第12話
九年の月日が過ぎた。リチャードはジョナサンが息絶えた時の年齢になった。九年間、ただジョナサンにいのちを移譲することだけに心血を注いだ。それ以外のどんなことにも、こころを傾けなかった。
身体が完全に修復して、ジョナサンはただ普通に寝ているだけのようにそこに横たわっているが、目を開けない。心臓はきちんと脈打っているし、さわればほのかに温かいけれど、まだ、平均体温よりは冷たい。生きているのに、動かない。その身体の中を迸っている血流は確かに感じられるのに、耳を押し当てれば鼓動が聞こえるのに、あの新緑の眸はまぶたの下から姿を現さない。
ジョナサンが、今世のリチャードには絶望していたということなのだろうか。
ジョナサンが求めるのは、前世のリヒャルトで、今世のリチャードではないのではないか、という不安が、リチャードを圧し潰す。
白銀のペガサス。前世の自分の愛機の垂直尾翼に描かれていたそれが顕現し、ジョナサンのもとへと空を駆けた。リチャードをジョナサンのいる場所へと導いてくれた。あの時、ペガサスはリチャードを見て姿を消してしまったけれど、ジョナサンの魂はひょっとして、あのペガサスと一緒に空の彼方へ行ってしまったのではないだろうか。
前世の記憶はよみがえったけれど、リチャードは自分がリヒャルトの生まれ変わりではあっても、まったく完全にリヒャルトと同じというわけではない、という自覚がある。前世はバース性が無い世界だったし、今世、リチャードとして生まれ育って来た間、ヨナタンを思い出さなかった負い目が、こころの底に蟠っている。
前世で見送った時のように、そうっと上半身を抱え起こして抱き寄せる。鼓動が脈打ち、血液が身体中を流れているのはわかるのに、温かさが足りない。生きているのに、やわらかいのに、温度だけが足りない。
前世のヨナタンは、細く見えてもしっかりと筋肉があったし、体温がわりと高かったように憶えている。
よみがえった記憶の中のその熱さに、全然足らない。細くて、筋肉が足らないからだろうか。いや、前世の今際の際でも、もう少し温かかったように思う。
あの時、ヨナタンの体温がゆっくりと失われていくのが悲しくて、なんとかして自分の体温で温めようと抱きしめた。涙で濡れたらその気化熱で冷えてしまうから泣きたくないと思ったのに、涙が、どうしようもないほど流れて、ヨナタンを濡らした。
あの時のように、自分の熱を与えようとする。
生き返ったのに動かない、目を開けない、ジョナサンの人形を抱きしめ、愛撫して、くちづける。髪を指で梳いて、愛していると囁きかける。
毎日毎日、想いをこめて。
さらに、一年が経過した、ある日。
ついに、その時がきた。
ジョナサンを抱くリチャードの前に、白銀に輝くペガサスが現れた。
その背から、ジョナサンの魂が下りて来て、リチャードが修復させた身体に入った。
それを見届けて、白銀のペガサスは天空へと翔け去っていった。
リチャードの腕の中で、ジョナサンの身体の温度が、じわじわと上昇していく。
リチャードはもともと平熱が高いのに、自分の体温が五度くらい下がった、気がした。
リチャードだけではない。
その日、体調の異変を訴えて病院に駆け込んだ男性が、不自然に多かった、らしい。異常な体温の低下があった患者の情報は、アーサーとマイケルとジェニーが王太子・・・、即位した新王に上げた。それらは、ベータになったアルファや老化した者たちほど露骨ではなかったにしても、オメガを軽蔑していた者たちであったらしい。十年の時が過ぎてもまだ、偏見は無くならないのだ。新王はそういう愚昧なやからを、要チェック者としてリストアップし、要職につけさせないように指示した。
リチャード自身は、どこの誰がどうなろうとそんなことはどうでもよくて、ジョナサンさえとりもどせれば、ただ、目を開けてくれれば、ほんの少しでも笑ってくれれば、それでいいと思っていた。
息を詰めて、ジョナサンの顔を見つめる。
睫毛が震えた。ゆっくりと、まぶたが開いて、新緑の眸が姿をあらわした。
