伺ってたら性格歪むんじゃねーの?」


「自分のせいで人死んでんのに平気な顔してるとか終わってんだろ」




 皆、好き放題に語る。その力があればどんなことができるのか。その力でどんなことをしてきたのか。彼ら彼女らの認識しているラムという少女の姿は、果たして本物なのか。


 ラムが悪である以上、彼らの言動は須らく正義。そう信じて疑わない。攻撃性の枷が外れ、言葉の選択をやめた。


 言葉と視線に込められた感情が膨らんでいく。嫉妬、嫌悪や好奇心、それぞれがラムに抱いていた底意を都合よく詰め込んで。


 悪意がラムに纏わりついて離れない。振り払うことも、逃げ切ることもできないドロドロの何かがラムを覆い、汚染していく。怖気立ち、胃の内容物が込み上げてくるような生理的嫌悪感。


 これまで騙してきた人の顔が、濁流のように思い起こされる。その中には、既にこの世を去ったものもいた。


 陥れた人間が精神的に追い詰められ、自殺した時だ。


 ──ラムが校舎の屋上に立つ決意をしたのは。


 ラムは勢いよく立ち上がる。ガタッと音を立てて椅子が倒れるのも構わずに、駆け出した。


 最も隠したかった、知られたくなかった自身の醜悪さ。それを、知られてしまった。


 周囲の全てが敵に見えた。いつラムに凶器を突き付けてくるかわからない。心が、悪意に押しつぶされてしまいそうだった。血の気が引き、無理矢理にでも動かないと体の震えを抑えられなかった。


 集まっていた人垣を抜けて、教室から出る。この小さな箱が牢獄のように思えてならなかった。だが抜けた先も……箱の大きさが変わっただけだった。


「ラム!」


 呼び止められ、足を止めて振り返る。


「ヒヅキさん……」


 生徒たちを押しのけて駆け寄ったヒヅキは、ラムの肩に手を置く。


 ヒヅキがラムの力を知ったあの日。


 プテラを前に、何もかも諦めたような顔で動かなかったラム。けれどその体が震えていたことを知っている。


 対話の中で、耐え難い境遇すら笑顔で誤魔化す人だと知った。


「辛かったろう。今はもっと辛いはずだ。あれが君の本意でないことくらいわかる。勝手なことを言う生徒たちは、私が必ずやめさせるから! 他に何かしてほしいことはあるか? 力になる……!」


 ラムを射抜く、真剣な眼差し。


 世の中に、こんなにも真っすぐで、優しくて、正しい目をした人がいたのか、とラムが困ったように苦笑する。


(その目に私は、どんな風に映ってるんだろ……)


 きっと、ラムには暗く見えているものですら、光っているのではないか。


「ありがとうございます……私は、大丈夫ですから」


 ラムはヒヅキを直視できなかった。


 人を騙し続け、挙句の果てには、自殺にまで追い込んでしまった。結局死ぬこともせず、同じことを繰り返す愚かで浅ましい自分。ドロドロとしたものを被り、暗いところにいるラムには……眩しすぎて。


 そんな瞳を向けられることすら、苦しいから。


 ヒヅキの手をそっと下ろして走り去る。


 ヒヅキはその背を見て立ち尽くすことしかできなかった。ラムの肩に置いていた手は、結局何も掴めず垂れ下がる。最近になって、己の無力さを痛感させられてばかりだ。あの笑顔が虚勢だと知っている筈なのに、その仮面を外すことができない。


 人込みでノイズが走り、ラムが他の生徒として紛れ込む。


 そして誰もがラムを見失った。


 ◇


 うるさい鼓動に急かされて走った。


 怖い。見ないで。


 胸の内で、それだけを何度も叫びながら。


 誰もいない、遠いどこかへ。


 しかしどこへ行こうと、ラムの力を曝した連中は発信器を辿れる。もっと言えば、連中の匙加減、気分一つでラムを殺せる。スイッチを押すだけでいい。幼いころに装置を埋め込まれた時から変わっていない。


変わったのは、ラムが今逃げたいと思っていること。退路を探すようになって初めて、他の道が塞がれていることに気づいた。違う、本当は気づかないふりをしていただけ。


 デイタ、アリス、ヒヅキ。最近親しくなった顔が過る。彼らは、ラムに手を伸ばしてくれた。


『嫌なのにやってんのはなんで?』


『なんでも言っていいからね。絶対力になるよ!』


『何かしてほしいことはあるか? 力になる……!』


(誰かの手を取ってたら、苦しいのも、辛いのも、悲しいのも、痛いのも。少しか、マシになったの……?)


