第8話


 その後、別室で昼食を用意された和歌とユキは、並んでそれを食べた。

 花見の下を去り際、小太郎に視線を這わせるも彼の視線が和歌を見ることはなかった。感づかれてはいけないと、和歌もそれ以上追う事はしなかった。

 自分にとっても小太郎にとっても、バレて良いことはひとつも無い。

 もう会う事もない、初めての人。その想いが和歌の胸をざわつかせる。


 二人に出された昼食は、今までの旅路では見たことのない艶々の白い飯だった。和歌にとっては当たり前の白米も、ユキにとっては新米の時期と正月くらいにしか口にすることはない、それくらい貴重なものだ。

 白米は売り物であり、普段は麦や粟、芋などを主食にしていた。目の前の茶碗いっぱいに盛られた白飯など夢のようだった。


「うち、白い飯なんて腹いっぱい食べたことなんてない。すげえ贅沢だ」


 そう言ってキャッキャと声を上げ喜んでいた。


「そうか、そりゃあ良かったな。普段、仕事をせん者は白米は食わせられねえが、今日は特別だ。腹いっぱい食べて、明日からしっかり働いてもらうからね。覚悟するんだよ」


 中年の少し小綺麗なお高と言う女性が、給仕をしながら色々と話して聞かせてくれた。

 自分たちのような雑用の極つぶしでも腹いっぱい飯が食えるのは、店に出て働いてくれる女衆がいるからだと、有難く米粒一つ無駄にしないように食わなければならないと言う。

 女衆の手を荒らすわけにはいかないから、水仕事は一切させられない。

 売れっ子になれば、髪を洗うのも自分ではしないと言う。

 この店は他に比べて客の質が良いから、危ないことをさせる客は少ないとも。あんたたちは、本当に運が良い。そう、何度も何度も二人に言い聞かせるようにつぶやいていた。


 白飯に麩の煮物と菜っ葉の浸し、小さな焼き魚。それに漬物とみそ汁。

 みそ汁はお変わりが出来ると聞き、ユキは一杯おかわりをした。

 実家でも食べられなかったような、美味しい昼飯だった。


 二人は目の前の食事を綺麗に平らげると、お高に「疲れたろう? 少し昼寝でもすると良いよ。もう少しすると女衆が早夕飯を食べにくる。そうしたら旦那様達が紹介してくださるだろうからね。それまで休んだ方が良い。

 ひょっとしたら今夜は手伝いをさせられるかもしれないからね」と、独り言のように話しながら椀を下げて行った。


 長旅の疲れと満腹の腹が二人の睡魔を誘う。ウトウトと船を漕ぎ始めたユキに、横になるよう和歌が促す。

 

「和歌さんは横にならんの?」

「私はまだ大丈夫よ。何かあったら起こしてあげる。少しお休みなさい」


 和歌はユキに優しくほほ笑み、自らの座布団を二つに折るとユキに差し出し優しく背を撫で始めた。

 

「母ちゃんみたいだ。和歌さんはスゴイなあ」


 座布団を枕の代わりにすると、ユキは重たくなり始めた瞼をゆっくりと閉じ、そのまま寝息を立てて寝始めた。

 そんなユキの寝息を聞きながら、和歌は静かに立ち上がると部屋の襖を開け廊下に飛びだした。

 勢いよく飛び出した和歌の目の前に立ちふさがったのは、先ほど足洗い用の桶を用意してくれた若衆のひとりだった。

 その男は腕組みをしながら壁によりかかり、和歌を凝視している。


「悪いことは言わん、そのまま部屋に戻れ。今動いたら足抜けと思われちまう。おめえは、少しくらいわかってるんだろう? 足抜けはひでえ拷問が待ってる。

 見なかったことにしてやるから、黙って戻れ!」


 冷静で、それでいてひどい剣幕の男の勢いに、和歌は思わず「ひゅっ」と息を呑んだ。「ちが……、違う。私はそんな」震える声が彼女の口からこぼれる。


「その気があっても無くても、怪しい者は罰する。それがこの街での決まりだ。

 監視の目があることを忘れんな」


 そう言うと、和歌の肩をトンッと軽く押し部屋の中に戻し入れた。

 そして襖を静かに閉めると男はまた腕組みをし、壁に寄りかかるのだった。

 和歌は押された拍子に足元をふらつかせ、ハッと気が付きユキのそばに駆け寄る。座布団を枕に、規則正しい呼吸を波打ち眠るその姿を見て安心し、彼女に覆い被るように声を殺して泣きだした。