「・・・リヒャルト・・・?」
「ひさしぶり」
そう言って泣きながら笑うリチャードは、最後に見たリチャードから十歳、年をかさねた姿。十年間、ただひたすらにジョナサンにいのちを注ぎ続けていた。海軍を除隊し、公爵家の相続権も弟に譲って、ジョナサンだけに自分をささげて、ベータになった。ダブル・アルファという稀少な、貴重な自分を手放してでも、ジョナサンに会って、向き合って、謝りたかったのだ。
「また・・・、会えた・・・」
まるで、何事も無かったかのように・・・、けれどため息をついて、さも呆れたという声で、ジョナサンは言った。
「・・・こんな使い古しのオメガのために、アルファとしての人生を棄てるなんて。お前の酔狂は天井知らずだな」
その言い方が、前世のヨナタンのままで、なつかしくて、嬉しくて。
「ひどい言い草だな。お前をとりもどすための涙ぐましい努力を」
滂沱の涙を流しながら、リチャードはその場に膝をついた。頭を下げた。
「ごめん・・・」
わからなくて、思い出さなくて。
「ごめん・・・」
つらかったであろう時に、ひとりで苦しんでいたであろう時に助けに行かなくて。
「ごめんな・・・」
冷たい口調で、物のように扱って。
「すまなかった・・・」
代理母なんて、反吐が出るようなアルファの身勝手な、人倫に悖ることをさせて。
ぼたぼたと溢れて落ちる涙に、ジョナサンは手を伸ばす。ならず者のクソ野郎たちに傷つけられた身体はすべて治っている。リッピンコットの森でジョナサンを襲った暴行犯たちは、十年前、リチャードがジョナサンにいのちを注ぎはじめて最初に、肉体が変化した。バースエネルギーの変動によって、男としての力に溢れていた身体がみるみるうちに九十代に老化したそうだ。逮捕されて警備隊の留置場にいたから、その様子を何人もの警備隊員に見られていた。見た者達は神の怒りだと叫び、その様子を会う人会う人に口角泡を飛ばして語った。同じように突然急激に老いて容貌が変わったり、異常に急激に健康を損ねたりした男たちに関してはこの十年間、世界中で数えきれなかった。数えきれなくて、最初こそ大騒ぎされたけれど、そのうち嘲笑しかされなくなった。そして経歴を洗ってみると軒並み犯罪もしくは疚しい振る舞いがあって、世界中の治安組織と新聞社がリチャードに感謝するようになった。なんせ異常に老化したり健康を損なった人物の経歴を洗えばほぼ確実に犯罪者なのだから、治安組織にしてみれば労せずして検挙率はうなぎ上りだし、新聞社は新聞社で、アルファであることの優位性のみを享受してノブレス・オブリージュを怠っていた支配者層や権力者の為体を暴き立てればおもしろいように読者が湧きたつのだから、感謝しないほうがおかしい。
リチャードにとって、それは、どうでもいいことだ。バースエネルギーの変動は、アルファとしてこの世に生をうけながら果たすべき責務を怠っていた者たちの、当然の帰結である。発端はリチャードが行ったジョナサンへのいのちの移譲だけれど、ベータになった元アルファや異常に急激に老化した者たちは、すべて過去に素行不良、弱き者を虐げる不埒な行為をしていた者ばかりだった。王族や高位貴族、聖職者や大きな商会の会頭などもいたが、誰一人としてリチャードを責めたり訴えたりなどしなかった。できるはずがない。リチャードを責めるのはすなわち、自分が過去にアルファである優位性のみを享受し、社会的に果たすべき責務を怠っていたと、もっというなら犯罪もしていたのだと、喧伝することになるからだ。自分がアルファとしてのノブレス・オブリージュをまっとうしていなかった、と自ら吹聴するなど、社会的に高い地位にあればあるほど、できるはずがない。
劣化してベータになり、老いてよぼよぼになり、病魔に苦しむ身体で、本来生きるはずである寿命までの人生を生きなければならない。そのことを嘆こうが喚こうが、耐えきれず自死しようが、すべてが自業自得なのだ。
