第1話 ある朝の悲劇

 6月に入ったばかりのある朝、マンションの寝室でいつものように目を覚ました美羽は、体に奇妙な違和感を感じてむっくり起きあがった。頭からすっぽり布団を被ってスヤスヤと寝ている隣の裕星を起こさないように、ベッドからそっと足を降ろすと、なぜか両足が大きく膨張して見えた。

 目ぼけているせいだろうと気にも止めず立ち上がったが、床がいつもより遠く感じて軽いめまいを覚えた。


 目をこすりながら洗面所に向かった美羽は、鏡を開いて戸棚の中から歯ブラシを取り出し、歯磨き粉のチューブから絞り出した真っ白なペーストをブラシに載せると、それを口に入れて鏡に映った自分の顔をぼんやりと見た。


 すると、大きな鏡に裕星の顔がハッキリと映っている。


「あれ? 裕くんも起きてたの? 今日は午前中はお休みだからゆっくりでいいって言ってたのに」


 しかし、その声こそが裕星の声だった。






 ――え? 美羽は鏡をもう一度覗き込むなり、歯ブラシをポトリとシンクに落としてしまった。


 震える右手で自分の頬に触れた途端、恐怖におののいて悲鳴を上げた。


「キャーー!」





「どうした、美羽!」

 裕星がベッドから飛び起き慌ててやってきた。

 しかし声のした洗面所に美羽の姿はない。すると、隣のトイレのドアがガタガタ音がしている。


 ――なんだ、トイレか。それにしても朝から騒々しいな。何事だ?



 裕星は美羽が入っているトイレのドアを軽くトントンと叩き、「美羽、大丈夫か?」といた、つもりだった。


 しかし、その声はまるでひっくり返ったように細く高い女のような声だったのだ。早朝のせいで声が出にくいようだ。

「ん゛、ん゛っ!」と裕星は咳払いをしながら自分の喉に触れた。

 ところが、指で触れながら裕星は眉をひそめて「ん?」と首をかしげた。

 いつもならボコボコとしているはずの喉仏のどぼとけはなく、スルリと指が滑ったからだ。




 裕星が喉に触れた両手を前に出して見ると、まるで風呂の湯の中で見ているかのような小さい手が現れて驚いて声を上げた。


「どうしたんだ、これは?」


 しかも、その声がまた甲高かった。


 ――風邪を引いたみたいだな。寝相が悪くて体が冷えたのかな?


 すると、またトイレのドアがゴソゴソと音を立てている。


「どうした、美羽」


 裕星が心配して尋ねたその時、いきなり悲鳴のような叫び声がした。


「ギャー!」




「おい、美羽、大丈夫か? お前も風邪を引いたのか? すごいガラガラ声だぞ!」



 すると、中からかすれたような低く小さい声が聞こえてきた。


「裕くん、助けて! 私、どうかしちゃったみたいなの。──トイレがしたいのに」





「どうした? 具合が悪いのか?」

 裕星が高い声で言う。



「ううん。体調は大丈夫よ。だけど、私の体がおかしくなっちゃってるの! どうしよう、変なの……」

 低い声の美羽が答えた。



 裕星は訳が分からなかったが、声の他に違和感があるとしたら、いつもより床がだいぶ近く感じることだった。


 いつもならトイレのドアの上部に頭が届きそうなのに、今日の裕星は体が縮んでしまったように、天井が遠く感じられた。



 ――なんだ? 寝すぎて背骨でも縮んでおかしくなったか?


 恐る恐る背後にある洗面所の鏡をのぞくと、その顔はいつも見える鏡の上部ではなく下部の方に見えていた。

 それも、長い髪が肩に下りている美羽の素顔に見えた。


「な、なんだ? この鏡、お前が映ってるぞ」

 もう一度ゴシゴシと目をこすって鏡を覗き込んだ。



 その途端、「うわあ!」裕星が鏡の前から飛び退いて、勢い余ってしりもちをついてしまった。


「いってえー!」

 尻をさすりながら起き上がろうとすると、筋肉で固く引き締まっているはずの裕星の臀部でんぶが、なぜがふっくらとした手触りだったのだ。



 ――どうなってんだ? 


 裕星はもう一度鏡を覗いて声にならない声でつぶやいた。


「これは……美羽だ。でも、ここにいるのは俺だよな? やっぱり、俺が、まさか美羽になってるのか?」

 鏡に顔を近づけては瞼を閉じたり開けたりしている。




 そっと胸を撫でると、柔らかく触れるものがあった。

「うわっ!」

 恐る恐る見てみると、パジャマの上からでも分かるふんわりとした二つの隆起がある。



「これ、俺の……胸?」



 その時またトイレのドアがどんどんと音を立てた。

「裕くん、早く助けて! 私、裕くんになっちゃったみたいなの! さっき起きた時変だなと思って鏡を見たら……私の顔が裕くんになってて。でも、顔だけじゃないの! あ、あの、体全部が裕くん……みたいなの」


 低い声の美羽の言葉を聞いて、裕星は美羽の声で訊いた。



「俺はお前になってる。これはどういう病気なんだ? いったい俺たちどうしたんだろう」

 その声はいつもの裕星独特の言葉ではあったが、声は明らかに美羽の細い声だった。





「――とにかく、早く助けてほしいの」

 低い自分の声で美羽が助けを求めている。



「どうした。何を助ければいいんだ? 俺の方が助けてほしいくらいだけど」裕星はドアの前をウロウロしながら訊いた。



「――おトイレがしたいの。でも……」



「トイレくらい大丈夫だろ。俺は健康体だ」




「ち、違うの、どうやってしたら……」

 裕星の低い声が恥ずかしそうに小さくなった。



 すると、裕星はハッとした。


「――ああ、そういうことか。それは本当にこっちが困る! ちょっと待て、美羽、まだ何もするなよ! 俺がなんとかするから! このドアを開けてくれ!」


 裕星は気付いた。美羽が裕星と入れ替わったということは、体そのものも裕星のものなのだ。つまり、トイレで美羽は裕星の見られたくない所も見られてしまうということになる。




「いやよ! ドアを開けるなんて! 恥ずかしいもの!」

 中で美羽が地団太を踏んでいる。



「仕方ないだろ? 俺がやってやるから。ほら、それに、どうせ俺の体なんだ。俺が俺の世話をするのに恥ずかしいもないだろ!」

 裕星は美羽の細い声でそう言った。





 裕星が美羽の応えを待っていると、しばらくして、カチャリとドアの鍵が開いた。


 裕星はゆっくり恐る恐るドアを開くと、そこには恥ずかしそうに便器の前でもじもじしながら背中を向けている自分がいたのだった。

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