第2話 氷壁の侯爵
セイリス・アイルバルト――広大な領地をもち、王国に古くから仕えてきたこともあり、国王からの信頼が最も厚いとされる侯爵家当主。
アイルバルト家を背負うには二十六歳という年齢は若くはあるが、それが足かせにならないほど優秀で、貴族社会で彼を知らぬ者はいないという。
社交界では常に注目を浴びる存在であり、一歩パーティー会場に足を踏み入れれば、大勢の女性たちが彼の元に集うのだとか。
だがセイリスは、誰に対しても、どんな場面であっても表情を変えることはなく、常に冷然としている。
そんな彼の様子を見た人々は、いつからか彼を『アイルバルトの氷壁侯爵』と呼ぶようになった。
夫の氷壁は、妻となったレヴィアに対しても変わらなかった。
「私があなたに求めることは、アイルバルト侯爵夫人としての必要最低限の務めだけだ」
嫁いできて早々、レヴィアに告げられたお飾り妻宣言。
話を聞くと、いつまでも結婚しないセイリスに対し、早く結婚しろと周囲がうるさく騒ぎ立てたらしい。挙句の果てにはアイルバルト家の力を狙い、王族の中でも立場が弱い者たちが、自分の娘をセイリスにとすり寄ってくる始末。
うんざりした彼は、権力欲しさにすり寄ってくる者たちを排するため、形だけでも妻を迎えようと決めたのだという。
「私はこの血を残すつもりはない。だから結婚するつもりもなかった。しかし普通の相手と結婚すれば、子どもの件で揉めるだろう。だから、丁度同じ条件をあげるあなたを妻として迎えたのだ」
いずれ子は、親族の中から優秀な男児を養子に取る予定であり、夫婦生活すら必要ない、と初夜の時に言って早々に退室した夫の姿を思い出し、レヴィアは眉間にしわを寄せた。
血を残すことは、血筋を重視する貴族にとって大きな役目。それを放棄するとは。夫が子を残したくない理由を考えてみるが、結論は出ず、考えるのを止めた。
レヴィアに説明しているときの彼は、表情一つ変えず、終始冷ややかだった。そんな夫に恐怖じみたものを感じ、レヴィアも突っ込んで訊ねることはしなかった。
(改めて考えると……私はトンデモない人の妻になってしまったのでは?)
人間味のない夫の態度に、そんな後悔すら過る。
だが、生活自体は快適だ。
本当に仮面を被っているのではと疑わしい夫とも、必要最低限の関わりしかもっていない。彼は忙しく、ほとんどを王都のタウンハウスで過ごしているからだ。
屋敷の使用人たちも親切で、元貧乏伯爵のレヴィアを見下すことなく、侯爵夫人として丁重に扱ってくれる。
そして実家では考えられなかった、三食昼寝付き。
なにより、お金のことで頭を悩ませる必要がない。
旦那はあれだが、今の生活は最高だった。
(まあいいわ。私だって子どもを産まないって豪語してたわけだし。いえ、本当は産みたい気持ちはあるけれど――)
そう思った瞬間強い風が部屋に吹き込み、一つだけ灯っていた蝋燭の火が消えた。
部屋に闇の帳が下りる。
「あっ、しまっ――」
慌てて蝋燭を付けようと手を伸ばすレヴィア。しかしその手が蝋燭に届くことはなかった。
目の前の景色が歪んだかと思うと、突然全身が布で包まれた。モゾモゾしながら、体に纏わり付く布の中から抜け出すと、視界が開けた。光は、窓から差し込む月明かりだけなのに、周囲の様子が良く見える。
視界がさっきよりもかなり低い。すぐ目の前に椅子の脚が見えた。
レヴィアは異変を気にすることなく、鏡台の上に【跳んだ】。鏡に映る自分の姿を見てため息をつく。
「はぁー、やっちゃった……」
そう言ったつもりだったが、彼女の口から出たのは、ニャーというか細い声。
長く真っすぐな黒髪、気の強そうな眉や少し吊り上がった金色の瞳など、人としての特徴は何一つ鏡に映っていない。
代わりに映っていたのは、金色の瞳をもつ一匹の黒猫だった。
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