 ただ一目、ほんの一瞬でいい。

最後にその姿が見たかっただけ、ただそれだけなのに。

親に捨てられ、男はおろか人間に対しての不信感を持つことで生きる力に変えようと思っていた和歌にとって、初めて肌を重ねた男にこれほどまでに翻弄されるとは思ってもいなかった。

 これから何十人、何百人と言う客を取らねばならないのに、その都度こんな風になるのだろうか? いや違う、きっと彼だから。小太郎だからこその思いなのだと、そう思いたかった。

 それに、共に旅を続けた自分よりも少し年下のユキも、本来ならば客を取り合う敵対関係になるはずの人間だ。それなのに、あまりに素直に自分になついてくるその姿にすっかり絆され、今では保護者気取りになっている。

 何も知らないこの子が、せめて少しでも心を乱されることのないように、ただそれを願いながら、泣き疲れた和歌はユキの寝顔に重なるように瞼を閉じた。




 それからどれくらい経っただろうか? 気が付けば周りが騒めき始め、目が覚めた。身体をゆっくりと起こし辺りを見渡すと、長机が並べられ、ところ狭しと女達が飯を食べているところだった。


「おや、起きたかい? お高さん、この子たち目を覚ましたよ」


 近くに座る女性が食事の手を止めることなく、大きな声で先ほどのお高を呼びつけた。

 和歌は隣でまだ寝ているユキの肩を叩き起こすと、居住まいを正し正座をしてその場に待った。


「ああ、あんた達起きたかい? 長旅で疲れてたんだろう? ぐっすり眠ってたからね、起こさなかったんだ。

 起きたんなら、旦那様の所に案内するよ。ついておいで」


 和歌とユキは周りにペコリと頭をひとつ下げると、そのままお高の後を付いて行った。付いた先は、先ほどの座敷。目の前には先ほどと変わらない場所で花見の旦那と妻の桔梗が並んで座っていた。そして、身ぎれいに着飾った遊女と思しき女性と、それとはまた違った雰囲気の着物をまとった女性が並び座っている。


「おう、来たか。まあそこに座れ」


 花見に指さされた端の場所に和歌とユキは並んで座った。


「お父さん、この子が新しく買った子ですかい?」

「ああ、そっちの見目の良い方は元お武家さんのお嬢さんだ。良い宣伝になるだろう? こいつは芸者にしようと思うてる」


「芸者に? 芸事は出来るんですかい?」

「鳴り物は一切やったことはないようだがな、見ればわかるが所作が一流だ。

 まずは鼓で目を引かせて、上玉を匂わせろ。すぐに客がつきゃあ、めっけもんだ。福久春(フクハル)、おめえに預ける。精々可愛がって一流に育ててくれや」

「はい、承知しました。で? 名はどうします?」


「名前かぁ。どうする? 桔梗、なんか良い名はないか?」

「そうですね、まずは若松で良いのでは? そのうち出世すれば、また名を変えりゃあ良いですよ。出世魚みたいに演技が良い」

「『若松』はおめえ。いいのか?」

「ええ、ようございます。名を汚さないようにしてもらえりゃあ、それで……」


「よし決まった! おめえの名は今日から『若松』だ。

 福久春を始め、皆の言う事をよう聞いて可愛がってもらえ」


 和歌は両手を畳みにつき、深々と頭を下げた。

「ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」



 礼儀作法は身についている。隣に並ぶユキに比べてそれは雲泥の差であった。

 身を落としたとはいえ、産まれついての身の上の差はこんなところで開きを生み出すのだ。


 これから地に落ちたその身を守るため、彼女たちは地べたを這い続ける。

その手を欲と金で汚しながら、わずかばかりに残る矜持を守るため、死ぬ気で戦い生きていく。

そしてそれに耐えられない者は、自らの身すら守り切れないまま、その身を沈ませ続ける。


二度と浮き上がることの出来ない、沼の底へと……。




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