ジョナサンは、ダブル・アルファからいのちを分け与えられて生き返った奇跡のオメガとして、一躍、時の人となった。新聞社や雑誌社、十年の間に国産が可能になって平民家庭に普及したテレビの放送局などの取材の申し込みや、講演会の依頼などが殺到したが、もちろんすべて拒否した。
いっとき、話題に上ったが、実際に暴行致死事件の被害者になって、さらにはダブル・アルファのリチャードからいのちを移譲されたのは、もう、十年も前のことなので、当時ほどの騒ぎにはならなかった。
それでも、ダブル・アルファからいのちを移譲された奇跡のオメガであるジョナサンを自分のつがいにしようとして、拉致誘拐を企てたり、譲渡を迫るといった騒動などが起きた。リチャードがベータになったのなら、ジョナサンはリチャードとつがいになれないのだから添い遂げる意味も無いのだし、アディンセル公爵令息がダブル・アルファである自身を投げうってまで執着するほどのオメガなら、是非とも手に入れたい、ジョナサンを譲るなら、ベータになったリチャードを今までどおりにアディンセル公爵令息としてつきあってやらないでもないが、拒むのなら、ただのベータになったリチャードになど価値は無いのだから、さっさと廃嫡しろとアディンセル公爵夫人に言う者もいた。
「誰に向かってものを言っているのでしょうか」
ジョナサンを奪おうと画策する不埒なアルファを、アディンセル公爵夫人は少しばかり非合法な手段で入手した情報を使って合法で叩き伏せた。犯罪というほどのことはしていなかったようでリセットによってベータにはならなかったけれど、ベータにならなかったということは、自分はノブレス・オブリージュをまっとうしている立派なアルファなのだと思い上がり、図に乗った者たちがいたのだ。アディンセル公爵夫人は冷静にそうした者たちを排斥し、公爵家の尊厳と息子とその最愛の人、そして事業を護った。
しかし、いくらクズどもを蹴散らしても、ジョナサンが代理母として身体を利用されていたオメガだったという来歴を、消すことはできない。物見高い野次馬の目を避けてアディンセル公爵邸に引きこもってはいるけれど、いつまでもそのまま、というわけにもいかない。
「帝国?」
「そうだ。我が国と違ってオメガに偏見が無いから、ここにいるよりも自由に過ごせるんじゃないかと思う」
ベータになったリチャードと、結婚だってできる。アルファとオメガではなくても同性婚ができる。
帝国ではリセットの時にベータになったアルファなんてひとりもいなかったそうだ。老化した者はゼロではなかったらしいが、屈辱に耐えられなくて自殺したそうだから、実質ゼロだったようなものだろう。
「リチャードが行きたいなら、行くよ」
「俺がじゃない。お前が行きたいところに、どこにだって連れて行くよ」
ジョナサンが自由に、楽に過ごせるところなら、どこにだって行く。リチャードはそういうつもりで言ったのだが、ジョナサンはジョナサンで、リチャードがいる場所に一緒にいられれば、それでいいと思っている。
帝国に行けば、スペルは同じでも発音が違うから、リチャードはリヒャルトに、ジョナサンはヨナタンになる。
季節は、冬へと向かっている。
「ジョナサンさん、ロバート様とアーサー様、デイヴィッド様がいらっしゃいましたよ」
リチャードは、今日は朝から出掛けている。さっき、今から帰るとマジックメッセージがあったところである。
「どうだ、身体の具合は?」
挨拶よりも先に確認してくるのは、職業病というものだろうか。アーサーは出張した先の有名店で買って来たというシュトレンを持参してきた。
「問題無い。傷痕が無い自分の顔や身体にも見慣れてきた」
フレッドや売春相手や暴行者の暴力で傷だらけだったけれど、今のジョナサンには髪ひとすじの傷すら無い。リチャードが与えたいのちは、ジョナサンの身体のありとあらゆる過去をリセットした。
「視力は?」
「それも、問題無い」