 けれど、差し出された手を取らなかったのは、ラム自身だ。


 みんなの次に思い浮かんだのは母の姿だった。ラムの力が発覚する前、そして仕事をさせられる前。ラムを普通の女の子として愛してくれた、優しかった頃の母は、もういない。いるのは無理矢理ラムの手を取って嫌いなところへ引っ張っていく母だけだ。


 そうして母を思い浮かべて、気づく。


 ラムに向けられた感情、悪意。その矛先が向けられるのは、ラムだけだろうか。


 世間を賑わせる騒動の渦中にいる人物。その親族に、どういう行動を起こすのか。なんの気なしに見ていたニュース番組を思い出す。たしかその時はカメラとマイクを持った人間が押しかけていたのではなかったか……


(お母さん……!)


 それに気づいた時には、体が動いていた。


 自宅に向かうと、人だかりができていた。かつてラムに陥れられた被害者や記者が押しかけ、警察がそれを必死に止めている。


 そのままの平凡な女生徒の姿では、警察に止められてしまう。かといってラムの姿に戻れば、家にたどり着く前に逮捕されてしまう。


 だったら。


 ノイズが発生し、晴れる。そこ人の姿はなかった。


 一匹の黒猫が颯爽と人だかりの足元を抜ける。ラムの家に向かって駆け、ドアに向かって跳び込んだ。黒猫は空中でノイズに包まれ、続いて鼠が現れた。鼠がドアポストに体当たりして侵入を果たす。内側に備え付けられた郵便受けに転がり落ち、体を打ち付けながら脱出する。


 玄関に飛び降りた鼠が変身し、片膝を付いたラムが現れた。


 靴は、ある。人が押し入った形跡もない。


 母が家にいることを確認し、廊下を走る。早く、無事を確認したい。


 父親を引き剥がし、自分は仕事を辞めてラムの稼いだ金で自堕落に過ごしている。そんな母など、決して好きではない。


 それでも体が動いたのなら、それは本心と呼んでも良いのかもしれない。多くの人間を演じ、自分すらわからなくなったラムでも、自信をもって「これが私の気持ちだ」と言えるのではないだろうか。


 気づくことさえ、できたのなら。


 ラムは、テレビの音が漏れ聞こえる居間の扉を開けた。


「お母さん!?」


 居間に入るなり、倒れる母を見つけて叫んだ。


 返事をしない母に駆け寄ろうとして、咄嗟に足を止める。


 男が、ラムを見ていた。爛々と怪しく輝く目で。


 その狂気に満ちた視線に、ラムの身が竦む。息が詰まり、喉からヒュッと空気が漏れた。今まで受けていた纏わりつく視線とは違う、暴力的な視線。何を仕出かすかわからない恐怖に、身の毛が弥立ち、震えが止まらなかった。乱れていた精神に更に負荷がかかる。


 床にはチャック付きの小さなビニール袋が落ちていた。その付近には白い粉が散らばっている。


「ラ……ム……」


 母が声を絞り出す。痛む体。口を動かすのも、意識を保つことさえ億劫なその体で、娘を呼ぶ。そして、


「なんで、普通の子に……産まれてくれなかったの……」


 母に駆け寄っていたラムの足が止まる。その言葉は、呪詛のようにラムの心を侵食していった。父ではなく、母がそれを言うのか。ラムには母が何を考えていたのか、分からなかった。


 優しさを受けることは無くなったけれど。それでも母の心に、少しくらいは愛情と呼べるものの欠片が残されていると、そうどこかで信じていた。


 しかしそれは間違いだった。


 言葉を失って立ち尽くす。


 男が母を蹴りつけた。


「ったくよぉ、こいつが、チクりやがったのかと、思ったじゃねぇか」


 喋りながら、何度も蹴る。その度に、悲鳴も上げられなくなった母の体が揺れた。表に警察が集まった理由を勝手に勘違いしただけの、身勝手な暴力だった。警察はラムの身柄を拘束しに来たのであり、男の薬物の所持が露見した訳ではない。


 どう見ても、正常な判断力を失っている。


「やめて!」


 ラムは男の背にしがみ付き、母から引き剥がそうと、がむしゃらに力を込めた。存在を否定されたのだとしても、母が傷つけられる姿を見たくなかった。


「あァ離れろガキがッ!」


「きゃっ!?」


 力任せに振払われたラムが尻もちをつく。


 内股で倒れたラム。制服のスカートが少し捲れ、普段は隠れている大腿部の付け根近くまで露になった。ほっそりとしているが、床に倒れたことで肉感が強調された足。瑞々しく、汚れを知らない白い肌。その肌を汗が伝う。


 男の目に劣情が宿った。口端を吊り上げ、ラムの肩を床に押しつける。


「痛いっ!」


 呻くラムに、男が覆い被さる。


「こうしてやろうと思ってたんだよなぁ!」


「や、やだ!」


 藻掻くラムのブレザーが剥ぎ取られる。ボタンが嵌められたままのシャツを強引に脱がされた。千切れたボタンが床を転がる。衣服を剥がされるごとに、これから男にされることを強く実感していった。心が警鐘を鳴らす。心音が聞こえそうなほどに、鼓動が早まる。


「っ……」


 叫ぼうとしたラム。


(声、出ない……!?)


