お茶目な母

 部活の親友たちと別れ、家路につく。

 俺はただいまと、家族に聞こえない声量で言った。

 腹が減ってたあまりに思わず三玉を注文してしまったので、自宅に帰っても当然空腹になるわけがない。

 学校には昼食を食べてから一時間も経ってないのに「腹減った」なんてぼやく男子もいるが、そんなのは運動部に限る話で、文芸部に所属する俺は到底考えられないことだ。どんだけ代謝たいしゃお化けなの?


 長時間き続けたローファーは、玄関を悪臭でただよわせるのには十分の代物になっている。

 そんな悪臭を充満させてくつを脱ぐと、リビングの方からおふくろが玄関へやってきた。

よしちゃん。おかえり」

「その呼び方、やめてくれない?」

 俺は片目を細めて、お袋をにらんだ。

「わかったわよ」

 とお袋は、俺の嫌そうな反応を見てふふふと笑って見せた。

「そういえば、何か今日はやけに静かじゃない? いつも腹減ったーなんて言いながら帰ってくるのに」

 お袋のえた勘に、俺は思わずぎくっとした。

紗彩さあやのことで悩んでるんだよ」

 俺は今考えられる最もらしい理由で、場を逃れようとする。実際悩んでいるのは本当だから。

「紗彩ちゃんのことで悩むのもわかるけど、あんたが悩む問題じゃない。大人が絡む問題なのよ、あれは」

「わかってるさ、そんなこと」

 言うまでもないことを聞かされ、苛立いらだちを抑えようと思っても抑えきれず、二階の部屋へ上がろうとする。

芳人よしひと

 最後呼び止めてきたが、俺は振り向くことなく足を止めた。


「今日、食べて帰ってきたでしょ?」

「……」

 母強し。

 その勘は、俺の前では太刀打たちうちできない。


「いやー食べてないけど」

「ほんとに言ってる?」

「ほんとほんと。食べてないから」

「目、らしてるじゃない」

 鋭い観察眼に尻込しりごみしかできない。

 そんな俺の様子に、これでもかと母親はため息をついた。

「母さんも学校帰りによくポテトとか食べてたから、あまり強くは言わないけどね、程々にしてよね」

「…はい」

 そう俺は、の鳴くような声で返した。

「ま、母さんのことはどうでもいいから。今は紗彩ちゃんの心の支えになってあげて」

 またもや俺は振り向かず、ああと短い返事を残して部屋へと上がっていった。


 部屋に入ると、紗彩の姿は見当たらなかった。

 廊下に戻って探してみたものの、いない。

 だが床を見れば、紗彩が寝ていたマットレスが、万年床まんねんどこのようにずっといたままになっている。

「ひとまず紗彩が戻ってくるまで、待つこととしよう」

 そう思い立ち、学習机にどっかり座りながら、携帯をいじろうとしたら、紗彩が部屋に入ってきた。


「あ、お帰り」

「おう、ただいま…って紗彩!?」

「どうしたの? そんなに驚いて」

 紗彩は首を傾けながら、俺の目をじっと見つめる。

 戦隊もののTシャツに、やや短めのハーフパンツ。俺の小学校時代のおさがりだ。

 それに紗彩からは、シャンプーの良い香りが漂ってくる。

 桃色の髪は湿っていて、ほほも少しほてっている。

 どっからどう見ても、風呂からあがったばかりだというのが見て取れる。

 俺の家に居候いそうろうしているので、寝間着ねまきにおさがりを着るのは当然だが、何だか妙に落ち着かない。

「あ、いや…風呂上りの紗彩さんがおうつくしゅうございまして」

 俺はそんな風に、誰でも見抜けるようなわざとらしいお世辞せじを言った。

「何それ~、変な芳ちゃん」

 くすくすと俺を見て微笑みかける紗彩。


「あれ、どうした? その両手に持ってるの」

 紗彩が両手に持っている湯呑ゆのみに気付き、そう俺は聞いた。

「あ、そうそう。おねえさんが、これ用意してくれた」

「お姐さん?」

「え、麻琴まことさんのことだけど?」

「お袋のことそんな風に呼んでるの……? やめてくれよそんなの、おばさんて普通に呼んでくれよ」

 どうもうちのお袋がすみません。俺は短く鼻で苦笑する。

「前おばさんて呼んだら、そう呼ぶのやめてって注意されたのを思い出したから。で、試しに今日お姐さんと呼んでみたら気に入ってくれた」

「おいおいまじかよ…」何だか俺がずかしくなってきた。ひたいに手をあて、軽くうつむいた。「もう何なら、おばあさんて呼んでも良いくらいだから」

「だめだよ、それは流石さすがに! 失礼だよ」

 身を乗り出しながら、紗彩がそう言ってきた。

 若干辟易へきえきしながら「お、おう」と返答したが、紗彩がそう思うのも納得した。

 俺が強引に紗彩の居場所を用意したけど、それを許して、今こうして保てているのも、他でもないお袋のおかげ。

 そんな人におばあさんなんて、無礼極まりないことを紗彩が言えるわけないか。後でちょっぴり反省しておくか。

「わかったよ。んなことよりお袋からのそれ、ありがたくいただくか」

「うん、そうだね」

 そう言い、俺と紗彩は湯呑に入った緑茶りょくちゃの温もりを手の平で感じつつ、なごむことにした。


「あ、茶柱ちゃばしら!」

「え、本当に!?」

 見てみると確かに、紗彩の湯呑からは縦に細長く茶柱が浮かんでいた。

「この先、何か良いことあると良いな」

「う、うんっ」

 若干不安そうな顔色が混ざった紗彩の笑顔。

 それでも俺は、向日葵ひまわりでも咲いているかのような、今まで一番まっすぐでほがらかな笑顔だなと思った。

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