ダブル・アルファのいのちを移譲されたジョナサンの身体には、さまざまな変化が起きた。傷痕が消え、進行していた夜盲症も止まった・・・、というよりも、消えた。筋肉量が少なくて華奢なところは前世のヨナタンとは違うが、それ以外は前世のヨナタンとだいたい同じになった。パサパサだったプラチナブロンドは艶やかになって、長く伸びていたのを先日、ばっさりと切ってヘアドネーションした。十年間伸ばしっぱなしだった髪だ。リチャードが誰にも触らせないで、洗って香油を塗って手入れをしていたので、手放したくないとごねたらしいが、ダブル・アルファだった自分自身をあっさり手放した奴が髪くらいでぐだぐだ言うな、とジョナサンに言われ、おとなしくヘアドネに合意したのだった。
後から文献によって知ったところによると、もしもリチャードとつがいになっていた状態でいのちを移譲されていたら、ジョナサンもベータになったかもしれないらしい。ダブル・アルファだった者がベータになってしまうなら、いのちを移譲した相手がオメガでもつがいになることはできないから、ふたりともベータになる、らしい。しかしジョナサンはリチャードにうなじを噛まれてはいなかったから、いのちを移譲されて生き返っても、オメガのままで、ベータにはならなかった。
お持たせですが、とアガサが切ってくれたシュトレンを味わい、アリスが淹れたお茶を愉しんでから、ロバートが口を開く。
「リチャードはまだもどらないのか?」
「そろそろ帰って来ると思うが?」
「そうか。では、今のうちに伝えておこう」
「なんだ?」
「ジョニー。意識が無かった間のことは聞いたか?」
「あー、聞いたけど、意識が無かったっていうより、死んでたわけだからな」
生き返ってみたら十年の月日が流れていた。東の果ての伝説のタローウラシマとドラゴンキャッスルというタイムスリップのお伽噺に擬えるほどの年月ではないが、ジョナサンは死んだときの肉体年齢のままで十年の歳月が経過した。リチャードやロバートたちはじめ世間の人々は十歳、年をとっていて、産んだばかりだった赤ん坊は十歳になっていた。サミュエルと名付けられ、可愛がられている。アリスとアガサはそれぞれ良縁に恵まれて結婚した。結婚してもしょっちゅうアディンセル公爵邸に寄り集まってサミュエルの面倒をみたりおしゃべりに興じている。そしてセシルも、サミュエルが可愛いからとアディンセル公爵邸に入り浸っているうちに、リチャードの同母弟であるハーヴェイと、いつしか想い合うようになっていた。
それだけではない。
「お兄さま、お帰りなさい」
アリスの声。と、同時に複数の人間の気配が近づいてきた。
ドアが開く。
「ジョニー、身体の具合はどう?」
先頭はアルバートだった。その後ろから入ってきたのは。
「え?」
年齢は、少しずつ違う。二十歳くらい、十代後半、十代半ば、十代前半くらいか。
入ってきた四人全員が、少年だ。
そして全員が、ジョナサンにそっくりだった。
緑の眸、プラチナブロンド。
ジョナサンは思わずサミュエルを見る。そのサミュエルも自分にそっくりだから、大きさの違う自分のそっくりさんが五人も並んだ状態なわけで、びっくりして声も出ない。
サミュエルがにっこり笑って、いちばん大きな二十歳前後の少年・・・青年に飛びつく。
「兄さまたち、母さまに会いに来たの?」
「え?」
少年たちは、ジョナサンを代理母として利用した男たちとの間の子どもだった。ある日突然、傲慢でふんぞりかえっていたアルファだった自分の父親がベータになり、しかもそれぞれ三十代から五十代前後くらいだった身体が一気に老化して八十代や九十代になった。健康だった体が、老化のためなのかあらゆる病魔にとり憑かれ、寝たきりになった。驚いて問い詰めた結果、自身の出生の経緯を知った。
父親がした、外道の所業を知った。
「リックの母君がテレビや新聞で派手に啓蒙していたからな」