 しかし恐怖で声が出ない。何かが喉に痞えたようになって、喉を震わせることができない。


 ならばと変身しようとするが、ノイズがちらついては消える。極限まで乱れた精神が、焦燥が、力の発動を阻害していた。


(なんで……なんで!)


 血の気が引いていく。


 男の手が足に伸ばされ、肌をなぞりながらスカートの中に入り込んでくる。吐き気を催す不快感と嫌悪感。体中を虫が這っているような悍ましさに、股を必死に閉じる。


(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……っ!)


 男が片手をラムの足に這わせていることで、ラムは片手を動かせるようになった。ラムが咄嗟に男の鼻面を叩く。


「いってぇ!?」


 男が怯んだ隙に拘束から這い出て、覚束ない足取りで立ち上がりながら逃げる。


「逃がさねぇぞっ!」


 ラムが廊下に出て扉を強く閉めた。


 扉を乱暴に叩く男。


 ラムは扉を背にして、全体重をかけて押さえた。


 しかし扉に力が加えられ、徐々に隙間ができる。


「さっさと諦めて股開いたらどうだ?」


 純粋な力比べ。ラムに勝てると確信した男から余裕が出ていた。


 あと少しで男が通れそうなくらいに隙間が空いた時、ラムが扉から離れた。


「うおッ!?」


 勢い余ってバランスを崩し、前のめりになる男。


「っ……!」


 その頭を、ラムが廊下に飾っていたトロフィーで殴った。


 男は衝撃で一瞬硬直し、倒れる。


 頭部から流れた血液が廊下に広がっていく。


 肩で息をするラム。


 そのトロフィーは幼かったラムが努力をした証。自分をすり減らして、両親の顔色を窺って、藻掻いて掴んだトロフィー。それに今、血が滴っていた。


 緊張が解け倦怠感が体にのしかかる。


(人を、殺したんだ……)


 殴りつけた時の衝撃が手に染みついて忘れられない。欺き陥れた人間が自殺してしまった時、ことの重みに耐えられなかった。しかし実際はもっと重いものだったのだと思い知らされる。


 穢れた手。穢れはやがて全身に伝わり、飲み込まれそうになる。


 ただ、怖かった。


「助けて……」


 殆ど声になっていない声。壁に体を預けながらも、ふらつく足取りで助けを求めて外に出た。


「出てきたぞ!」


「この売女ぁ! 俺の人生どうしてくれんだ!?」


「あの人を返してよ!」


「お前が死ねば良かったんだ!」


 窮地を脱したラム。衣服を破かれ、上半身は下着姿のまま。血の滴ったトロフィーを持った、心身ともに疲弊しきった少女。しかし少女を待っていたのは、視界が利かなくなるほどのフラッシュと罵詈雑言。そして敵意を剥き出しにした視線だった。


「……ぁ」


 ラムが後ずさり、トロフィーを落とす。震える体から力が抜け、その場にへたり込んだ。


「ラム!」


 その時、ラムの鼓膜を震わせたのは、久しく聞いていなかった声。忘れる筈がない。眠れぬ夜に、何度も救いを求めた。


 また幸せだったあの頃に。


 そう思い描いた時、ラムと母の傍らにはいつも……


「お父、さん……?」


 これも空想が生み出しているのだろうか。


 そんなことを思ってしまうくらいに。現実と非現実の判断すらできなくなるほどに、ラムは肉体も、精神も憔悴しきっていた。


 しかし空想と思った父は、人を掻き分け、警備員を押しのける。警備員に体を引っ張られながらも、それを引きずってまで、ラムの眼前にたどり着いた。


「ラム……今まで会いに来れなくて、ごめんな。辛かったな。これからは、一緒だ」


 父が手を差し伸べる。


「お父さん……!」


 今まで誰の手も取れなかった。迷惑をかけたくなかったから。失望されたくなかったから。


 でも、父なら。


 ラムが手を伸ばそうとした。


 その瞬間。


 銃声が響いた。

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