終身刑になった夫よりも経営手腕に長けているアディンセル公爵夫人は、最初は当主代行だったが今は正式に公爵として、辣腕を揮っている。普及し始めたばかりのテレビ放送を行うテレビ局という会社を立ち上げた。国営放送のお堅い教育番組のオメガ差別を止めましょうという番組とは違って、もっとわかりやすいドラマ番組などを放映した。私利私欲に走ってノブレス・オブリージュを怠ったりオメガ差別をしたアルファが、周囲から見限られて転落人生を歩む、子どもでもわかりやすいような内容で、大きな反響があった。そうしたものによって、少年たちは自身の出自を知ったのだ。
「おかげで王政府は大混乱でしたよ」
いちばん上のクライヴは陸軍少将の、二番目のセドリックは大司教の、三番目のギルバートはロバートの生家であるフリーマン公爵家に対抗意識を抱いていたスタンレイ侯爵の息子だった。
「四番目の子は?」
「それが・・・」
ロバートが言い難そうに口ごもる。
「リッピンコット伯爵だった。ジョナサン。ロジャーには、子どもには罪は無いんだからな?」
それは頭では理解できる。そもそもジョナサンは、リッピンコット伯爵の顔を憶えていない。リッピンコット伯爵だけでなく、自分を金で買った男たち、代理母として利用したどんな男の顔も憶えてなんかいない。凌辱された時はヒートで正常な状態ではなかった上に目隠しをされていたし、十年前、森で暴行陵虐の果てにいのちを落とした時には、夜盲症が進行してほとんど見えていなかった。最初に自分を弓矢で射たのがリッピンコット伯爵だったことも、知らない。知らない誰かを恨んだり憎んだりするのは不毛なのでする気など無いから、思い出さない、考えることもしない。傲慢で身勝手だったどこかのアルファの身体がベータになり、若く壮健だった身体が九十代になってありとあらゆる病魔に侵され、寝たきりで喋ることも儘ならなくなった、その状態で本来の寿命までずっと生きなければならないのだと聞いても、遠い場所の知らない人の話でしかない。
ロジャーという名の四番目の子は十代前半、十年前はまだ幼児だったから、自分の父親がいきなりよぼよぼの老人になってあらゆる病魔にとりつかれて枕の上がらない身体になった、その様子を見たわけではなかった。見たとしても憶えてなどいない年齢だった。しかし、ものごころがついてからずっと、どうして自分にはおじいちゃまが三人いるのかと不思議に思っていた。
そんな時に、自分とそっくりな三人の異父兄たちに会った。クライヴ、セドリック、ギルバート。三人ともロジャーを一目見て異父弟だと断じた。三人から説明されて、ロジャーは自身の出自と、父親の非道を知った。
サミュエルよりも二歳くらい上の、多感な年ごろだろうに、そんなショッキングな真実を知らされて、大丈夫だったのだろうか。サミュエルだって、父親が違う兄が四人もいたなんて、混乱しないだろうか。ショックで精神的にダメージを負わないだろうか。
心配で不安そうな顔になったジョナサンに、いちばん年長のクライヴが言う。
「お母さま、ずっとお会いしとうございました」
四人の子どもは、ジョナサンの意識が無い間も、何度も訪れていた。だからサミュエルは自分の異父兄であると知っていたし、もうすっかりなじんでいたのだ。
それに、新王が、ロバートに命じて四人を王宮に呼び、しっかりと言い聞かせてくれた。父親の所業を許せないなら、縁を切ればいい、もしくは自身が家の当主になって、父親を犯罪者として告発し、貴族籍から抜いて家から放逐すればいい。どんな決断をしたとしても、国王が後見する、と言われて、四人はしっかりと頷いたそうだ。
ジョナサンは十年間、年を取っていない。実年齢はさておき、肉体年齢は三十二歳のままだ。三十二歳なのに、第一子は二十歳だ。
「十一歳で妊娠して十二歳で産んだことになってしまうじゃないか・・・」
実際には、最初に代理母をさせられたのは二十一歳の時だったのだが。
奇跡のオメガで若く美しい母親の姿に、その新緑の眸に、四人の少年の目は釘づけである。兄弟は全員プラチナブロンドに緑の眸だけれど、ジョナサンの眸がいちばん、透きとおって美しい新緑の色だ。
上のふたりは既に第二性が判明している。クライヴはアルファ、セドリックはオメガだ。ギルバートとロジャー、サミュエルはまだ思春期前なので、第二性はわからない。
「ジョニー。もしも君が望むなら、この子たちはきみの子どもとしてアディンセル家の籍に入れることもできるぞ」
「え?」
「リックは了承しているからな。まあ、それよりも前に陛下に後押しされて決断したようだが」
優秀な子ども達だな、とロバートは言うけれど、決断という言葉にふさわしくしっかりと顔を上げているのはクライヴだけで、セドリックは少しうつむいている。同じプラチナブロンドに緑の眸でも、ふたりはだいぶ、印象が違う。クライヴは上背があって肩幅が広く、まだ細いながらもしっかりと鍛えられた体つきで、前世の自分・・・ヨナタンを見ているようだ。セドリックは少し華奢で、おとなしやかでエレガントな雰囲気がある。国王はセドリックを見た時、もしもジョナサンが普通の家で普通に育っていたら、こんなふうだったかもしれないね、と微笑んだのだが、もちろんジョナサンは知らない。
クライヴが言う。
「母上。ぼくは陸軍を改革したいです。父の所業を反面教師にして、すべての陸軍兵士を、オメガを差別しない、清く正しくたくましい兵士に指導監督する者になります」
「軍人は世襲制じゃないんだぞ」
「わかっております」
むしろ、少将だった父の所業が、クライヴの出世の足枷になるのではないかと、ジョナサンは心配したが、クライヴはそんなハンデを蹴り破ってこそ、アルファとして責務をまっとうするということだと決意をかためている。
いっぽう、セドリックの眸は、不安げに揺れていた。
「お母さまの来歴をうかがって、父の愚かさがわかりました」
セドリックの父親である大司教・・・罷免された元大司教は、リセットによってベータになり、一気に老化した上に様々な病魔に侵され、全身の痛みに夜も眠れない状態になった。にもかかわらず、オメガを蔑む考えを改めることができないらしい。セドリックがバース鑑定を受けてオメガだと判明すると、動けない身体で暴れ、巧くまわらない口で、代理母・・・、つまりジョナサンを罵倒し、セドリックのことも怒鳴りつけたという。
「本当なら、クライヴ兄さんのように教会を中から改革するような気概を持ちたいのです。ですが・・・」
オメガを罵倒する父親が恐ろしくて、委縮しているらしい。それに、オメガはヒートがあるから不浄であるとされていて聖職に就くことはできない。
「うちに来るかい?」
教会のトップがオメガを差別し、代理母として利用していたなど、国家として許せることではない。大司教はとっくに罷免され、蟄居閉門を命じられている。そんな家に縛られることはない。
と、そこに横槍が入った。
「ジョニー。本人の気持ち次第だが・・・、セドリックを俺とアーサーの養子に迎えさせてもらえないだろうか」
「え?」
「貴族学校での成績はすばらしいし、素直で真面目だ。文官として、俺の手で育ててみたい」
「しかし・・・」
どんなにアーサーを愛していても、ロバートはアルファでアーサーはベータだ。オメガのセドリックを託すのは、ジョナサンにしてみれば不安がぬぐい切れない。
そんなジョナサンに、ロバートは言う。
「きみが危惧しているのはわかる。セドリックが発現してヒートを迎えた時、俺がラットになるのではないかと思っているのだろう?」
あまりにもはっきり言われて、たいへんに気恥ずかしい。ロバート以外の全員が、気まずい空気を共有する。
が、空気は読むものではなくて吸うものである友人は、あっけらかんと言う。
「俺は鋤鼻器官を焼いたから、オメガフェロモンは感知しない」
「え?」
鋤鼻器官とは、アルファがオメガフェロモンを感知する器官である。
「アーサーと生涯をともにする上では、不要だ」
その潔さにあ然とする。
「・・・痛くなかったですか?」
ギルバートがいかにも子供らしい質問をする。質問は子供だけれど、内容をきちんと理解しているのだろう。ロジャーとサミュエルは、鋤鼻器官も焼いたというのがどういうことかもまだわからなくて、きょとんとしている。
「痛くても平気だったんだよ。アーサーを愛しているからな」
それまで黙っていたリチャードがため息をついた。
「男前すぎるだろ。俺の立つ瀬が無いじゃないか」
「何を言う。きみがジョニーのためにしたことを見て、俺は決断したんだぞ」
「そうなのか?」
「ジョニーをとりもどすためにベータになることすら躊躇わない、人類史上三例しかいない究極の愛の体現者なんだ、自信を持て」
「お前に言われるのは面映ゆいな」
「ともあれ、ジョニーを連れて帝国に移住するなら、セドリックは任せてもらえると、嬉しい」
セドリックは大人たちの視線を受けて戸惑い、サミュエルはジョナサンに向かって騒いだ。
「母さま、帝国に移住するのですか?!」
「あ~、まだ決定したわけじゃ・・・」
貧困家庭に生まれて食うや食わずで育ち、オメガだと判明してからずっと実の父親から利用されて奴隷のように扱われて生きてきたジョナサンにとって、前世の記憶がよみがえってリチャードやその妹や友人たちに大切にされている今は、もうそれだけで充分に幸せだ。帝国への移住に関してリチャードが言い出した時は、軽く聞き流していた。冗談だと受け止めたわけではないが、本気にしなかった。だからロバートやアーサーにまで話が広がっていたことに驚いた。
「いきなり移住じゃなくて、旅行にでも行ってみたらどうだ?」
アーサーが提言する。
「そうだな。このままずうっとただ引き籠って一生を終えるのもつまらないだろう?」
ロバートにも言われて、リチャードの顔を見る。
「旅行・・・?」
そんなもの、したことが無い。
「帝国だけじゃない。どこだって、行きたければ連れてってやるし、やりたいことがあるなら、させてやる」
ジョナサンの望むことなら、すべて叶えてやると、リチャードは決意している。
「父さま! おっとこまえ~! ですね!」
サミュエルに言われて、リチャードは顔を顰めた。
「どこでそんな言葉を覚えたんだ」
「ギルバート兄さまに教えてもらいました!」
男兄弟ならではのやりとりがあるのだな、と、ジョナサンは目を細める。自分で育てることはできなかったけれど、子ども達はそれぞれしっかりと育っているのだなと、胸がいっぱいになった。
失明するかもしれなかった新緑の眸。
痩せっぽちで傷だらけだった、ボロボロだった身体。
今は、傷ひとつ無い。全部、リチャードが与えたいのちによってリセットされた。誰にも、二度と、髪ひとすじの傷もつけさせない。
傷の無いジョナサンの顔は、前世のヨナタンが命を終えた時よりも年上なのに、幼く見える。普通の家庭で普通に育って、普通に暮らして、父親に暴力をふるわれたり売春や代理母をさせられる過酷な人生でなかったら、ジョナサンはこんなふうだったのだろう。大きな新緑の眸、すっとした鼻筋、つんととがった小さなくちびる。自分は今でもくちづけてもいいのだろうか。抱き寄せる資格があるのだろうか。
躊躇するリチャードを、ジョナサンがぐいっと引っ張った。
「おい!」
ジョナサンの上に倒れ込みそうになって、なんとかふみとどまった。それなのにジョナサンが、さらに強くリチャードを掴んで引き寄せる。
「・・・」
ジョナサンがなにか言ったのだが、声が小さくて聞き取れない。
「なに?」
訊き返すリチャードに、ジョナサンの緑に透ける眸が揺れる。閉じかけたくちびるが、少し、躊躇して、それからもう一度、言葉を紡いだ。
「ヒート、来た・・・」
ジョナサンにヒートが来ても、リチャードはもう、なにも感じない。フェロモンは感知できず、ラットにもならない。
リチャードは、ベータになったのだから。
ベータなので、ジョナサンのうなじを噛んだとしても、つがいにもなれない。
それでも。
ジョナサンの求めに応じて、その身体を抱きしめる。
俺がお前を忘れても SHIORI @shiori63m
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます